vol.180「平将門魔法陣」を巡って(前編)


江戸の北斗七星結界、別名「平将門魔法陣」。どこまでホントか分からない都市伝説的な話ではあるが、サッと行ける範囲に全部あるので、御朱印集めがてら行ってみることに。


なんでも1日で日没までに決められた順番通り巡ると、特別なご利益を得られるらしいが、各社をじっくり味わいたいのでそれはやめといた。ここでは一応その順番ルール通りに記載するが、実際に巡った順序はバラバラである。祟られないと良いのだが。




① 鳥越神社


この神社はかなりの古社で、「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」が東征の際にこの地にやってきたことに因んで、651年に日本武尊を祀って白鳥明神としたのが始まりとされている。その後、奈良時代にこの地に国司として赴任した藤原氏が、祖神である天児屋根命を祀ったそう。


その後、平安後期に東北地方で起こった前九年の役の制圧のために源頼義・義家親子がこの地に来た際、白い鳥が飛ぶ位置から浅瀬の場所を知ることができ、大軍の移動に役立ったことを白鳥明神のご加護として、鳥越大明神の社号を奉ったという。


一方で、神社の由緒書きにはないが、この地は平安中期に、平将門公の首が飛び越していったので「鳥越=飛び越え」という地名・社名になったという説もある。将門公の身体はバラバラにされて江戸各地に埋められ、こちらの鳥越神社には「」が埋められたとも。


確かに、鳥越神社の神紋を見てみると、将門のそれと大変似通っている。「七曜紋」と呼ばれる紋章で、七つの星は北斗七星を表していると考えられ、妙見信仰を表す紋章であることから将門との関連を匂わせる。さらに鳥越神社・宮司の鏑木家は将門ゆかりの千葉一族の末裔と言われており、本殿の後ろ側の祖霊舎に将門がお祀りされていたという逸話もあるが、真偽は不明である。


江戸時代までにここには三社の神社が成り、一帯の約2万坪の広大な敷地を所領していた。元和6年(1620年)、江戸幕府が全国の天領からの米を収蔵するため、隅田川沿いに蔵(浅草御蔵)を造営することとし、この埋め立て用に大明神のある鳥越山を切り崩すことになり、土地を没収されてしまった。さらに、大明神の北側にあった姫ヶ池も鳥越山からの客土で埋め立てられ、大名屋敷などの御用地とされた。


三社のうち熱田神社は今戸へ、第六天榊神社は森田町(現・蔵前3丁目)に遷され、残った大明神が現在の鳥越神社である。



② 兜神社


東京都中央区日本橋兜町に鎮座する神社。旧社格は無格社で、兜町の鎮守。ほぼ向かいにある東京証券取引所の鎮守であるため、証券界の守り神・商業の神様として信仰を集める。天慶3年(940)、承平天慶の乱で平将門を討ち取った藤原秀郷が、岩がある当地で将門の兜を地中に埋めて供養したと云われている。


近くの「鎧橋(よろいはし)」のたもとには「鎧の渡し跡」の説明板が設置されている。「江戸名所図絵」によると、平安時代、源義家が奥州攻めに向かう途中、ここで暴風雨にあったが、鎧一領を海中に投じて龍神に祈ったところ、無事に渡ることができた、という伝説が残っている。古くは、延宝7年(1676)の絵図にもその名が記されており、明治5年(1872)に鎧橋が架けられるまで存続した渡し場である。


兜なんだか鎧なんだか分からなくなってくる。



③ 平将門首塚


将門塚がある地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれ、住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行僧・真教上人が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神(神田神社)の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。


第二次世界大戦における東京大空襲と日本の降伏後に戦災復興都市計画として、連合国軍占領下の日本を実質的に統治したGHQは、丸の内・大手町周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去・造成しようとした。この時、不審な事故が相次いだ。アメリカ軍のブルドーザーが作業中に横転し、運転手が投げ出されて死亡。それまでも事故があり日本人の労務者に怪我人が出ていたので付近を調査したところ、転覆したブルドーザーの前に半分埋まっている墓のようなものが見つかり大騒ぎとなった。将門の首塚の碑であることが判明し、GHQ当局に陳情を重ねた結果、塚の取り壊しが中止された。


2016年(平成28年)から2020年(令和2年)にかけて隣接地で都市再開発事業「大手町ワン」の建築が行われた。この工事終了に合わせて2020年(令和2年)、将門没後1081年にあたって1961年昭和36年)の第1次整備工事以来、数えて第6次の改修工事が実施された。第6次改修整備以降、一般参詣者の敷地内に供物、物品の寄進、お線香台の利用は禁止となっており、注意が必要。


上記の改修工事以前、境内には蛙(カエル)の置物が多数奉納されていた。これは将門の首が平安京から飛んで帰ったという伝承にちなみ、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、左遷に遭った会社員が元の会社に無事に戻ってこられるように、あるいは誘拐されたり行方不明になったりした子供が無事帰ってこられるように、といった願いをかけて供えられていた。



④ 神田明神


天平2年(730)に現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺に創建された。その後、将門塚周辺で天変地異や疫病が頻発し、将門公の御神威として人々を恐れさせたため、遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、その2年後に将門の霊を神田明神に合祀することで、ようやく疫病が収まったという伝承もある。


戦国時代になると、太田道灌北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬され、慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行なった。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられた。


元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営された。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬を受けた。


明治7年(1874)、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、昭和になるとNHK大河ドラマなどで放映され、将門の人気も上がり、将門神は昭和59年にめでたく本社に復帰となった。


神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺(千葉県成田市)を参拝してはいけないというタブーが伝えられている。これは朝廷に対して叛乱を起した平将門を討伐するため、僧・寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と共に現在の成田山新勝寺へ遣わせ、乱の鎮圧のため動護摩の儀式を行わせたことによるもので、即ち、新勝寺参拝は将門を苦しめるとされるため。


これにより1000年以上たった現在でも将門と家来の子孫や神田明神の氏子たちは、成田山に詣でると将門の加護を受けられないという伝承で、参詣しない人が多くなった。NHK大河の当時の出演者も成田山には参詣しなかったほどで、逆に成田山に参詣すると災いが起きるとも云われている。


なお、同じく将門を祭神とする築土神社にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。




さて、江戸幕府が滅んで明治政府が国政を担う世の中になり、明治政府はこの将門の魔法陣を再構築するために、東京の街に鉄の結界を張って、将門の魔方陣を更新したと言われている。鉄には霊力を封じる力があるとされ、その鉄で北斗七星を分断。それが山手線である。しかし、山手線が実際に環状運転を始めたのは大正14年(1925年)からで、それまでは「C」や「の」の字運転だった。つまり、それまでは結界がまだ完成していなかったため、大正12年(1923年)に起こった関東大震災は、将門の怨念が漏れ出たものという都市伝説もある。


信じるか信じないかは、あなた次第。

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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