vol.181「平将門魔法陣」を巡って(後編)


さて、「平将門魔法陣」めぐりの続きである。


最近この系統の関連図書ばかり読んでいたら、なんかもう本当にそうなんじゃないかと思えてきた。で、そうなんじゃないかと思えてくると、風水とか鬼門とか、将門の怨霊パワーとかも信じ始めてくるわけで。で、信じ始めてくると、どうなるかと言うと、、怖くなってくるのですよ、世の中が。


普段、近所にあるけど気にもしなかった寺社仏閣のすべてが、風水やら鬼門やら結界的な役割を持った霊的装置のように見えてきちゃって、怖い怖い。そんな「畏怖の念」と共に、おっかなびっくり怖いもの見たさな感じで、残りの神社を巡ってきましたよ。




⑤ 筑土八幡神社


神楽坂より少し離れた場所にある、小高い山の上にひっそりと佇む歴史ある神社で、地域の安全と繁栄を祈願する産土神(うぶすながみ)として信仰を集めている。北斗七星伝説の核である平将門の痕跡は一切見当たらず、祀られているのは応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱。八幡神社なのだから、応神天皇が主祭神なのは当然といえば当然なのだが、「なぜこの神社が“北斗七星の一つ”なのか?」と疑問が湧く。


ところが、そのルーツをたどると、ある驚くべき歴史が浮かび上がってくる。もともとこの神社は「津久戸明神」と呼ばれ、平将門を主祭神として、大手町近くの地(現在の将門塚付近)に鎮座し、将門信仰の中心地として、多くの民衆に親しまれていた。


京都七条河原で獄門になった将門の首を東国へ持ち帰った際の「将門の首を運んだ首桶」が長らく保管されており、中身を見ると目が潰れると恐れられ、秘仏のように扱われていた。江戸時代の様々な書物にも、その存在が記され、大正時代には写真も撮られているが、昭和20年の戦災で焼失してしまい、現在は写真のみが残っている。

江戸時代初期は幕府の加護を受けて、広大な境内地を持ち、山王日枝神社、神田明神と共に江戸三社と呼ばれていたが、やがて、天海の都市設計の一環としてこの神社を現在の新宿区へと“遷座”させられる。これが、江戸の街に結界を張るため、将門ゆかりの神社を北斗七星に見立てて配置したという“江戸結界伝説”の一角にあたる。


しかし、明治期に入ると状況は大きく変わる。明治政府の宗教政策により、将門は“朝廷に刃向かった逆賊”とされ、公的に祀ることがはばかられる存在となる。築土神社でも主祭神は将門から天照系の天津神「天津彦火邇邇杵尊(ににぎのみこと)」へと差し替えられた。瓊瓊杵尊は天照大神の孫にあたり、天皇の祖先とされる神。将門を外して自らの系譜を中心に据える──明治政府が掲げた「国家神道」の象徴的な再編だったとも言える。こうして、将門という人物の存在そのものが、“記録の上では”なかったことにされた

その後、太平洋戦争の戦禍により、神社は焼失。のちにその祭祀は千代田区九段の「築土神社」へと引き継がれた。現在ではそちらが「津久戸明神」の後継とされており、新宿区の筑土八幡神社には、平将門の名も痕跡も見当たらない。けれど、丁寧にその由来を辿っていくと、そこには確かに「語られなかった歴史」と、「権力によって消されながらも、ひそやかに受け継がれてきた記憶」が存在していることが分かる。


名前を奪われ、祀り替えられても、信仰の記憶は人々の心に残り、やがてこうして“再発見”される。つまり、権力によって書き換えられた歴史に対し、「民の想い」が静かにカウンターを打つ構図がここにあるのだ。それこそが、都市伝説の真髄ともいえる面白さであろう。




⑥ 水稲荷神社


旧称「冨塚稲荷」と命名されたが、元禄15年(1702年)に霊水が湧き出し、その水で眼を洗ったところ、眼病がたちまち治ったとされ、江戸市中で大評判となったことから現社名の「水稲荷神社」と改名された。眼病のほか水商売および消防の神様として有名である。


ここは「将門を討った男」藤原秀郷が創建した神社であり、創建は平安時代の941年、藤原秀郷が平将門討伐を記念して「冨塚稲荷(高田稲荷)」を勧請したという。


一説によると、秀郷は密かに、将門と面会し、共に新しい国を作ることを模索したとも言われている。しかし、秀郷は、あえて将門とは袂を分った。朝廷には逆らえぬ命令の中で、民を守るという志を共有した同志を討たなければならないという矛盾。


朝廷という抗い難い巨大な勢力に対抗する中で、同じ志を持つもの同士、どちらかが生き残ることで想いを未来へと残そうとした──。だからこそ、”勝者”となった藤原秀郷は後に、密かに神社を建立し、将門の魂を祀ったのではないか──。


他にも、水稲荷には「霊水伝承」があるので、水にゆかりのあるこの社を配置することで、妙見信仰で重要視される“水の気”との整合性を取っているという考え方もあるらしい。




⑦ 鎧神社


JR大久保駅と東中野駅の中間の地である北新宿。新宿に近いとは思えないほど、閑静な住宅地が広がっているところに鎧神社は鎮座している。日本神話の悲劇のヒーロー「日本武命(やまとたけるのみこと)」と、関東の英雄「平将門公」の鎧が、この地に眠っていると古来より言い伝えられ、人々の崇敬を集めてきたという。


創建は、約千百年前の醍醐天皇の時代(898~929年)。創建以前から、この地は一つの伝説が伝えられており、武の神様として名高い日本武命が天皇の命によって東国の平定に向かったとき、当地に甲冑六具を蔵めた(しまいかくした)という。


また、天慶三年(940年)、関東に威をとなえていた平将門公を討った後、重病となった藤原秀郷が、 将門公の神霊の崇りであると恐れ、将門公の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、 病気がたちまち治ったとか。 それを聞いた人々はその御神徳に恐れ畏み、以後、村の鎮守の社として近隣の尊崇を受けた。


これらのことから、「鎧」の社名が起こったと伝えられている。江戸時代まで、鎧大明神と称し、この辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、明治初年、将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後、氏子全員の願いで本社に復する。

江戸名所図会には、「相伝ふ、藤原秀郷将門を誅戮し凱旋の後、将門の鎧をこの地に埋蔵し、上に禿倉を建てて鎧明神と称すというふ。社前に兜松と称する古松あり。これも兜を埋めたる印と云ふ。」と記されている。(兜松は鎧大明神のシンボルであったが、残念ながら明治に入ってからの台風によって倒木してしまったと云う。)



はい。ってことで全部めぐって来ましたが、まあ「平将門魔法陣」という概念がなければ、普通に「ああ神社行ってきたわあ〜清々しいわあ」程度の体感ですよ、実際は。でも、こうして「、、こ、ここが結界の一角なのか、ぐむむ、、」と気張って行くと、なかなかその味わいも違いまして。なんつーか視点が俯瞰になると言うか、日本の大地と精霊と八百万の神々の存在を感じた気になると言うか。


ま、その辺は人の感じようですので「はいはいそうですね」と流していただくとしましても、とりあえず平将門の時代から今に至るまで、何かしらの痕跡が残ってるっていうのは、感慨深いものでございました。


たまには足を使うのも悪くないですね。



一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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