太田道灌って「初期の江戸城を建てた人」ってくらいしか私は知らない。でも、それで至って普通なのではないだろうか。だって、マジ習わなかったもん。間違いなく歴史の授業では1mmも習わなかったですよね? だったら知らなくて何ら恥じることではないでしょうよ。むしろ、江戸城を創ったこと知ってるだけ偉いと思うの。道灌って何て読むのかすら知らないでいる人いっぱいいるんだから。
てことで。せっかく平安時代からなんとか室町時代まで戻ってきたことだし、ついでに太田道灌さんについて調べておきましょかね。なんせ、知っとけば知っとくだけ「すごい」って思われる穴場ボーナスステージなんですから。
● 関東の知恵者、太田親子
室町時代は、幕府は京都にあったが、東国支配として鎌倉公家(くぼう)が鎌倉に置かれていた。鎌倉公方には、幼少の公方を補佐するために関東管領(かんれい)が置かれており、この役職を名門・上杉家が受け継いでいた。その上杉家の中でも「山内上杉家」と「扇谷上杉家」の二家が特に勢力を持っていたとされている。
太田道灌の父である「太田道真(資清)」は、扇谷上杉家に属しており、扇谷上杉家が行う関東管領を補佐する役職を取り仕切っていた。道真は、若年より文武に励んだ優れた武将で、関東の諸将は草木が風になびくように彼に従ったという。山内上杉家を支える「長尾景仲」と、扇谷上杉家を支える「太田道真」の2人は、「関東不双の知恵物(案者)」と呼ばれるほど重要な人物であった。
永亭4年(1432)、そんな「関東不双の案者(知恵者)」と称えられた武将の子として生まれた太田道灌は、幼少期から由緒ある寺や当時の高等教育機関で学問に打ちこみ、その利発さが世間に広まった。これを聞いた山内上杉家が、太田道灌を家臣に迎えようとしたが、扇谷上杉家が「この少年の価値はどんな財宝にも代え難い」として、道灌を手放さなかったという。
道灌の幼少時における英才ぶりを物語る逸話として、
『太田家記』によれば、父・道真が俊英にすぎる道灌を心配して「知恵が過ぎれば大偽に走り、知恵が足らねば災いを招く。例えれば障子は直立してこそ役に立ち、曲がっておれば役に立たない」と訓戒すると、道灌は屏風を持ち出し「屏風は直立しては倒れてしまい、曲がっていてこそ役に立ちます」と言い返した、という。
また『寛政重修諸家譜』によれば、ある日父・道真は筆をとって「驕者不久」(驕れる者は久しからず)と書いた。すると道灌はこれに2字書き加え「不驕者又不久」(驕らざる者も久しからず)とした、という。
100年以上後の江戸時代に書かれたものなので、そのまま事実とは考えられないが、道灌の才気と物おじしない毅然とした性格を示す逸話として知られている。
● 享徳の乱、はじまる
享徳4年(1455)、鎌倉公方(関東を統治した鎌倉府の最高職)の「足利成氏」が、関東管領の「上杉憲忠」を暗殺するという事件が勃発。上杉家は兵を挙げて武蔵高安寺にいた足利成氏を攻めたものの、反撃に遭い、扇谷上杉家の当主「上杉顕房」が討たれてしまう。
駿府今川氏が室町幕府の使者として事態の鎮圧に乗り出すと、足利成氏は下総古河城に立て籠もり、上杉家に不満を持つ関東周辺の領主、豪族の支持を集め「古河公方」を名乗って、足利将軍家・上杉家と対立。これにより関東は利根川を境に分断され、28年間にわたって続く争いが「享徳の乱」である。
太田道灌が太田家の家督を継いだのは、享徳の乱の真っ只中。24歳になった太田道灌は、古河公方の勢力に対抗するため、防衛拠点の設営を急いだ。
関東の守護神として「天子の御旗を掲げ関東御静謐を実現する」との大義のもと、戦力の少ない扇谷上杉家を取りまとめ、古河公方に対抗する拠点として、平安時代末以降、江戸氏の館があった今の江戸城の本丸、二の丸辺りに江戸城を築き上げた。この城のできばえが見事だったため、それからも城造りにかかわり、河越城、岩槻城、大庭城を築城。「築城名人」と呼ばれるようになった。
道灌が、江戸城を築城する際には、現在の赤羽、湯島、品川、川崎の夢見が崎などが候補地となったが、その後、城の築城にあった地形などが考慮されて江戸に決められたとされている。後に、徳川将軍家が拡張した江戸城を転用した皇居には、現在も「道灌濠」の名が残る。江戸城城主となった道灌は、ここで兵士の鍛錬に勤しみ、城内に弓場を設けて士卒に日々稽古をさせて、怠ける者からは罰金を取り、それを兵たちへの茶代に充てたという。
江戸城の築城の後には、日枝神社をはじめ、築士神社、平河天満宮、市ヶ谷亀ヶ岡八幡など今も残る数多くの神社を周辺に勧請。神社の勧請は、神仏の力を借りるという建前もあったが、戦国時代にみられる「要地に神社を配置して陣所や砦にする」という狙いもあったようだ。
太田道灌といえば、多くの神社の創建や再興を行った人物として名前を聞くことがあるが、これらは戦国時代の生き残りを賭けた戦略の一環とも言える。
そこからの30年はごちゃごちゃしていて分かりにくいので割愛する。そして、ようやく文明14年(1482)、上杉一族と足利成氏の間で和睦が成立し、約30年続いた「享徳の乱」が終結。ついに関東での争乱は収まった。
この長い争乱のなかで、太田道灌は30回以上も出陣しながら1敗もしていない。兵同士の一騎打ちが戦の主流だった当時、太田道灌は集団で戦う「足軽戦法」を駆使したことにより、常勝を果たしたのだ。
● 有能すぎたがゆえに暗殺さるる
数々の武勲を挙げて名将としての地位を確固たるものにした太田道灌であったが、その生涯には悲しい結末が待ち受けていた。出る杭が打たれるのは世の常。太田道灌の活躍によって扇谷上杉家の勢力は増大したが、主君の扇谷上杉家当主「上杉定正」は太田道灌が主君を軽んじていると思い、疎ましく感じるようになっていた。
太田道灌も「太田道灌状」という書状を山内上杉家家臣宛に送っており、それには正当評価されていないという不満が書き綴られていたという。このまま放置しておけば、やがて太田道灌が謀反を起こすとでも考えたのか、文明18年7月26日(1486年8月25日)、扇谷定正の糟屋館に招かれ、入浴後に風呂場の小口から出たところを襲われ、暗殺された。
死に際には「当方滅亡」と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である。享年55。この予言通り上杉家は以後衰退の一途を辿り、やがて上杉家は越後の「長尾景虎」に管領職と上杉の名前を譲らざるを得なくなった。「上杉謙信」の誕生である。そして「北条早雲」は、その間隙をついて関東に入り、関東を手に入れてしまうのである。
城を築いたり、戦で活躍したりして仕えていた扇谷上杉家に尽くしたものの、報われることがなかった太田道灌。しかし、江戸時代になると非業の死を遂げたその生涯が人々の琴線に触れることになり、悲劇の英雄として語り継がれることになった。
● 「山吹の娘」という逸話
ある日、道灌が部下と狩りに出かけたところ、突然の雨に見舞われ農家で蓑(みの)の借用を申し出た。応対に出た若い娘はうつむいたまま、山吹の一枝を差し出すのみ。
事情が分からない道灌は「自分は山吹を所望したのではない。蓑を借りたいのだ」と声を荒げるが、娘は押し黙るのみ。
しびれを切らした道灌はずぶ濡れになって城に帰り、古老にその話をした。
すると、古老は「それは平安時代の古歌に “ 七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき ” という歌があり『蓑』と『実の』を懸けています。貧しい家で蓑ひとつも無いことを山吹に例えたのです。殿はそんなことも分からなかったのですか」と言われた。
道灌は自らの不明を恥じ、その後、歌道に精進したという話である。
これは戦前の教科書に載っており、年配者には知られた話である。実話かどうか不明だが、江戸中期の儒学者・湯浅常山が書いた「常山紀談」に載っており、庶民は好んでこの話を講談や落語で取り上げた。現在、山吹の里を自称する町は関東に十数ヶ所あり、新宿区にも「山吹町」と言う地名がある。
調べてビックリですよ。天下無敵の英雄じゃないですか。
「もしも太田道灌が主君に殺されなかったら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない」と言われてるそうだが、いや完全に変わりまくってたでしょうよ。まさかこんな名武将だったとは思わなんだ。なんで殺しちゃうかね、上杉家のバカ!
てか上杉家って、もとは関東にいたんだ、、。で、内輪揉めばっかしてるから衰退して越後の「謙信」に「上杉家」取られちゃうんか。知らなかった〜! でも、ざまあですな。
参考
https://doukan.jp/about
https://www.touken-world.jp/tips/44318/https://www.homemate-research-castle.com/useful/16994_tour_075/
https://www.library.city.arakawa.tokyo.jp/contents?1&pid=1068
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