太田道灌ゆかりの神社を検索したら、むちゃくちゃいっぱいあって泣きそうになる。とりあえず都内の神社ならば、まあ行けないこともないのでダルくなる気持ちを振り切って、妻と一緒に行ってみることに。40代後半ともなるとウォーキングがてらのこんな休日が楽しかったりするのですよ。勉強にもなるし、運動にもなるし、妻も喜ぶし、良いことづくめ。
● 山王日枝神社
山王日枝神社は、武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478)太田道灌公が江戸城内に鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として江戸の町の繁栄の礎を築いた。
やがて天正18年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、又江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬された。
6月15日の大祭である山王祭は、その規模は東都随一と称され、京都の祇園祭、大阪の天神祭と共に日本三大祭のひとつと称され、その祭礼に係わる費用を幕府より支出したことから「御用祭」とも言われた。神輿の渡御以外に「附祭」といって、各氏子町が出した山車や踊り屋台などの余興が盛大に繰り広げられ、これを目当てにした見物客でにぎわった。
寛永12年(1635)家光公が城の楼上にて神幸行列を観覧し、これが「徳川実紀」における将軍上覧の初見となる。以後、将軍の上覧は江戸時代を通じて恒例となり、神輿の城内渡御は106回を数えた。絵に描かれているのは、巨大な白象の造り物である。山王祭の附祭における曳物と呼ばれる張りぼて人形の練り物のひとつで、象の脚の部分に人が入って練り歩いた。
しかし、明暦3年(1657)の大火に社殿炎上の災に遇う。時の将軍家綱は、直ちに赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に充て、結構善美を尽くした権現造の社殿を造営・遷祀して、天下奉平、万民和楽の都を守護する祈願所として崇敬した。
2024年、コロナ明け6年ぶりの山王祭復活を祝って、「半蔵門」の由来の一説とされる象の山車が初登場。江戸時代の山王祭で、象の山車が作られたが、大きすぎて、門に半分しか入らなかったという逸話から制作された。
● 柳森神社
柳森神社は、1458年(長禄2年)、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社。椙森神社・烏森神社と共に、江戸三森の一社と呼ばれた。
通称おたぬきさんと呼ばれる柳森神社は、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉の母「桂昌院(けいしょういん)」が信仰した福壽神が祀られ、「たぬき = 他に抜きんでる」ということから、立身出世や勝負事・金運向上・商売繁盛・良縁などに御利益があるとして信仰を集めてきた。
● 築土(つくど)神社
江戸時代の文献によると、社内には平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものが安置されていたといわれ、数ある将門ゆかりの社寺の中で、将門信仰の象徴的神社となっていた。明治に教部省の指示により将門は相殿に格下げされ、現在は天津彦火邇々杵尊が当社の主祭神となっている。
戦災で社が焼失するまで、将門の首を納めたという首桶、将門の肖像画(束帯姿)、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていた。昭和20年4月、戦災により社殿とともにそれらは焼失し、現在は一部の写真が残るのみである。
天慶3年(940)6月、江戸の津久戸村(上平川村、現:千代田区大手町一丁目将門塚付近)に平将門の首を祀り、塚を築いたことから「津久戸明神」として創建されたという。
室町時代に太田道灌により、田安郷(現:千代田区九段坂上)へ移転させられて以降は「田安明神」とも呼ばれ、日枝神社、神田明神とともに江戸三社の一つにも数えられることもあった。神社の位置は田安、牛込、筑土八幡町、富士見へと移り昭和29年に現在地に移転した。
● 平河天満宮
江戸平河城城主・太田道灌公が、ある日「菅原道真公」の夢を見た。そして、その翌朝、菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であると思い、文明10年(1478)に城内の北へ自ら施主となり、天満宮を建立した。その後も周囲に多くの梅の木を植え、やがてここを梅林坂と呼ぶようになり、今も皇居平川門内にその名が残っている。
徳川家康公の江戸平河城入城後間もなく、築城のため本社を平川門外に奉遷したが、慶長12年(1607)二代将軍秀忠公により、貝塚(現在地)に奉遷されて、地名を本社にちなみ平河町と名付けられた。徳川幕府をはじめ、紀州、尾張両徳川家、井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼には、宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
江戸時代後期の医者・蘭学者である「高野長英」は、大観堂学塾がすぐ裏手にあったので参拝によく訪れていたという。また、盲目の国学者「塙保己一(はなわほきいち)」が、境内の版木屋で受けた差別的体験が、のちに『群書類従』(法律、政治、経済、文学、医学、風俗、遊芸、飲食などの文献を収める)編纂の精神的支えになったという逸話もある。ヘレンケラーの母親はその塙保己一を教育の手本にしていたという。
● 太田姫稲荷神社
社伝によると、室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って生死の境をさまよい、京都東一口の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が、一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた。
徳川家康の江戸入府後、慶長11年(1606)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川のほとりに遷座した。明治5年(1872)、村社に定められ、名も太田姫稲荷神社と改めた。
ひとまず以上が、太田道灌ゆかりの神社めぐり「千代田区編」である。千代田区だけでこんなにあるとは。それにしても、江戸氏 → 道灌公 → 徳川家 の流れが必ずあるのが面白い。そして、ちょいちょい平将門も絡んでくるからまたグッとくる。この土地の歴代の覇者たちが、寺社を通じてオーバーラップするこの感覚は、なかなかオツなもんですな。
平安時代からおさらいして良かった。
ありがとう豆田マジメ。
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