vol.108「天狗党の乱」について改3(復活)


これまで、たくさんの志士たちが発起しては散っていった事件を見て来た。そのどれもに各自の曲げられない信念があり、国や民を想う美学があったように思う。


だが、天狗党は何かが違う


西日本の過激派よりもさらにブッ飛んじゃってると言うか、キマッちゃってると言うか。なんせ、始まりはあのバカ斉昭を擁立した一派で「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」という意味で「天狗」と呼ばれていた集団である。誕生のルーツからして既に美学がない。一体こやつらは何がしたくて、実際は何をやったのか、ちょっと気になるので調べてみた。




⚫︎ とにかく天狗党の激派はヤバい


井伊直弼がなお政権の中枢にあった頃、水戸藩では朝廷から下された「戊午の密勅」を返す、返さないで藩論が対立し、いわゆる激派鎮派へと分裂した。やがて激派の一部は脱藩し、江戸において薩摩藩の浪士であった有村兼武・兼清兄弟らと結びつき、万延元年(1860)3月3日、江戸城桜田門外において井伊直弼を襲撃・殺害するに至る(桜田門外の変)。


さらに徳川斉昭の死後も、こうした急進的な尊攘派の活動は収束することなく、文久年間には「第一次東禅寺事件」や「坂下門外の変」など、外国勢力や幕府要人を標的とした一連の事件が相次いだ。これらは、当時の政治情勢を著しく緊迫させる要因となった。


なお、新選組初代局長とされる「芹沢鴨」も、この天狗党の一派だったと言われている。なるほど芹沢鴨の傍若無人な振る舞いも、天狗党出身ならではのものと思えば、頷ける。やはり根本的に天狗党の奴らは何かが違う。水戸の水戸学なる教育が、彼らを狂わせていくのであろうか。水戸学は尊王思想を強く打ち出す一方で、血気盛んな男たちを排外的・急進的な行動へと傾斜させる魔力があった。


その後、一時的に尊攘運動の主導権は長州藩などに移るが、文久3年(1863)の八月十八日の政変によって長州勢力が京都から排除されると、再び水戸系の尊攘派浪士が台頭する状況が生まれた。こうなると、じっとしていられないのが天狗党。幕府が横浜鎖港を実現できずにいる現状に強い不満を抱いた「藤田小四郎(藤田東湖の四男)」は、幕政に直接的な圧力を加えるべく、元治元年(1864)3月27日、筑波山において同志とともに挙兵し、いわゆる「天狗党の乱」が勃発した。


この蜂起は、先行する天誅組の変や生野の変と同様、急進的な尊攘思想に基づく武装行動であり、幕末期における過激派運動の典型例と位置づけられる。そこには、強い理念と行動力が見られる一方で、情勢判断や現実的な政治対応を欠いた側面も指摘されている。「天誅組の変」「生野の変」から何も学ばず、何も足さない、何も引かない、ありのままで、レリゴーレリゴー。発狂した国粋主義者ほど手に負えない物はない。




⚫︎ 一瞬で暴徒と化した天狗党の乱

天狗党の挙兵の報に接した水戸藩主「徳川慶篤」は、事態の鎮静化を図るべく、「山国兵部」に彼らの説得を命じた。しかし、山国自身もまた天狗党の主張に共鳴し、結果として一行に加わることとなる。どうやら天狗ウイルスは感染するらしい。以後、各地から浪士や農民が次々と合流し、数日のうちに150名規模へ、さらに最盛期には約1,400名に達する大集団へと拡大した。


元治元年(1864)4月の段階で、天狗党は日光東照宮を拠点とする構想を抱いたが、日光奉行が周辺諸藩に協力を要請し、厳重な迎撃体制を整えたため、これを断念せざるを得なかった。その後、長州が御所に攻め入る前の数ヶ月間、天狗党は北関東をうろつき回るのだが、この時の評判が極めて悪い。


当時、党勢は約700名に達していたが、慢性的な軍資金不足に直面していた。そのため、一部の隊は攘夷を名目として周辺の町村に対し資金提供を強要し、拒否や抵抗に対しては放火や殺害といった強硬手段に訴えた。特に「田中愿蔵」が率いる別働隊は、資金供出を拒んだ地域に対して放火略奪を行い、その行為が天狗党の評価を大きく損なう要因となった。


中でも栃木宿における事件は、その象徴的な例である。田中らは通行中の町人を殺害し、民家に押し入って金品を強奪したうえ、町に対し軍資金30,000両を要求。町側が5,000両しか出せないと答えると、田中は宿場に火を放ち、さらに火を消そうと集まって来た町民らを殺害した。この火災により翌日までに宿場内に限っても237戸が焼失したという。


まさに、暴行、略奪、殺人のオンパレード。このような一連の行動は、天狗党に対する地域住民の反発を急速に高めることとなった。資金確保を目的とした強圧的な手法は、結果として支持基盤の喪失を招き、運動の持続性にも影響を及ぼしたと考えられる。また、指導者である藤田小四郎の武将としての資質の限界が露呈。一軍を率いる器では無かった。天狗党は愚かにも、この愚行を繰り返し、関東中から害虫の様に嫌われ、味方を失い続けた。




⚫︎ そして、落ち武者の軍勢と化す


禁門の変が勃発する直前の段階において、天狗党はすでに「義軍」ではなく、統制を欠いた武装集団として認識されるようになっていた。さらに禁門の変において長州藩が敗北すると、孝明天皇は長州を朝敵とし、攘夷や開港をめぐる問題についても、長州征討が完了するまで棚上げとする方針を示した。これにより、天狗党は掲げていた大義名分を失った。


一方、水戸城下では「武田耕雲斎」が率いる「大発勢派」が台頭し、藩内は対立を深めて内ゲバ状態へと突入する。両派の争いは統一性を欠いた混乱したものとなり、水戸藩全体が著しい動揺に陥った。暴虐の限りを尽くした天狗党は地域住民に逆襲され、石もて各地を追われ、次第に居場所を失っていく。


元治元年(1864)7月25日には、茨城郡鯉淵村をはじめとする周辺の四十余村が、幕府側に呼応して蜂起し、翌26日には諸生党が天狗党討伐のため足軽の動員をかけた。これに対し、多くの領民が自発的に参加を申し出るなど、天狗党に対する民衆の反感の強さが顕著に表れた。どんだけ嫌われとんねん、って当たり前か。


天狗党の乱における最大の激戦地となった那珂湊では、戦火により民家や社寺の大半が焼失する甚大な被害が生じた。この混乱の中で、鉄製大砲の鋳造を担っていた那珂湊反射炉も大きく損壊し、機能を停止するに至る。この反射炉は、かつて「藤田東湖」の尽力によって建設されたものであり、父が造った反射炉を息子の藤田小四郎が破壊する結果となった


当初は挙兵に慎重であった武田耕雲斎の大発勢派も、最終的には天狗党と同様に幕府側から敵対勢力と見なされ、排除の対象となる。こうして両派は次第に合流し、いずれも追い詰められた立場へと追いやられていった。そして、打開策を見出せない彼らは、徳川慶喜の救済を求め、西上を開始するに至る。




⚫︎ ようやく反省したけど時すでに遅し


天狗党は北関東での敗走ののち、険しい山岳地帯を越えて列島を縦断する西上行動に踏み切った。この行軍は元治元年(1864)11月1日に始まり、12月23日に越前国敦賀へ至るまで続く、極めて過酷なものであった。その途上、上野国下仁田および信濃国の和田峠(下諏訪付近)において激戦が発生し、彼らは戦闘と退却を繰り返しながら進軍することとなる。


こうした中、武田耕雲斎らは、これまでの行動によって民衆の強い反発を招いたことを踏まえ、規律の立て直しを図った。具体的には、協力的な町村に対しては放火・略奪・殺害を禁ずる軍規を設け、行軍中もこれをおおむね遵守した。その結果、通過地によっては住民が彼らを受け入れる例も見られるようになった。


二度の戦闘を経て東山道を進んだ一行は美濃に到達するが、そこには彦根・大垣・桑名・尾張・犬山など諸藩の兵がすでに展開し、街道を封鎖していた。これにより畿内への進入は阻止され、天狗党は中山道経由を断念し、北方へ迂回して京を目指す方針へと転じる。


しかし、その過程で、彼らが頼みとしていた徳川慶喜が朝廷に働きかけ、加賀・会津・桑名などの諸藩兵とともに討伐に動いていることが判明する。その数実に4,000。彼らの絶望感は凄まじいものであったろう。越前に入った彼らは、鯖江藩などの追撃を受けつつ敦賀方面へと退却。彼らはここに至るまでずっと諸藩から害虫同様に叩かれ続けて来た。敦賀に到着した時には、落ち武者以下の風体であった。


12月11日、新保宿に至った時点で、これ以上の抗戦は不可能と判断した天狗党は、加賀藩に対して嘆願書を提出し、降伏するに至る。彼らは慶喜への取り次ぎを期待したが、幕府はこれを認めなかった。こうして、一行は捕縛され、敦賀において厳重に拘束されることとなる。


天狗党員全員を「鰊倉(にしんぐら)」の中に放り込んで監禁し、一般の兵卒には手枷足枷をはめ、衣服は下帯一本のみ。家畜同様に扱われ、魚と糞尿にまみれながら、極寒の季節に大人数で押し込められる...。当然、衛生環境は劣悪である。瞬く間に20人以上が病死した


この時、捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が斬首により処刑された。芋か野菜のように首をバサバサと斬り落とされ、天狗党の時代は終結した。天狗党の処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め、桜田門外の変で殺された主君・直弼の無念を晴らしたという


首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、3月25日(新暦4月20日)から3日間、水戸城下を引き回された。更に那珂湊にて晒され、野捨とされた。こうして天狗党の一連の蜂起とその結末は、幕末期の尊攘運動の中でも特に苛烈な事例として記憶されることとなった。


(藤田小四郎、武田耕雲斎ら天狗党 退場)


天狗党の降伏が水戸へ伝えられると、藩内では「諸生党」が主導権を握り、天狗党関係者に対する厳しい処断が進められた。これには戦闘に直接関与していない家族までも含まれ、女性や幼児に至るまで処刑の対象となったとされる


また、那珂湊反射炉に関わった者たちについても、実際の戦闘参加の有無にかかわらず、尊王攘夷派に属するという理由だけで責任を問われ、自刃や獄死に追い込まれる例が相次いだ。こうした一連の処置は、藩内の対立が極限まで先鋭化していたことを物語っている


なぜこのような悲劇的結末に至ったのか。その背景には、幕末という時代特有の政治的混乱と、尊王攘夷をめぐる急進的な思想対立があったと考えられる。理念や正義を掲げた運動であっても、状況判断や統制を欠いたまま暴力的な行動へと傾斜すれば、やがては内部分裂と報復の連鎖を招き、取り返しのつかない結果に至る。


天狗党の乱は、その過程において、理念が過激化し現実との乖離を深めていった一例ともいえる。掲げられた「攘夷」という標語は、多くの人々を動員する力を持った一方で、時として冷静な判断を失わせ、結果として大きな犠牲を伴う事態を招いた側面も否定できない。こうした歴史は、思想や理念が社会に及ぼす影響の大きさと、その扱いの難しさを示している。


まったくもって「攘夷」とは「死を招く呪いの言葉」である。




⚫︎ 慶喜の人間性に疑問が生まれる


そして、慶喜。お前もたいがいだぞ。彼を頼ろうと列島を彷徨い続けて来た人々を、彼は遂に助けなかった。救おうと思えば、彼の立場なら...本気になれば救えた筈だ。だが、そこまでの努力をしていない。天狗党の人々は、自分たちと「同じ」水戸藩出身の慶喜を身内だと信じて疑わなかったが、慶喜は、自分にとって都合の悪いことを行う人間には、血も涙もない男だった。上司にしたくないタイプ NO.1である。


この一連の対応を、冷静に観察していた人物がいた。「西郷隆盛」である。禁門の変において一時は同じ舞台に立った両者であったが、薩摩側は朝廷警護の中心にあった慶喜の手腕と影響力に強い関心と警戒を抱くようになった。


そこで薩摩藩は、慶喜の実像を探るべく情報収集を進める。その中でも特に注目されたのが、天狗党に対する処置であった。現地の状況を把握するため、薩摩はトップエージェント「中村半次郎(後の桐野利秋)」を派遣する。「人斬り半次郎」と言った方が分かりやすいだろうか。伝説的人斬りとして有名な中村だが、彼は剣客としてだけでなく、対外工作にも長けた人物として知られ、各地から詳細な報告を西郷のもとへ送り続けた。


こうして伝えられた天狗党の結末は、慶喜の政治姿勢を評価するうえで重要な材料となった。すなわち慶喜の、情勢に応じて徹底した処断を行う冷静さと非情さ、そして政治的合理性を優先する姿勢である。おそらく、その処刑の凄まじさに、薩摩は一橋慶喜に嫌悪を覚え、見切りを付けたのだろう。


(こん男に舵取りを任せてはならん。こげん情の無か男に、日本の未来を委ねるこっは危険じゃ。。)


慶喜と言う男の冷酷さ、怜悧さ、ずる賢さを看破し、敵として殲滅するストーリーを描き始めた。幕府のタカ派が調子良く吹聴する独裁体制など言語道断。だが、慶喜をその連中に担ぎ上げさせた上で、この非情なる人物ごと徳川幕府を叩き潰せないか...。慶喜にはフラッグシップ...ダシになって貰い、その上で全部を攻め滅ぼす...。


(長州を使って、こん馬鹿どもを追い詰められんとか...。)


平たく言えば、そう判断した。ここに「薩長同盟」に至る倒幕の種が撒かれるのである。こうした状況の中で、薩摩は対幕府戦略の再構築を進め、長州との関係改善を模索するようになる。結果として、両藩の接近はやがて薩長同盟へとつながり、倒幕運動の基盤が形成されていくこととなる。




てなワケで、少なくとも西郷隆盛が一橋慶喜と徳川幕府を見限って、討幕へと進むためのきっかけとしては、ある程度役に立ったかもしれない天狗党の乱でした。


つか、せめてそんくらいは役に立ったと無理矢理にでも思わなければ、浮かばれな過ぎるでしょ被害者たちが。。



参考
https://bushoojapan.com/comic/nihonshimanga/2021/10/27/163181


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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