vol.192「江戸の開拓」について


おっしゃ! ついに始まる江戸時代!

935年の「平将門の乱」から実に665年もの月日をまたいで、ようやく江戸時代の始まりに辿り着きましたー。これまで関東地方には、あんなこと、こんなこと、あったでしょう。(鎌倉幕府ができて)うれしかったこーとー、(上杉家を追い出して)たのしかったこーとー、もあれば、秀吉軍に征伐されて悲しかった悔しかったこともありましたが、いよいよ天下泰平の時代がやって来ましたよ。さあさあ、いらっしゃいませ家康様!




● 荒野に見えた江戸


天正18年(1590)8月1日、徳川家康は、豊臣秀吉の命により関東へ移封され、伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野の六か国を与えられた。そして同日、駿府を発して甲州道を経由し、約一万の兵を率いて江戸城へ入城する。この8月1日は「八朔(はっさく)」と称され、のちに江戸幕府における重要な年中行事として位置づけられていくことになる。


しかし当時の江戸は、後世の大都市とは程遠い寒村に近い景観であった。『落穂集追加』によれば、江戸城は海岸の波打ち際に位置し、周囲は葦の生い茂る湿地帯で、城下町として割り当てられた土地もわずか十町ほどに過ぎなかったという。また『霊岸夜話』には、石垣造りの堅固な構えは一切なく、芝土居と土塁に木々が生い茂るのみであったと記されている。西国の壮麗な近世城郭を知る者にとっては、到底「名城」とは呼び難い質素な構造であった。


この粗末な城郭を前に、家康の側近である本多正信は「せめて玄関周りだけでも改修してはどうか」と進言したと伝えられる。だが家康は「不要な華美は無用」とこれを退けたという。


その背景には、当時の政治構造があった。天下人たる秀吉の権威は絶対であり、大名の所領や地位はその意向一つで左右された。家康ほどの実力者であっても例外ではなく、過度に壮麗な城を築くことは、主君の警戒を招きかねない危うさを伴っていたのである。家康の慎重な姿勢は、単なる質素倹約の表れではなく、豊臣政権下における微妙な力関係を踏まえた、極めて現実的な政治判断であったといえよう。




● 家臣の住む場所さえなかった


天正18年(1590)、徳川家康が入部した当時の江戸城下は、城郭の周囲と日比谷入江沿岸に限られ、その範囲はきわめて限定的であった。後に政治・経済の中心地となる現在の千代田区・中央区一帯も、当時はまだ湿地や入江が広がる未開発地であり、宅地として利用可能な区域は意外なほど狭小であった。


こうした環境下で、家康直属の約一万の軍勢が一挙に入城したことは、都市基盤の未整備な江戸にとって大きな負担であった。とりわけ、宿営地の確保、飲料水や食料の調達は喫緊の課題であり、旧領から東海道を経て移住してきた家臣団の住居問題も深刻であった。多くの家臣は、周辺の民家や寺院を借用して家族を住まわせ、あるいは簡素な陣屋を建てて江戸城へ通勤するという、暫定的な生活を余儀なくされた。


重臣や有力城主級の武将に至っては、妻子を関東各地の新知行地に配置し、自らは城下に小屋を設けるか町屋を借りて勤務するなど、機動的な対応を取っていた。関東支配の体制構築は、まず家臣団の再配置と生活基盤の整備から始まったのである。


そもそも、江戸城は約130年前に太田道灌によって築かれた城郭である。しかし道灌は近世的な封建大名ではなく、有力武将として戦闘集団を率いる存在にすぎなかった。その軍勢規模は、家康麾下の有力部将の一部隊に匹敵する程度と推定され、政治的・軍事的な規模において徳川家との間には大きな差があった。


このため、徳川家臣団の目に映った江戸城とその周辺は、質素というよりも「場末」とすら形容し得る景観であったと考えられる。道灌の時代と家康の時代とでは、権力の規模も統治構想もまったく異なっていたのであり、その落差こそが、後に大都市江戸へと発展していく出発点であった。




● 家康はまず運河を作った


天正18年(1590)、徳川家康は江戸入りを果たすと、城郭の外観整備よりも先に都市基盤の整備に着手した。その最初期の事業の一つが、運河の開削である。なかでも代表的なのが「道三堀(どうさんぼり)」の工事であった。


道三堀は、現在の皇居東側、和田倉門前の辰ノ口(現・パレスホテル周辺)から大手町交差点付近を経て日本橋川へと至る、全長約1キロメートルの水路である。その名称は、のちにこの堀の岸辺に徳川家の侍医であった曲直瀨道三の邸宅が置かれたことに由来すると伝えられる。


この大規模な土木事業には徳川家臣団が総動員され、未整備の湿地帯を相手に困難な作業が続けられた。道三堀は、当時「江戸前島」と呼ばれた台地状地形の付け根を横断する形で掘削されており、その完成は江戸の水運体系に決定的な変化をもたらした。


すなわち、東京湾最奥部にあたる日比谷入江の突き当たりと、石神井川河口方面とを結ぶ水上バイパスが形成されたのである。さらに、江東方面の海岸線を補強して整備された小名木川を経由することで、江戸と行徳(現在の千葉県市川市)を直結する物流ルートが確立された。


行徳は塩の産地として知られ、物資集散の拠点でもあった。したがって、道三堀の開削は単なる治水工事ではなく、物資輸送路の確保と都市経済の基盤整備を目的とする、戦略的な都市計画の一環であったと評価できる。家康が最初に手をつけたのが城の装飾ではなく水運網の整備であった事実は、彼の統治構想が実利と長期的視野に立脚していたことを如実に示している。




● 長く伝えられた道三堀の名


当時の行徳(現在の千葉県市川市)は、関東最大級の製塩地として知られていた。徳川家康が進めた道三堀および小名木川の開削・整備によって、江戸と行徳は水運で直結され、塩の安定供給体制が確立されることとなった。


塩は単なる生活必需品にとどまらず、兵糧保存や軍需用途に不可欠な戦略物資でもあった。その重要性は、現代における石油にも比せられる。したがって、道三堀の整備は、いわば軍事・経済の生命線となる「物流インフラ」の構築であり、家康にとって最優先で取り組むべき緊急事業であったと評価できる。


運河の完成後、その両岸には湊町が形成され、中世以来の四日市町をはじめ、舟町・柳町などの町場が整備された。さらに日比谷入江沿岸には、徳川家に仕えたオランダ人航海士ヤン・ヨーステンに与えられた八代洲河岸の細長い町屋が並び、堀の北岸中央には築城工事に伴う物揚場も設けられた。こうして道三堀周辺は、江戸初期の水運と物流の拠点として機能していく。


なお、この工事中に永楽銭(明銭)が詰まった瓶が出土したという逸話が伝えられている。こうした記憶は長く語り継がれ、約270年後の明治5年(1872)、それまで武家地であったこの地域に初めて町名が設定された際、その故事にちなみ「永楽町」「銭瓶町」「道三町」といった名称が採用された。


これらの町名は昭和4年(1929)まで使用されたが、関東大震災後の区画整理および町名改正により姿を消し、現在の千代田区大手町一・二丁目、丸の内一丁目へと再編された。


この経緯は、一つの土木事業にまつわる記憶が、地名という形で近代に至るまで継承されていたことを示している。同時に、家康が築いた水運網が、江戸の都市形成の原点であったことを改めて物語る事例といえよう。




● 巨大な家臣団で水不足に


天正18年(1590)の江戸入り後、徳川家康が最優先課題として着手したのは、運河整備や最小限の城郭改修と並び、飲料水の確保であった。


もともと江戸は、武蔵野台地の縁辺と海水の入り込む低湿地に囲まれた地形であり、良質で安定した水源を大量に得ることが難しい土地であった。そこへ駿河・三河など旧領から多数の家臣団が移住し、人口は急増する。急造の城下町にとって、水不足は都市存立そのものに関わる深刻な問題であった。


このため家康は、全家臣を江戸に集中させるのではなく、有力家臣を旧・小田原北条氏の支城など関東各地の要所に配置し、新領国の経営と防備を分担させた。一方、小身の家臣は江戸城西側、武蔵野台地へと続く地域に居住させた。これは城の背後を旗本層で固める軍事的意図とともに、台地上であれば比較的良質な井戸水が得られるという地理的条件を考慮した配置であった。


さらに家康は、家臣の「大久保主水」に命じて水源の調査を行わせ、自然河川である小石川の水を利用する方策を講じた。この試みは、後に江戸の代表的上水道である神田上水へと発展していく


また、文禄元年(1592)頃からは江戸城修築と並行して、飲料用貯水池として千鳥ヶ淵・牛ヶ淵の整備が進められた。これらの施設は、後世にまで続く江戸の水利体系の基盤となる。


こうした一連の施策は、単なる城郭整備ではなく、都市としての江戸を持続可能な形で成長させるためのインフラ構築であった。家康の江戸経営は、華美な建築よりもまず水と物流を押さえることから始まったのであり、その現実的かつ戦略的な判断が、後の大都市江戸発展の礎となったのである。




● 自然地形を生かして、飲料水を確保


ここでいう「淵」とは、自然の深みではなく、堰き止めによって形成された貯水池、すなわちダム湖を意味していた。


現在、桜の名所として知られる千鳥ヶ淵は、もとは坂下門付近で日比谷入江へ注いでいた旧・千鳥ヶ淵川の谷筋を、国立近代美術館工芸館前で堰き止めて造成した人工湖である。この谷は、本丸(現・皇居東御苑)と西の丸(現・皇居)を隔てる地形でもあり、地勢を巧みに利用した水利施設であったことがわかる。


一方の牛ヶ淵は、武蔵野台地東縁から湧出する水を貯留したものである。北の丸公園内、清水門付近の石垣を登ると、上流の牛ヶ淵の水位が下流側の清水濠より高く保たれている様子が確認でき、往時の堰止め構造の痕跡を今に伝えている。大雨の際には、牛ヶ淵から清水濠へと滝のように水が流れ落ちる光景が見られることもある。


これらの施設整備においては、湧水の活用や谷地形の利用といった自然条件が最大限に生かされた。短期間かつ最小限の費用で飲料水を確保するための、合理的かつ実践的な都市計画であったと評価できる。


しかし、その裏で家臣団が負った労苦は並大抵のものではなかった。これらの工事は徳川氏の直営事業として実施され、家臣たちは自らの居住地や水源を確保する傍ら、城郭整備や土木工事に動員されたのである。


万治3年(1660)成立の『聞見集』には、当時の江戸城普請の様子が記されている。大雨の際には掘り上げた土砂が堀に流れ込み、夜を徹して堰き止め作業を行い、溜まった水を釣瓶で何度も汲み出したという。また、侍であっても中間と同様に鍬やモッコを手にして土木作業に従事したと伝えられ、「辛労 筆に尽くしがたし」と評されるほどの過酷さであった。


江戸の水源整備は、自然地形を巧みに利用した先見的な事業であったが、その実現は、家臣団の苛烈な労働と献身によって支えられていたのである。




お〜、さすが家康様。早速ガシガシやっておられる。塩の確保が何より最優先で大事なことだったとは知らなんだ。ちょいと次回は、塩の重要性について調べてみることにしよう。戦国時代の食文化を知るにも良い機会だし。




参考
https://www.kigyoujitsumu.com/topics_detail69/id=46707
https://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/tanbou/edo/edo_Pre_8.html

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。