戦国時代は食品の生成技術が確立されておらず、しかも現代のように保存技術も乏しい事から、知恵を絞って食品の腐敗を防いでいたそうな。そこで必要だった食品が【塩】。戦の勝敗を左右する戦陣食として米と並んで、塩がとても大切だったらしい。
確かに、上杉謙信の「敵に塩を送る」なんて逸話もあったし(作り話らしいけど)動物が生きてく上で、塩分はやはり無くてはならないものなのだろう。
● 戦国武士たちの塩事情
交通機関や道路が発達していなかったこの時代、彼らは数十キロに渡る行軍をしなければならないわけで。なので、大量に汗をかいて体内から失われた塩分を補給するために、現代人より多めに塩分を取る必要があった。また、食品の長期保存方法として塩漬けにする以外の方法がなかったので、塩は欠かせないものとして重宝された。ゆえに、この時代の武士はみな、塩分過多の生活を送っていたらしい。
ある調査で織田信長の食事を検証したら、一日の塩分量が40グラムに達していたとか。これは明智光秀が本能寺の変を起こさなくても『近いうちに突然死になっていたのではないか?』と言われるほどの量だそう。
濃い味が好みだった織田信長は、大根の味噌漬けやネギみそが好物で、少しでも味が薄いと「水くさい!」と言って激怒したとも。血気盛んな活動家であるがため、肉体と精神を回復させるために即効性を重視したモノだったのかもしれない。合理的な性格から、効率の良い食事を取ろうとしていたのか、湯漬けのような手軽に食べられるものを好んだという。
ちなみに越後の上杉謙信の死因も、塩分過多による脳卒中と言われている。謙信は酒を飲みながら梅干をなめる生粋の呑兵衛で、この生活を毎日続けていれば戦国時代でなくても突然死してもおかしくはない。いくら塩が大事といっても、やはり摂りすぎは体に悪いようだ。(それより大酒飲みだったのが死因なんでしょうけども)
反対に、海がない県に拠点を構えていた武田信玄は、山々に挟まれた土地で塩の工面を強いられており、塩に不利な環境だったと言える。そのような地域では塩は貴重品で、塩を保存する手段のひとつが味噌を作ることだった。塩を味噌に加工することで、長期に渡り塩を管理できる。信玄が領国内での味噌作りを奨励したのには、そうした背景があった。
徳川家康も、三河生まれという事で、食事の味付けには味噌をよく食べたていた。生涯にわたって自身の健康に気を配り、天下人となってからも「麦飯」と「豆味噌」を中心とする質素な食事を好んだと言われる徳川家康。麦飯と味噌パワーが功を奏したのか、子だくさんで多くの側室を持ち、75歳まで鷹狩りを続け野山を走り回る程の体力・能力を維持していた。
豆味噌を使った料理で、徳川家康が特に好んだのは「焼き味噌」だった。焼き味噌とは、文字通り味噌に火を通す料理。ごま油を敷いた鍋で豆味噌を炒め、そこに生姜のすりおろしや大葉のみじん切りを混ぜて団子状にしたシンプルな料理だが、鷹狩りの際には麦飯のおにぎりとこの焼き味噌を必ず持って出かけたそうな。
まだ醤油が広く普及していなかった戦国時代、味噌は最も一般的な調味料。「味噌が切れれば、米なきよりくたびれるものなり」と言われるほど、戦国武将にとっては米よりも重視される栄養源だった。大豆と豆麹(まめこうじ)、塩だけで作られる豆味噌は、タンパク質のほか、脳機能を活性化する効果のあるグルタミン酸、美肌効果のあるレシチン、免疫機能向上やコレステロールを抑える効果のあるビタミンEなどが他の味噌よりも多く含まれている。
また、20種あるアミノ酸のうち、筋肉増強など成長ホルモンの分泌促進に効果のあるアルギニンが多量に含まれているのも味噌の特徴。これは様々なメーカーから販売されている多くの栄養ドリンクにも含まれているもので、男性にとっては精力増強の効果があるとも。66歳にして16人目の子どもである「市姫」をもうけるなど、老いてもなおエネルギッシュだった徳川家康の壮健の源は、もしかしたら毎日欠かさず摂取した豆味噌にあったのかもしれない。
さらに(塩というより味噌の話ばかりになってしまうが)かの伊達政宗も味噌を兵糧として重要視しており、自身の拠点である青葉山城内に「御塩噌蔵(おえんそぐら)」という日本初と思われる大規模な味噌醸造工場を建て、味噌の大量生産を始めていた。これが現代も親しまれる「仙台味噌」の起源である。
1593年(文禄2年)の「文禄の役」と呼ばれる一度目の朝鮮出兵の際、この仙台味噌が大いに重宝したと言われている。季節は夏。他の軍が用意した米を中心とした兵糧が大陸の風土に合わず、次々に腐敗していくなか、伊達軍の仙台味噌は少しも腐ることなく、なおかつ美味を保ったそうだ。分け与えた他の軍にも喜ばれ、「陣中食なら伊達軍の仙台味噌」とたちまち評判になったという。
なぜ伊達軍の仙台味噌だけが夏の高温でも腐ることがなかったのか。いくつかの理由が考えられるが、現地で塩分の消耗が激しい兵の体調を考慮し、塩を多めに用いていたことが大きいのではないかと推測されている。加えて伊達軍の仙台味噌は、熟成のために2年以上の期間をかけていたため、保存性が極めて高くなっていたのだろう。
戦地では、あまりの空腹に迫られて雑草や草根を食べることが当たり前だったと言うが、保存性に優れた仙台味噌を手にすることができた兵士達は安心して戦に集中することができた。このように、武将達が厳しい戦いを勝ち抜くためには強さだけでなく、塩の知識と備えも極めて重要な要素だったのだ。
● 各地に通じる「塩の道」
塩の道は、塩や海産物を内陸に運ぶのに使われた道のことをいう。また反対に内陸からは、山の幸(食料に限らず、木材や鉱物も含む)が運ばれた道でもある。古くは製塩を海辺の塩田に頼っていたことから、日本の各地で、海と山を結ぶかたちで数多くあった。
特に雪深い内陸地域に住む住人にとって、冬場は漬物や味噌を作って保存するなど、塩は生活に欠かすことのできないものであることから、重要な生活路であった。また、宿場町やその周辺は藩によって重点的な開発が行われた例もある。
これらの街道沿いには、宿場町、城下町、神社、寺院があるほか、当時の道標、道祖神、二十三夜塔、庚申塔、馬頭観音・牛頭観音、塩倉、牛方宿が残っていたり、番所が復元されていたりする。
「敵に塩を送る」は、敵の弱みにつけこまずに、逆にその苦境から相手を救うという意味で使われる故事成語である。戦国時代の戦いで、駿河の今川氏と相模の後北条氏は、海側からの塩の道を絶って、武田信玄の領地である甲斐・信濃への塩の流通を止める兵糧攻め作戦に出た。甲斐・信濃で塩が不足して苦しんでいることを知った越後の上杉謙信が「武士道に反する!」として、敵対する武田氏領国に塩を送ったとされる故事が有名で、その塩が運ばれたのが千国街道であると言われることがある。
しかし当時の資料からは、塩止め(荷留)をしたという事実はないと考えられ、後世に作られた美談とされている。
● 製塩で栄えた行徳の寺町
東京湾に面した「行徳」では、古くから塩づくりが行われてきた。その始まりは奈良時代の頃からともいわれ、遠浅の干潟を利用して自家用の塩をつくっていたようである。平安時代末期には、本行徳中洲(今の東京都江戸川区)の神明社に、神事に使う塩を焼いて納めていたという。
戦国時代には「行徳七浜」と呼ばれる、塩づくりで生計を立てる7つの村(稲荷木、大和田、田尻、高谷、河原、妙典、本行徳)があり、行徳は江戸湾岸における最大の塩の生産地になっていた。当時は本行徳の南に江戸川(現:旧江戸川)の河口があり、本行徳より南の村は、江戸川の真水が入るため塩分が薄く、年貢を納めるほどの塩は生産できなかったらしい。行徳七浜の中心地は河原村で、関東奥地の要衝の地である岩槻への塩の道の出発点として栄えた。
塩浜では日照りが続けばいくらでも塩を生産することができた。塩づくりは米を作るより20倍ともいわれるほどの利益が出たため、塩田の発展とともに多くの人が集まり、経済的にも豊かな人たちが増えた。戦国時代の半ばから江戸時代の初めにかけて、本行徳を中心とした塩田の近くに33もの寺が創建されたのは、村の人々の信心深さに加え、お布施で寺を支える余裕のある人が多かったことを示している。江戸時代に入る頃には、「行徳千軒寺百軒」といわれるほどの寺町ができあがっていた。
1590年に豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅びると、徳川家康が江戸城に入り北条氏の旧領を治めることに。塩は戦国の世にあっては重要な軍需物資で、兵糧の確保は戦の勝敗を左右するほど大切なもの。家康は江戸城に近い行徳の塩を軍用第一と考え、すぐに行徳を直轄領とし、突貫工事で小名木川(東京都江東区)を掘らせて翌年から船で行徳の塩を運ばせた。
1600年に家康が関ヶ原の戦いに勝ち、江戸に幕府を開くと、江戸は小さな田舎城下町から事実上日本の首都となり、急速に発展。これに伴い、行徳塩業の地位も一層高まった。幕府は新しい塩浜を開発するために、家康から家光までの3代にわたり巨額の手当金を与え、公共工事を行った。また、塩年貢を優遇したり、自然災害で堤防や塩田が壊れるとその修復費用を賄うなど、手厚い保護を行い、行徳塩業の発展に力を入れたという。
1632(寛永9)年、本行徳村は幕府から定期船運行の独占権を得て「行徳船」(当時は「長渡」と呼ばれた)の運航を開始。小荷物や旅客を運ぶ、主に24人乗りの舟で、江戸・日本橋小網町三丁目の「行徳河岸」から「本行徳河岸」までの約12.6kmを毎日朝6時から夜6時まで運航し、所要時間は3~6時間、当初は16艘、最盛期の江戸末期には62艘が往来した。
また、江戸前期に「利根川東遷」と「江戸川」の開削が行われると、「小名木川」「新川」「江戸川」「利根川」を通じて江戸と北関東・東北方面が結ばれるようになり、行徳はその中継地としても発展した。銚子からの舟は「江戸川」を経由することもできたが、関宿廻りの航路は時間がかかるため、魚介については「利根川」の「木下(きおろし)河岸」から陸路の「木下道」(現「木下街道」)で運び、「本行徳河岸」から再び舟に載せ替えて江戸に運ぶことも多かった。松尾芭蕉は1687(貞享4)年の『鹿島紀行』の旅で「行徳船」と「木下道」を利用している。
江戸中期に「成田山詣」が流行すると参詣客は「成田道」(「佐倉道」)を陸路で向かったほか、「行徳船」を利用して「本行徳河岸」から「行徳道」で船橋に出て「成田道」に入る経路も人気となった。十返舎一九、渡辺崋山など著名な文人墨客も「行徳船」を利用したといわれる。
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