後北条氏を滅ぼし、ついでにその跡地にライバル家康を追いやりつつ、ついに天下統一を成し遂げた太閤秀吉。秀吉と言えば「人たらし」で「人たらし」と言えば秀吉ってくらい、このワードが定着しており、いつもヘラヘラ調子良く笑ってそうなイメージがある。あるよね。
ところがどっこい、実態はそんなニコやかな人ではなかったらしい。むしろ「残酷な暴君」と言ってよいほどの恐ろしい一面があったとか。大河「どうする家康」ではムロツヨシが、そんな秀吉のダークサイドを匂わせるサイコパスな演技を見せていてくれたが、実際のところはどれくらいヤバい奴だったのだろうか。
以下に、いくつか例を挙げてみよう。
● 秀吉の後継者は「秀次」に決定していたが…
豊臣秀吉の後継者として関白に就任していた「豊臣秀次」は、文禄4年(1595)、突如として「謀反の疑いあり」として失脚し、高野山で切腹を命じられた。さらにその処罰は本人だけにとどまらず、妻子や側近にまで及び、結果として秀次の一族は「ほぼ皆殺し」という苛烈な結末を迎えた。
この出来事は一般に「秀次事件」と呼ばれ、豊臣政権史上最大の汚点の一つとされている。しかし、史料を注意深く検討すると、従来の「秀次謀反説」とは異なる、新たな解釈の可能性が浮かび上がってくる。
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天正19年(1591)、豊臣政権に大きな転機が訪れる。まず正月、秀吉の最も信頼する弟「豊臣秀長」が病没した。さらに同年8月には、秀吉の唯一の男子であった「鶴松」も幼くして死去する。これにより、豊臣家には明確な後継者が不在となる事態が生じた。
当時、秀吉の養子には「秀俊(のちの小早川秀秋)」がいたものの、まだ数え年10歳の少年に過ぎず、政権を担うには幼すぎた。そこで、一門の中で最年長にあたる甥の「豊臣秀次」が、新たな後継者として急遽擁立されることとなる。天正19年8月9日、秀次は秀吉から豊臣家の家督を譲られ、名実ともに後継者の地位に就いた。
なお、この際に秀次が秀吉の正式な養子となったことを示す史料は確認されておらず、あくまで「甥として家督を継承した」とみられている。秀吉は新たな当主となった秀次の威信を高めるため、官職を急速に引き上げた。まず同年11月28日、秀次は 権大納言 に任じられ、当時の有力大名である 徳川家康 と並ぶ高位に就く。さらに12月4日には 内大臣 に任官し、諸大名を超越する地位を確立した。
そして同年12月28日、秀次はついに 関白 に就任する。これは秀吉が構想していた大陸遠征、いわゆる「唐入り(明征服)」を見据え、国内統治の実務を秀次に委ねる体制を整えようとした結果であったと考えられている。こうして秀次は、名実ともに豊臣政権の後継者としての地位を固めることとなったのである。
このように、秀吉の次の天下人の地位を約束されていた秀次だが、周知の通り、文禄4年(1595)には秀次は自害に追い込まれ、秀次の正室や側室、その幼い子女ら39人も三条河原で処刑(斬首)されてしまう。余りの凄惨さに見物人も見物に来たことを後悔するほどの残酷な処刑であったという。
だが、当時の一次史料を検討すると、豊臣政権が公式に秀次の「謀反」を認定した事実は確認されておらず、諸大名に対しても「関白相届かざる子細これある」(関白に問題があった)としか説明していない。
そもそも秀次には謀反するメリットが何もない。仮に、秀次の謀反の意思が明らかならば、秀吉は証拠を挙げつつ謀反計画の内容を大々的に宣伝し、秀次処分の正当性を強調するはずである。具体的に説明できないということは、謀反計画そのものが虚構なのではないだろうか。
仮に、秀次が中継ぎの関白という処遇に不満を持っていたとしても、秀吉への反逆などという危ない橋を渡る必要はない。既に高齢の秀吉が亡くなるのを待てば良いだけのことである。
こうした状況を考慮すると、秀次は冤罪だったと結論づけられる。秀次事件は「淀殿」との間に出来た愛児「秀頼」に天下を譲るために、秀次を邪魔と感じた秀吉の謀略であろう。
● 秀吉には残酷な殺し方を好む傾向があった
次に紹介するのは、戦国時代末期から江戸時代初期を生きた公家「西洞院時慶」の日記『時慶記』に記載されているエピソードである。
時は文禄2年(1593)10月。朝鮮出兵(文禄の役)開始の翌年のこと。大坂城では、秀吉の側室「淀殿」に仕える女房衆の行動をめぐり、重大な不祥事(男女の間の乱れた性的関係)が起きたとされる情報が秀吉のもとへ伝えられた。
この報告を受けた秀吉は激しく憤り、厳しい処罰を命じた。記録によれば、事件に関与したとされた男女や僧侶が多数捕らえられ、火あぶりや斬首といった極刑に処されたという。その人数は30名以上に及んだとされ、豊臣政権下でも異例の大規模な処刑事件であったと伝えられている。
『時慶記』には、秀吉による苛烈な刑罰の一例が記されている。それによれば、事件の発端は、秀吉に仕えていた女房(女性の使用人)が、主君への暇乞いを行わないまま一人の男性と結婚したことにあったという。主家に仕える女性が無断で婚姻することは当時の慣習上大きな問題とされており、この行為に秀吉は激しく憤ったと伝えられている。
記録によれば、秀吉はまずその女性と夫の間に生まれていた子を「釜で煮殺すよう」命じ、さらに夫婦二人を首だけ地上に出した状態で地中に埋め、鋸で首を引く「鋸引き」の刑に処したという。こうした苛烈な処罰の記述は、晩年の秀吉の統治が次第に厳格さを増していたことを示す逸話のひとつとしてしばしば言及されている。
● 信長の家臣の頃から既に残酷だった
天正5年(1577)、豊臣秀吉 は主君 織田信長 の命を受け、中国地方攻略、いわゆる「中国征伐」を担っていた。この過程で秀吉軍は、毛利方に属していた「上月城(現在の兵庫県佐用町)」を攻撃することになる。
秀吉軍は城を厳重に包囲し、激しい攻防の末、ついに上月城を落城へと追い込んだ。しかし、記録によれば、その後に苛烈な処断が行われたとされる。史料『下村文書』には、秀吉が敵兵の首をことごとく刎ねるよう命じたうえ、城内にいた女性や子ども200人余りを捕らえ、播磨・備前・美作の国境付近まで連行したと記されている。
そして、子どもは串刺し、女性は磔にするなどの方法で処刑されたという。これらの人々の多くは戦闘員ではなく、戦火を避けて城内に避難していた住民であった可能性が高いと考えられている。
● 不都合な者は、親近者であれ容赦なく消し去る
天正15年(1587)、「一人の若者が、いずれも美々しく豪華な衣装をまとった30名の身分の高い武士を従えて大坂の政庁に現れるという出来事」があり、その若者は「関白の実の兄弟と自称し、同人を知る多くの人がそれを確信していた」というのだが――。
秀吉は自らの母・大政所に対し「かの人物を息子として知っているかどうか、そして息子として認めるかどうか」と問い質した。彼女はその男を息子として認知することを恥じたので、過酷にも彼の申し立てを否定し、「そのような者を生んだ覚えはない」と言い渡した。
その言葉をまだ言い終えるか終えないうちに、件の若者は従者ともども捕縛され、関白の面前で斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された。このように関白は、己れの肉親者や血族の者すら己れに不都合とあれば許しはしなかったのである。
秀吉が貧しい生まれだったのは間違いない。生母の大政所も、秀吉の父を亡くし、再婚相手にも先立たれたことが知られるが、多数の結婚歴があったという。いわば隠し子が何人もいた可能性があり、それは秀吉にとっても大政所にとっても不都合な真実だったのだろう。
それから3、4カ月後の話として、こんな逸話も記されている。
関白は、尾張の国に他に自分の姉妹がいて、貧しい農民であるらしいことを耳にした。そこで彼は、己れの血統が賤しいことを打ち消そうとし、「姉妹として認めそれ相応の待遇をするから」と言い、当人が望みもせぬのに彼女を都へ召喚するように命じた。
その哀れな女は、使者の悪意と欺瞞ぎまんに気が付かず、天から良運と幸福が授けられたものと思いこみ、できるだけの準備をし、幾人かの身内の婦人たちに伴われて都に出向いた。しかるにその姉妹は、入京するやいなや、ただちに捕縛され、他の婦人たちもことごとく無惨にも斬首されてしまった。
秀吉は「人たらし」で、人心を巧みに掌握したと伝わるが、その「人たらし」も他人を利用するための手段でしかなく、その実、人を人とも思わない残酷な男だったと思われる。その残忍さはかなりの部分、自身の生まれへのコンプレックスに起因しているのではないか。上記の逸話もそんなことを思わせる。
● やはり実際は、暴力と弾圧による支配者だった
秀吉にまつわるとんでもないエピソードは、直接交流があったイエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの著作『日本史』にも数々書かれている。
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彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。目がとび出ており、シナ人のように鬚が少なかった。(中略)彼は自らの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった。
家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者であり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった。彼はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、万事をみずからの考えで決定し、誰一人、あえて彼の意に逆らうがごときことを一言として述べる者はいなかった。
聞くところによれば、関白は大坂城内だけで、日本全国の諸侯貴顕の娘たちを300名も側室としてかかえており、それ以外に第一夫人と認められる人がいる。齢すでに50を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪いとったかに思われた。この極悪の欲情は、止まるところを知らず、全身を支配していた。
彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを300名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また別の多数の娘たちを置いていた。彼がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは「見目麗しい乙女を探し出すこと」であった。
彼の権力は絶大だったから、その意に逆らうものはなく、彼は、国王や君侯、貴族、平民の娘をば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。
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極めつきは、イタリア人宣教師のオルガンティーノが、西暦1588年(天正16)3月3日、小豆島でしたためた書状の引用である。
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かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣ったものとなり果てました。彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し、人々をば追放に処して、その俸禄所領を没収する有様で、他人の俸禄を横領するのに道理もなにもないのです。
彼の淫奔な醜行は、いたるところにあるその宮殿を、挙げて一大遊郭に化せしめたほどでありました。美貌の娘や若い婦人で、彼の手から免れ得る者はいませんでした。
重立った貴人たちの大勢の娘たちを養女として召し上げ、彼女らが12歳になると己れの情婦としました。これら諸大身の娘たちで、器量がよいという評判が彼の耳に達しながら、ただちに連行されなかった者は一人もありませんでした。
結局は手の施しようもなく、本件は放縦をきわめ、皆はもはや拒否せぬばかりか喜んで娘を提供し、かくて身の安全を計るようにまでなりました。
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むき出しの欲情と、身分が高い女性を肉体的に征服することで、相対的に自分の価値を高めようという倒錯した欲望。女性への人権侵害の極みで、オルガンティーノの「獣より劣ったもの」という表現が、少しも大げさに感じられない。
貧しい階層の出身で人たらしだった秀吉を「庶民派」と理解している人は、考え直したほうが良いだろう。
うむ。秀吉、かなりヤバめの奴でした。。
まー、でもそーよねーやっぱ。所詮は人間ですし、男ですし、絶対的な王様になったらまー、そりゃーやりたい放題しますわなー。って、いやいや別に共感してるわけじゃないんですけど、男だれしもそんなAV的な妄想くらいしたことあるのは事実ってゆーか、ラピュタのムスカ様が「人がゴミのようだ!」って笑うのも、まーそうなるわなーってゆーか。
けども、実際にやるとなると、道徳心やら良心の呵責とか自己嫌悪など色々乗り越えなけりゃならんし、そこは妄想のままでとどめとくのが普通なのに、まさか本当にやっちまうとは、さすがサイコパス。やっぱ異常者ですわ。
くたばってくれてホント良かった良かった。
参考
https://diamond.jp/articles/-/382614?_gl=1*1semqoq*_ga*TkZTTzNXUG9vY0tmN1E0TWJLWWUtdnZPMjBua25hVmotazctVXd4UnJrZVQzUkhnaFg2NmVMQ0Uyak1pcGlmUw..*_ga_4ZRR68SQNH*MTc3MjkzMzIzMS4xLjAuMTc3MjkzMzIzMS4wLjAuMA..
https://news.yahoo.co.jp/articles/0b749e95c4008cc391bf45f99a65b60495007d0c
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