vol.194「江戸の水道」について


人が生きてゆくには塩分補給も大事だが、もちろん水分補給だってなくてはならない。江戸に大勢が住むとなれば当然、飲料水もたくさん必要となるわけで。しかし、江戸は井戸を掘っても海水が混じっており飲めないため、遠くから飲める水を持って来にゃならん。


そこで家康様は、江戸に水道を作ることにした。それを任されたのが「大久保主水」という男。主水と書いて「もんと」と読むらしい。でも本当は「もんど」と読むのが正解なのだが、家康様がこの名を彼に与えた時「水は濁らない方が良いから、ドじゃなくてトって読みなよベイベー」と言うからそうしたんと。まあ、そんな風に家康様に言われたんじゃ、仕方あるまい。


けども個人的には「ぬしみず」って方が意味にも直結しててしっくり来るから私はそう読むことにする。「おおくぼのぬしみず」ほら、ええやん。「おおとものやかもち」みたいで何かええ感じやん。




● 大久保主水こと、大久保藤五郎とは


その出生は記録に残っておらず、詳しいことは知られていない。大久保家は、元は下野国(栃木県)の住人で、宇都宮と名乗っていたが、越前などを経て三河にやってきて宇津と改名し、家康の祖にあたる松平信元に仕えたと『藩翰譜』に残っている。

 

三河国の戦国大名・徳川家康に仕え、永禄6年(1563)、三河一向一揆に三河大久保党三十六騎の一人として出陣するが、鉄砲の弾が腰に当たって落馬・負傷し、以後歩行が不自由となる。これにより実質、侍としてのいわゆる槍働きができなくなり、戦役を免除され三河国上和田に引き籠る。


そんな折、藤五郎が常々菓子を好んで自作していたことが家康の耳に入り、その菓子を献上するようにと仰せつけられた。

https://ieyasu1543.blog.fc2.com/blog-entry-32.html 様より↑


どこで覚えたのか定かではないが、藤五郎は菓子類の作製ができ、この技術により家康の陣営に茶菓(餅)を献上する役目、いわゆる菓子司となった。藤五郎の作った餅は駿河餅、ないしは三河餅と呼ばれ、この餅を含めた各種の菓子は家康の嗜好に合ったらしく、たびたび藤五郎にこれを求めていた。


また、家康は毒殺を恐れて普段から献上される餅を食べなかったが、藤五郎から献上された際には彼を信頼して食べていた、などの話が残る。三方ヶ原の戦いの際には従軍する代わりに、出陣に際し6種の菓子を家康に献じ、その後それが家例となった。


かくして藤五郎は徳川家お抱えの菓子職人となったのでした。

めでたしめでたし。ではなく、もちろん続きがある。




● 菓子職人から水道事業の責任者に抜擢


家康が駿河・遠江・三河を離れ、関東に移ることになった際、江戸は入り江や低湿地が多く、井戸を掘っても良い水に恵まれない土地であった。そんな土地に移るとあって、これまでよりも多くの土地、水が必要になる。そこでお声がかかったのが、晴れて菓子職人となった大久保藤五郎


家康より「関東へ入国し江戸を座城とすると決したが、水事情がはなはだ悪い。急ぎ江戸に行き、上水を見立てて諸人を助けるように」とのお達しを受ける。菓子作りに長けている藤五郎であれば、菓子作りに大きく影響を与える水を見立てる力があると家康は踏んだのだ


よい菓子にはよい水がいる。菓子に添えるべき濃茶や煎茶も同様だ。水こそは、五味のみなもと。その心得が、かねてから藤五郎にはあったし、またその味分けの舌にも自信があった。藤五郎は家康の命を受け、早速、江戸湾沿いの集落へ赴き、漁師たちにどこの水が一等うまいかと話を聞いて歩いた。


そして苦闘の結果、藤五郎の舌に堪え得る「赤坂の溜池」と「神田明神山岸の細流」の2つを見い出した。赤坂の溜池は、江戸城の南西方にあり、赤坂台地からしみ出した地下水が北へ流れ落ちて池をなしたもの。神田明神山岸の細流は、江戸城の北東にあり、現在の駿河台の上に立っている原住民鎮守の神。この駿河台とその西隣の本郷台地の間にある小さな谷川であった。


前者の水を城の南西地域に巡らし、後者の水を北東地域に巡らせば、地域的な重なりがなく、江戸市中を効率的に網羅することができると考えた藤五郎は、結果的に、3カ月という短期間のうちに水源を発見し、普請事業をやり終える。


まずは、小石川(現在の後楽園のあたり)の流れを利用し、この水を小さな堀割で駿河台方面へと流した。さらに、江戸の西にある武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城をはじめとして市中の引水を開発。この上水は「小石川上水」と呼ばれ、これが、江戸の上水道の始まりと言われている


この功績は実に大きかった。それまで江戸の井戸水は海水が混じり飲めたものではなく、水は遠くへ汲みに行くか、あるいは水売りに高い金を出して買わねばならぬものだった。けれども今では逆に水のほうから飲まれに来てくれる。これには、江戸という荒れ地に移住させられ落胆していた家臣団も「江戸も存外よいものじゃ」 と、少しずつ将来に希望を抱きはじめた。手を加えれば便利な土地になることが実感として分かったからだ。


藤五郎はこの功により家康より「主水」の名と「山越」と称される名馬を賜った。また、「主水」については水が濁ってはならないことから、「もんど」ではなく「もんと」と名乗るよう命じられた。(でも私はかたくなに「ぬしみず」と読む)




● 小石川上水は、神田上水へと進化する


1616~20年、二代目将軍秀忠は、洪水対策と平川の一部を掘とするために駿河台に掘割を通して、神田川(外濠)を造った。すると、小石川上水は神田川を渡らなくてはいけなくなり懸樋(かけひ)が作られることに。

江戸図屏風を見ると、初期の懸樋は、橋の下部に見える。外濠の水の深さは馬の腹ぐらいで、水番所らしい小屋もある。橋は、近くに吉祥寺があったので、「吉祥寺橋」と名付けられたそうだが、これがのちほど「水道橋」となる。


しかし、江戸下町の人口は爆発的に増えて、小石川の容量ではとても賄い切れなくなってきた。そこで、1629年頃、秀忠は、新しい水源を求め、現在の井の頭にあった村に住む「内田六治郎」へ、さらなる上水道の拡大を命じる。


井の頭の村の有力者であった六治郎は、周辺の村へ説得して周り、井の頭池を起点とした神田上水は、途中補助水源として、善福寺池を水源とする善福寺川と淀橋で玉川上水の分水、更に妙正寺川を併せて小石川の関口大洗堰(あらいぜき)に至る。(洗堰とは、堤防の一部を切り下げ、増水時に川の外へと水を逃がす仕組みを持つ堰のことである)

関口大洗堰は流れてきた水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷方面(現在の後楽園一帯)に流し、右側を余水として江戸川として流した。そうして神田上水ができあがり、人口が増えた江戸の人々の喉を潤すことに成功。

 

水戸屋敷に入った上水は、邸内の飲料水や生活用水及び庭園の池水に使われる。流れてきた水は、水戸藩上屋敷に入った後、埋樋で屋敷を出ると、以後は地上に現れない。つまり、水戸藩上屋敷は上水の安全を監視するための最終地点であったわけである。池にすむ魚の異変で危険を探知できる仕組みだったのかもしれない。

水戸屋敷を出た上水は御茶ノ水の懸樋(神田上水懸樋・水道橋)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水する。そこから三手に分岐し、一つは神田橋を経て、道三堀北側の大名屋敷に、もう一つは神田川北岸の武家地に、そして最後の一手は神田川南岸の武家地及び町人地に給水する。 町人地に向かう水は二手に分かれ、一方は日本橋北側・内神田を、もう一方は日本橋南側を給水していた。


神田上水による給水順次は武家地が優先で、残りの水を町人地へ給水している。これは江戸期の初期の上水道によく見られる傾向であるとされている。後年になると、武家地と町人地を分けて系統化する上水道(玉川上水はこれに近い)や武家地と町人地を分別せず給水する混在型の上水道が出てくるようになる。


神田上水の竣工年は定かではないが、寛永年間に完成したとされている。 その後、神田上水は給水量を増やすために助水が行われ、前述の『東京通誌』に見えるような流路となった。『御府内上水在絶略記』に玉川上水から助水を受けたのが、寛文7年(1667)と記されている。享保期には妙正寺川も取り込み、助水水源を増やしていった。


玉川上水の完成と、このあたりの経緯については、もちょっと先の話なので、また改めて後編にまとめようと思う。




ってことで、今回はここまで。いや〜わざわざ「東京水道歴史博物館」まで行ってきたんすけどね、玉川上水より後の時代がメインで、初期のことはあんまり参考にならんかったですわ。どうも、大久保主水のくだりは資料が残ってないようで。


とは言え、家康様の江戸入りから始まった水道整備は、後の江戸大発展を支える根幹インフラであることは間違いない。その最初のエピソードが「怪我で菓子職人に転身した武士の活躍」たぁ、あり得なさそうで、あり得そうで、なかなか粋じゃあねぇですかい。



参考
https://www.histrip.jp/20181206tokyo-chiyodaku-6/#google_vignette
https://ja.wikipedia.org/wiki/大久保忠行

https://www.gakken.jp/kagakusouken/spread/oedo/01/kaisetsu1.html

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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