vol.196「三浦按針」について(前編)


関ヶ原の戦いの半年前に日本に漂流しちゃったイギリス人「ウィリアム・アダムス」さん。ハリウッド制作ドラマ「SHOGUN」で主役として描かれてましたね。あれ、ちゃんと史実通りにやってくれたら良かったのに、設定もストーリーも創作系だから参考にはならず。しかたなく高評価のノンフィクション文献を買って読みましたさ。




● 見慣れぬ謎の異国船が漂着する


慶長5年(1600)関ヶ原の合戦が始まる半年前のこと。豊後国(現在の大分県)臼杵の沿岸に、見慣れぬ異国の軍船が漂着した。その船は、当時アジア海域で広く用いられていた中国式のジャンク船でもなく、毎年ポルトガル人が長崎へ来航させていた巨大なカラック船とも異なる構造をしていたという。


船内にはわずかな乗組員が残っていたが、いずれも長い航海の疲労と飢えにより衰弱しきっており、自力で立ち上がることすら困難な状態であった。そのため、臼杵の住民が積み荷を奪おうとして船に乗り込んできても、抵抗すらできなかった。さらに、言葉もまったく通じず、彼らがどこの国から来た者なのかさえ判然としなかったのである。


翌日、臼杵城主であった「太田一吉」は、配下の役人を船へ派遣し、漂着船の詳しい調査を命じた。調査を終えた役人の報告を受けると、一吉は大いに首をかしげたという。当初は南蛮人の商船が貿易を目的として来航したものとも考えられたが、船内には大砲をはじめとする大量の武器が積み込まれていた。さらに、乗組員たちの身なりや振る舞いも商人というよりむしろ兵士に近く、通常の交易船とは明らかに様相を異にしていたからである。


「この漂着船は、単なる南蛮貿易船ではないぞ、、」


一吉は、この不可解な漂着船について上級機関へ報告する必要があると判断し、ただちに長崎奉行「寺沢広高」に書状を送った。


書状を受け取った広高は、直ちに検使を臼杵へ派遣し、船と積荷の詳細な調査を命じた。検使が作成して提出した積荷目録によれば、船内には大型の大砲が19門積載されていたほか、多数の武器類が確認された。これらはいずれも明らかに戦闘用の装備であり、明らかにほかの船を攻撃するためのものだった。


ちょうどその頃、外国船の来航を聞きつけた「イエズス会」の宣教師たちが臼杵を訪れた。彼らは当初、漂着船をスペイン船だと考えていたが、乗組員と接触した結果、それがオランダ人の船であることを知る。これを受けて宣教師たちは臼杵城へ赴き、「あの船は海賊船であり、乗組員はただちに処刑すべきである!」と一吉に進言した。


さらに、長崎にいたイエズス会士たちも広高に書状を送り「漂着船は海賊船であり、乗組員はポルトガル人およびすべてのキリスト教徒の敵である!」と強く訴えた。こうした検使の報告と宣教師たちの訴えを受けた広高は、状況を整理したうえで、大坂城にいた徳川家康に報告書を送付し、漂着船および乗組員の処遇について判断を仰いだ。


当時、2年前の豊臣秀吉の死後、日本の政治情勢は極めて不安定な状況にあった。五大老の筆頭であった家康は次第に権勢を強め、事実上の天下人として大坂城西の丸で政務を執っていた。まさに国内の緊張が高まり、いつ大きな争乱が起きてもおかしくない情勢のなかで、この正体不明の武装外国船の来航という報が、家康のもとに届けられたのである。




● 報告を受けた家康は、、


この船が海賊船であるならば、本来は直ちに処刑を命じるべき案件であった。しかし家康は、漂着船が単なる海賊船ではない可能性に気づく。スペインやポルトガル以外にも、日本へ到来し得る「南蛮」の国が存在するのではないかと考えたのである。


そこで家康は、この件を長崎奉行に一任するのではなく、自ら調査することを決断する。家臣を豊後へ派遣するとともに、漂着船の主要な船員二名を大坂へ連行するよう命じた。


当時、船にはわずか十八名の乗組員しか残っていなかった。船長は病のため動くことができず、その代わりとして船長に次ぐ立場の舵手と一人の商人が大坂へ向かうこととなる。舵手は、オランダ人に雇われていたイギリス人航海士ウィリアム・アダムスであり、同行した商人はオランダの名家の出身であるヤン・ヨーステンであった。


大坂到着後、二人は直ちに家康の前に召し出され、事情聴取を受ける。はじめは身振り手振りで意思疎通を図ったが十分に通じなかったため、ポルトガル語を解する通訳を介して尋問が行われた。


この尋問によって、家康の世界認識は大きく広がることとなる。それまで家康が把握していた情報は、アジア諸国の情勢に加え、遠方のポルトガルとスペインがアジアと定期的に往来していること、さらにポルトガルはインドのゴアや中国のマカオに拠点を持ち、スペインはアメリカ大陸やフィリピンを植民地としているという程度にとどまっていた。しかし、アダムスとヨーステンの証言によって、ヨーロッパ世界にはさらに多くの国々が存在し、それぞれが海洋を通じてアジアへ進出している実態が明らかになったのである。


アダムスはさらに、ヨーロッパ世界の政治状況についても家康に説明した。すなわち、スペインとポルトガルのほかに、さらに遠方にイギリスとオランダという国が存在し、これらの国々はイベリア諸国と戦争状態にあるというのである。


この説明によって、漂着した船が重武装していた理由も明らかになった。アダムスが乗っていた艦隊は、アジアへ向かう航海の途中で、スペインやポルトガルが支配する海域を通過しなければならなかった。そのため、敵国の船と交戦する可能性に備えて武装していたのである。


この艦隊は当初五隻で構成されていたが、日本に到達したのは「リーフデ号」一隻のみであった。もともと110名いた乗組員も、この時点で生存していたのはわずか18名に過ぎなかった。


航海は2年にも及び、その間、船員たちは伝染病の流行、深刻な食糧不足、さらにはイベリア勢力との戦闘など、過酷な試練にさらされた。こうした状況を乗り越えた末の日本到達は、まさに想像を絶する悲惨な渡海の果ての出来事であった。




● 家康はアダムスを質問攻めにする


家康とアダムスらとの質疑応答は、深夜に及ぶまで続いたと伝えられている。政務に多忙であった家康がこれほど長時間を費やしたことからも、彼が彼らの知識や証言に強い関心を抱いていたことがうかがえる。


さらに二日後、家康はアダムスたちを再び呼び出し、世界情勢について矢継ぎ早に質問を重ねた。ヨーロッパ諸国の関係や海上交易の実態など、当時の日本ではほとんど知られていなかった情報を直接聞き出そうとしたのである。


こうしたやり取りから、アダムスは家康に好意的に受け入れられたようにも思われた。しかし、その後一カ月以上にわたり呼び出しはなく、彼らが軟禁されていた場所には外部の情報もまったく入らなかった。


この不安な日々について、アダムスは後年「未知の友人」宛ての書簡の中で回想している。そこには「この間、私は毎日のように磔にされるのではないかと思っていた」と記されており、当時の彼が抱いていた強い恐怖と不安のほどがうかがえる。


アダムスに三度目の召喚が下されたのは、前回の尋問から四十一日後のことであった。家康は再び彼を前にし、ヨーロッパ諸国の事情や航海、世界情勢について数多くの質問を投げかけたと伝えられている。


やがて尋問が終わりに近づいた頃、家康はアダムスに対して「あの船に戻り、同胞に会いたいか」と問いかけた。アダムスが「ぜひともそうしたい」と答えると、家康は「それならば会ってくるがよい」と許可を与えた。


実はこの時、家康はすでにリーフデ号とその乗組員を堺へ移動させていた。久しぶりの再会を果たしたアダムスたちは、涙を流して互いの無事を喜び合ったという。


しかし、その後も家康はアダムスの出国を許さなかった。アダムスが幾度も帰国を願い出ても認められず、日本に留め置かれることになる。


やがてアダムスは、家康に西洋の学問を伝える存在となった。幾何学や数学をはじめとする学問の初歩を教授し、いわば家康の“西洋学の教師”のような役割を担うようになったのである。学問に強い関心を持っていた家康はこれを大いに喜び、両者の距離は急速に縮まっていった。


アダムス自身が後年「未知の友人」宛ての書簡の中で述べているところによれば、家康は彼を師として深く尊重し、彼の言葉をそのまま受け入れるほどであったという。こうして両者の間には、やがて揺るぎない信頼関係が築かれていったのである。




● アダムス、家康に気に入られ「三浦按針」となる


当時、徳川家康に直接面会できる人物は、原則として旗本以上の身分に限られていた。そうした中で、もとは一介の船乗りにすぎなかったイギリス人のウィリアム・アダムスが受けた異例の待遇の背景には、家康自身の性格と政治的判断があったと考えられる。


当時の史料によれば、アダムスは豊富な知識を備えた誠実な人物であり、真面目で責任感の強い性格であったとされる。相手の身分に関わらず、納得できないことには安易に同意せず、たとえ自らの立場が不利になる場合でも率直に意見を述べる人物であった。また、人のために尽力することを惜しまず、任された使命を最後まで果たそうとする姿勢を持っていたという。


こうした資質は家康から高く評価された。家康は有能な人物を身分にとらわれず登用する柔軟さを備えており、アダムスの能力と人格を見抜いたうえで、側近として重用したのである。


その信任は極めて厚く、家康は晩年、アダムスの帰国願いを最終的には認めたものの、なお自らのもとを離れないよう懇願したと伝えられている。この逸話は、家康がいかにアダムスを信頼し、深く寵愛していたかを物語るものと言えるだろう。


対外政策を推進するうえで、ウィリアム・アダムスは徳川家康にとって欠かすことのできない人材であった。17世紀初頭、世界的に海上交易が拡大する中で、西洋諸国の船が相次いで日本に来航するようになっていた。こうした状況を踏まえ、家康は海外との交易を積極的に取り入れ、自由貿易の促進によって国内経済の活性化を図ろうとしていたのである。そのためには、西洋世界の政治情勢や海上交易の実態についての正確な情報が不可欠であり、家康はアダムスを通じてそれらの情報を収集しようとした。


また家康は、日本の造船技術を向上させ、日本人による海外航海を可能とする基盤の整備にも力を入れた。アダムスや同行していたオランダ人の船大工に命じて二隻の洋式帆船を建造させ、西洋の造船技術を積極的に取り入れたのである。こうして得られた技術は、当時東南アジアとの交易で用いられていた朱印船貿易のジャンク船の建造にも活用され、日本の海上活動の発展に寄与した。


さらに、オランダやイギリスの使節が駿府城の家康を訪れた際には、アダムスが通訳兼仲介者として重要な役割を果たした。こうした外交交渉の結果、両国は平戸に商館を設立することとなり、日本と西欧諸国との貿易関係は新たな段階へと進むことになった。


この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、相模国逸見に采地も与えた。また、「三浦按針」の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。




ってことで家康様、知識の金のガチョウのようなアダムスを手放すわけもなく。まだ見ぬ世界への鍵をゲットして胸ワクワクのご様子ですね。好奇心旺盛な家康様にはたまらない夢がモリモリな展開ですが、ところが、数十年後に徳川幕府が選んだのは「鎖国」という未来。。


なぜなんだぜ。




参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・アダムス
https://hoshinoresorts.com/jp/guide/area/chubu/sizuoka/ito/miura-anjin/

https://president.jp/articles/-/76338

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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