中央区日本橋、五街道の起点となっている日本橋からほど近いところに「按針通り」という小さな通りがあって、三浦按針の屋敷跡を示す石碑が残されとります。
三浦按針がこの屋敷を拝領されたころ、この辺りは江戸前島と呼ばれる岬状の地形となっており、多くの魚河岸問屋が営業していたそうな。ここに三浦按針の屋敷があったことから、この辺りは按針町と呼ばれていたが、昭和7年に日本橋室町1丁目と本町1丁目に編入される形で地名としては消えてしまったらしい。
しかし、今でもその名が通りに冠され残っているとは、すごいな按針。ジョンレノンよりすごいんじゃないか、ひょっとして。
、、それは微妙か。
● 鎖国体制のきっかけを作った「三浦按針」
徳川家康が対外政策の中で特に重視していたのは、スペインとの交易関係の確立であった。スペイン側も日本との貿易には強い関心を示していたが、その実現の条件として、当時スペインと戦争状態にあったオランダ人を日本から追放するよう強く要求した。いわば外交上の揺さぶりである。
これに対して家康は、特定の国に肩入れすることなく、中立的な立場を保ちながら慎重に交渉を進めた。スペイン側の要求を正面から受け入れることも拒絶することもせず、時間をかけて交渉を続けたのである。さすが大狸の家康様じゃ。
その交渉の過程で、スペイン使節セバスチャン・ビスカイノが「江戸湾の測量」を願い出る場面があった。これはスペイン船が安全に江戸湾へ入港するために必要であるという理由によるものであり、家康はこれを許可した。
しかし、この話を聞いたウィリアム・アダムスは強い危機感を抱いた。若き日のアダムスは、スペイン艦隊がイギリス侵攻を試みた際の戦いに参加しており、その時はイギリス艦隊の補給船の船長としてスペイン艦隊との海戦を経験していたのである。
アダムスは急ぎ家康のもとに赴き、スペイン人が江戸湾を測量しようとするのは、将来大艦隊を率いて侵攻するための準備である可能性が高いと警告した。そして「自分の祖国イギリスであれば、他国による海岸測量など決して許さない」と進言したという。
これに対し家康は、すでに許可を与えた以上、今さら撤回すれば面目が立たないと説明し、仮に攻撃を受けたとしても防衛の兵力は十分に備えていると述べたと伝えられる。
しかしアダムスはさらに踏み込み、スペインの海外拡張の手法について説明した。すなわち、まず宣教師を送り込み、現地の人々をキリスト教に改宗させ、やがてそのキリスト教徒と協力して国を征服し、最終的にスペイン国王の領土として組み込むというものである。この進言の内容は、当時のスペイン使節ディエゴ・デ・サンタ・カテリーナの報告書にも記されている。
すでにキリスト教の布教活動に対して警戒心を抱いていた徳川家康は、やがて駿府城の周辺にも多くのキリシタンが存在していることを知るに至る。こうした状況を受け、家康はついに禁教令の布告に踏み切った。これは日本におけるキリスト教布教を厳しく制限するものであり、のちに徳川秀忠・家光の時代に確立されていく鎖国体制へとつながる重要な第一歩であったと考えられている。
一方、家康から帰国の許可を得ていたにもかかわらず、ウィリアム・アダムスが母国イギリスへ戻ることはなかった。アダムスはイギリス東インド会社の重役宛ての書簡の中で、「十分な資金を蓄えてから帰国したい」と記している。しかし実際には、日本での生活に深く適応していたとも言われる。
当時来日したイギリス使節ジョン・セーリスは、その航海日誌の中で、アダムスが同胞から「帰化した日本人」と呼ばれていたことを記している。それほどまでにアダムスは日本社会に溶け込み、日本人の生活様式にも馴染んでいたのである。
また、日本では家康の側近として外交や貿易において重要な役割を担っていたが、仮にイギリスへ帰国すれば再び一介の船乗りとして生きることになる。そのような立場の違いも影響していたのか、アダムスは帰国を先延ばしにし続け、最終的に日本でその生涯を終えることとなった。
1616年、徳川家康が死去すると、幕府の政治体制にも変化が生じた。将軍となっていた徳川秀忠は、父の側近たちと距離を置き、自らの方針に基づく政治を進めるようになる。
秀忠は、家康の時代に出されていた禁教令をさらに強化するとともに、外国船の貿易活動を厳しく制限した。外国人が交易を行える場所を長崎と平戸の二港に限定する、いわゆる「二港制限令」がそれである。これは、家康が志向していた比較的自由度の高い対外貿易政策とは対照的なものであった。
この政策に対し、ウィリアム・アダムスは強い疑問を抱いた。彼は自由貿易こそが日本の発展に不可欠であると考え、幕府の高官たちにその重要性を訴え続けた。しかし、その主張が受け入れられることはなかった。
やがてアダムスは、将軍秀忠への謁見すら許されなくなり、外交顧問としての役割からも外されてしまう。それまで家康の厚い信任を受け、幕府の対外政策に深く関わってきた彼の影響力は、ここで急速に失われていった。
その後、アダムスは日本においてイギリス人やオランダ人の活動を支援するなどの働きを続けたものの、貿易条件の改善を実現することはできなかった。そして家康の死からわずか四年後の1620年5月16日、55歳でその生涯を閉じたのである。
● もう1人の男「ヤン・ヨーステン」
実は、もう一人、有名な地名になった男がいる。オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長である按針と共に日本に漂着したオランダ人「ヤン・ヨーステン」である。
按針と同じく、徳川家康に信任され旗本となり、江戸城の内堀沿いに邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の千代田区にあたり、現在の中央区八重洲の地名は1954年に成立したものである。「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる。
やがて東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが帰国交渉がはかどらず、結局あきらめて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した。
按針の影に隠れてしまいがちだが、彼もまた家康に大きな影響と未開の知識をもたらした人物であることは間違いない。知らんけど。
● 本当は関係ないけど少し関連する「細川ガラシャ」の悲劇
ドラマ「SHOGUN」では、按針と家康の通訳を「細川ガラシャ」的なキャラが担当しており、ラブストーリーまで展開しているが、これは全くのフィクションである。史実では、按針と細川ガラシャが交わる事実はない。が、創作としてこの2人を絡ませるのは実に面白い発想だったと思う。
細川ガラシャは、1563年頃、戦国武将 明智光秀 の三女として生まれた。幼名は 玉(たま) と言い、父の政略により武将「細川忠興」(細川家の当主)に嫁いだ。しかし、1582年、父・光秀が 本能寺の変 を起こしたことで、運命が大きく変わり始める。
光秀はすぐに敗れ、明智家は滅亡。その結果、玉は「謀反人の娘」となり、夫の忠興によって 丹後の山中に幽閉されてしまう。この幽閉生活は約2年続いた。幽閉が解かれた後、玉はキリスト教に関心を持つようになり、洗礼を受け「ガラシャ(Gracia=恩寵)」という洗礼名を得た。
しかし、豊臣秀吉によるバテレン追放令が出されて以降、ガラシャはキリシタンになったことを隠し続けなければならなかった。もっとも、夫・忠興には改宗したことを告白したのだが、これを聞いた忠興は激怒し、家中の改宗した侍女達の鼻や耳をそぎ、追い出すなど、幸せだった結婚生活は一変した。
そんな折、豊臣秀吉の死によって世の中は不穏な空気に包まれ、1600年には「関ヶ原の戦い」が勃発。その一環として、事実上、西軍を率いていた「石田三成」は、徳川家康に与していた武将の妻らを人質に取るべく行動に出る。
しかしガラシャは人質になることを拒否。これを受けた石田三成は、翌日、屋敷の周りを兵に囲ませ、実力行使に出た。家臣達から報告を聞いたガラシャは、屋敷内の侍女らを全員集め「自分だけ死にたい」と伝え、集めた侍女や夫人達を外へ逃がす。
キリスト教において、自らの命を絶つことは大罪。そのため、ガラシャは家老の「小笠原秀清」に槍で胸を突かせて絶命した。介錯した小笠原秀清も、ガラシャの遺体が残らないよう、屋敷に爆薬を仕掛けて火を放ち、他の家臣達と共に自害。屋敷は盛大に燃えて灰燼に帰した。
細川ガラシャの死は、石田三成に以後、諸大名の妻子を人質に取る戦略をやめさせるなど、大きな影響を及ぼした。夫・細川忠興も、ガラシャの教会葬に参列するなど、一定程度の歩み寄りを見せたという。
あらー、せっかく按針いろいろ頑張ったのに、結局は彼が日本にもたらしたのはグローバル化ではなく、禁教令と鎖国という後ろ向きな結果になっちゃいましたね。そこが歴史の面白いところと言うか、皮肉な現実っちゅーか。
按針は、宣教師どもの真の目的と狡猾な戦略を暴いてくれたわけだが、同時に家康様の海外への警戒心を強めてしまったようで。日本はまだそんな先進国と対等に渡り合える段階ではない、と踏んだ家康様の判断も、ごもっともである。
確かに、キリシタン大名とか、変に影響された奴らが増えるのは困るもん。日本には日本の主従関係があるからね。かつての一向一揆の時も、かなり苦労させられたし。実際、今でも世界では宗教がらみの戦争が絶えないわけで。宗教は怖いっすよ。
やっぱ神社に祈るくらいが丁度良いっすね。
参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤン・ヨーステン
https://www.touken-world.jp/tips/40515/
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