vol.198「大久保長安」について

大久保ちょうあん? ながやす? 読みはどっちでも良いっぽいが、ともかく知りませんよね、こんな人。けれども、こいつがなかなかの実力者だったようで、なんと「家康を創った男」とまで称されてるとか。

そいつは調べなきゃならねぇな。




● 有能すぎてすぐ重宝される男、長安


天文14年(1545)、猿楽師の「大蔵信安」の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて「大蔵流」を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。


父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、「武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになった。長安は信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老「土屋昌続」の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという


武田信玄没後はその子「勝頼」に仕えたが、天正10年(1582)、織田信長徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡。武田家が滅んだ後、長安は徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。


また、一説では、自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。


長安は徳川家臣「大久保忠隣」の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた


天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康は「本多正信」と「伊奈忠次」を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は、釜無川や笛吹川の堤防復旧や、新田開発金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている


天正18年(1590)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は「青山忠成(江戸町奉行)」「伊奈忠次」「長谷川長綱」「彦坂元正」らと共に、奉行(代官頭)に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった


これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。長安が行った検地は「石見検地」と呼ばれ、従来の1間=6尺5寸を6尺1分に短縮して打ち出しを強化するとともに、自作農の保護にもあてるというものであった。


また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は長谷川長綱、彦坂元正、伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている




● 有能すぎてどんどん任される男、長安


天正19年(1591)には、家康から武蔵国八王子に8,000石の所領を与えられ、八王子の町づくりには辣腕を振るう。八王子宿に陣屋を置き、「八王子十八人代官」を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。これは石見土手と呼ばれている。


長安はまた、家康に対して武蔵の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、「八王子五百人同心」の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。


慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役となる。


慶長6年(1601)春に、徳川四奉行補佐にて甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。


慶長8年(1603)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の六男「松平忠輝」の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。慶長10年(1605)、大久保長安を普請奉行として武蔵御嶽神社の本社を普請。


慶長11年(1606)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は、家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である。


これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている


採掘の分野において長安は、甲州流の採鉱法を導入し、横穴を掘り進める坑道掘りによって鉱脈を広く深く追跡する技術を確立した。これにより、鉱山の採掘効率は大きく向上したとされる。


さらに、石見銀山ではポルトガルから伝来した精錬技術「アマルガム法」(水銀流し)を取り入れ、銀の生産量を飛躍的に増大させた。慶長11年(1606)から慶長12年(1607)にかけてのわずか1年間だけでも、幕府に納められた銀は1万貫以上に達したと記録されており、実際の採掘量はその数倍に及んだとも推測されている。まさに、日本最初の「ゴールドラッシュ時代」を長安は創出したのだった。


また長安は、優れた山師を多数配下に置いて鉱山経営の指揮を執り、組織的な採掘体制を整備することで産出量を大幅に伸ばした。従来、女性が鉱山に入ることは忌避される風潮があったが、長安はそうした慣習にとらわれず女性の労働力も積極的に活用したと伝えられている。


さらに、政略結婚を巧みに進めることで各地の有力者と結びつき、自らの地位を一層強固なものとしていった。こうして莫大な富を手にした長安は豪奢な生活を送り、その派手な振る舞いは、徳川政権成立後の新しい時代の到来を人々に強く印象づけるものでもあった。


石見銀山と佐渡金山は、いずれも後世において世界遺産に登録されるほどの規模と歴史的価値を有しており、これら二つの巨大鉱山の開発と運営に関与した長安の手腕は、当時としても極めて卓越したものであったと評価されている。


世界史的に見ても、世界遺産を2つも創った人物は、他にいない。




● 有能すぎて失脚するのも早い男、長安


しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、中風にかかり、慶長18年(1613)4月25日に死去した。享年69。


そして長安の死後、大久保家とバチバチに対立していた本多家によるパワーゲームの巻き返しが起こる。


長安の全盛期、本多正純の家臣「岡本大八」が九州の大名・有馬氏の資金を横領したとする疑惑事件が発生する。長安が事件を担当し、岡本大八を取り調べ、大八を極刑の火あぶりとした。


すると、本多正純は自分の家来を極刑の火あぶりにしたことに激怒。江戸の庶民は大久保家と本多家の対立を囃し立てた。そんな幕府内での両家の対立が深まる中、大久保忠隣の嫡男・忠常が32歳という若さで急死する。


すると権勢に影が射しかけた大久保忠隣に対して、追い討ちをかけるように、本多正純が巻き返しに出た。忠隣が幕府に許可を得ないで、養女を勝手に大名と縁組みさせていたことを明るみにしたのだ。


さらに、同じ年に大久保長安が死去すると、長安の葬儀が済まないうちに「長安は幕府の金銀財宝を着服していた」という嫌疑がかけられた。役人が取り調べると証拠が発見されたために、長安の遺体は磔にされ、長安の7人の子息は全員が切腹となった。


さらに大久保忠隣は、突然謀反の疑いをかけられ、「大久保長安事件」に関与したこととあわせて、忠隣は近江井伊家預かりとなって、相模小田原藩6万5千石は取り潰しとなった


本多氏の行状に憤りを覚えた大久保忠世の末弟の大久保彦左衛門忠教は、著書「三河物語」の中で、家康の側近として権勢を振るう側近たちを痛烈に批判している。


ライバルの大久保氏を打ち倒して一人勝ちとなった本多正信・正純親子だが、やがて台頭してきた秀忠の側近たちの絶好の標的にされる。徳川家康が1616年元和2年に逝去すると、本多正信も後を追うように2ヶ月後に亡くなった。


将軍・徳川秀忠が幕府の実権を掌握すると、家康と父という後ろ楯を失くした本多正純は、たちまち窮地に追い込まれる。宇都宮藩15万5千石の藩主本多正純は「宇都宮釣天井事件」で、将軍秀忠を暗殺しようと企んだとして出羽国へ配流された。


そして配流先で幽閉された本多正純は「日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく」との和歌を残して1637年寛永14年、72歳で死去している。




いやはや、なんとオモロすごい話で。

こんな有能すぎる途中入社組の家臣がいたとは知らなかった。八王子では伝説の代官として語り継がれてるようだが、私のようにその名を聞いたことすらなかった人も多いのではなかろうか。


そういや徳川幕府の資本金は金山で、初期はそのおかげで城とか寺とか建てまくり、国も運営できてたと、(そして金山が枯渇してから財政難になったと)かつて学んだ気がする。

(参照:vol.55『経済で読み解く日本史』を読んで


つまり、大久保長安による金山経営の大成功があったからこそ、江戸幕府の成立〜安定化も成功したと言っても過言ではないわけで。なるほど確かに「家康を創った男」と呼ばれるだけのことはある。


猿楽師の生まれから、これってすごない? 日本一、金を稼いだ男じゃん。。

いや〜まだまだ知らないことたくさんあるもんだ〜。



参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/大久保長安
https://toyokeizai.net/articles/-/723231?page=3

https://www.simizukobo.com/ookubonagayasu

https://ameblo.jp/historykunibo/entry-12788510623.html

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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