時は慶長5年(1600)、江戸とあんま関係ないのでスッ飛ばしますが、天下分け目の関ヶ原の戦いがサッと終わりまして。その直後から約15年ほどの間「慶長の築城ラッシュ」ゆー城の建設ブーム期があったんですと。いやブームって言葉だと流行みたいな感じになってしまうけども、実際は必要に迫られてのもので。つまりはこの頃、次なる大戦の予感がプンプンしてたってわけですな。
● 第2ラウンドに備えねば!
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いによって、徳川家康の勢力は大きく拡大した。戦後、家康の直轄領はおよそ400万石に達し、それまで約250万石とされていた所領から実に150万石もの増加となった。圧倒的な石高を背景に、家康は諸大名の中で抜きん出た権力を握ることになる。
しかし、この時点で家康はなお豊臣政権の「五大老」の一人に過ぎなかった。関ヶ原の戦いはしばしば「天下分け目の戦い」と呼ばれるが、これによって完全に決着がついたわけではない。豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼は、戦後に所領を削減されたとはいえ、成人後には関白に任じられることが約束されており、依然として大坂城には豊臣政権の威光が残っていた。
関ヶ原の戦いの後、家康は全国規模で大名の配置替えを断行した。新たな領地を与えられた大名たちは、それに見合う居城を整備する必要に迫られ、新城の築造や既存の城郭の大規模改修を進めることになる。とりわけ中国・四国・九州など西日本には多くの外様大名が移され、各地で巨大な城郭の建設が相次いだ。
当時の大名たちは、再び大規模な戦乱が起こる可能性を想定していたと考えられる。慶長年間には全国で城郭建設が急増したことから、この時期はしばしば「慶長の築城ラッシュ」と呼ばれる。現在まで残る近世城郭の多くも、この時期に築かれたものである。
この城郭整備の流れの中で、家康自身もまた各地で城の築造を進めた。しかもその工事には、譜代大名だけでなく外様大名までも動員されている。このように諸大名に工事を分担させて行う大規模な公共事業は「天下普請(てんかぶしん)」と呼ばれる。家康がこうした方法で城の建設を進めた背景には、豊臣秀頼の居城である大坂城を軍事的に牽制する狙いがあったと考えられている。
● あえて豊臣組に徳川の築城を命じる家康様
慶長年間のいわゆる「慶長の築城ラッシュ」の中で、徳川家康が天下普請によって築いた城は数多い。その中でも代表的なものとして挙げられるのが、江戸城・駿府城・名古屋城の三城である。
これらの城は、単なる居城の整備にとどまらず、軍事的な拠点として重要な意味を持っていた。すなわち、豊臣秀頼が豊臣恩顧の大名たちを糾合し、関東方面へ進出してくる事態を想定した場合、この三城によって防衛線を構築する構想があったと考えられている。
家康はこれらの築城工事に際して、あえて豊臣恩顧の大名たちを天下普請として動員した。天下普請には諸大名の財力を消耗させる狙いがあったとも指摘されるが、それ以上に、家康への服属関係を明確に示させる政治的意図が大きかったとみられる。
名古屋城の築城に関しては、豊臣恩顧の大名である福島正則が不満を漏らしたという逸話が『徳川実紀』に残されている。正則は「江戸・駿府は天下の重鎮なればさもあるべし、名古屋は庶子の住居なり」と述べ、家康自身の居城である江戸城や駿府城の普請であれば理解できるものの、家康の子の城である名古屋城の築城に動員されることには納得がいかないと語ったとされる。
この発言の背景には、名古屋城の普請に従事すること自体が、家康への服属を公然と示す行為になるという事情があった。「不満があるなら帰って戦の準備をすればよい」と福島正則をなだめたと伝えられる加藤清正も、同様の思いを抱いていた可能性は高い。
家康は、こうした豊臣恩顧の大名たちの内心の不満を十分に承知したうえで、あえて天下普請を命じたと考えられる。そこには、諸大名の主従関係を改めて明確にし、徳川政権の支配体制を固めるという明確な政治的意図が存在していたのである。
当時、普請奉行に任じられたり、大規模な普請工事に参加することは、大名や家臣にとって名誉な任務と考えられていた。こうした役目を与えられることは、主君からの信頼の証であり、功績を挙げればさらなる出世につながる可能性もあったからである。
実際には必ずしもその期待が実現するとは限らなかったものの、当時の価値観からすれば、普請への参加を命じられること自体が一種の栄誉と受け止められていた。そのため、諸大名は工事に力を尽くし、名古屋城の普請では、加藤清正が巨石を運び込んだという逸話が残るなど、各大名が競うように普請に尽力したと伝えられている。
このように、天下普請は単なる土木事業ではなく、諸大名の労力や財力を動員しつつ、その忠誠心を引き出す仕組みとして巧みに機能していた。徳川家康が用いた統治手法の中でも、天下普請は極めて巧妙な政治的戦略であったと評価されている。
● しかも建築技術が全国的に飛躍した
慶長期の築城ラッシュの時代には、城郭建築の技術が飛躍的に進歩したといわれている。
まず注目されるのが石垣の技術である。この時期には、石垣の隅を強固に組み上げる「算木積み(さんぎづみ)」が完成し、石垣構造の安定性が大きく向上した。また、石材の加工技術も進歩し、石を精密に切り整えて積み上げる「切込接(きりこみはぎ)」の技法が広く用いられるようになる。さらに石垣の表面に美しい曲線、いわゆる「反り」が付けられるようになり、これによって従来よりも高く、かつ堅牢な石垣を築くことが可能となった。
天守の構造にも変化が見られる。それまで主流であった望楼型天守に代わり、工期が比較的短く、構造的にも合理的な層塔型天守が登場したのである。層塔型天守は建築効率に優れ、コスト面でも有利であったため、近世城郭における標準的な形式として広まっていった。
さらに、徳川家康が全国の大名を動員して実施した天下普請は、城郭建築の技術を全国へと広める役割を果たした。各地の大名が大規模な普請工事に参加することで、石垣や天守の新しい技術が急速に共有されていったのである。
こうした技術革新の積み重ねによって、慶長年間のおよそ15年という短い期間のうちに城郭建築は大きく発展し、近世城郭はその完成期ともいえる頂点を迎えることになった。
● 名古屋城の石垣に見られる様々な刻印
名古屋城の石垣は、本丸・二之丸・西之丸・御深井丸を中心に築かれており、三之丸まで含めると城全体の石垣の総延長は約8.2キロメートルに及ぶ。これは近世城郭の中でも屈指の規模を誇るものである。
この築城工事において、石垣普請を担当したのは主に西国の外様大名およそ20家であった。工事は「丁場割り」と呼ばれる方法によって進められ、各大名ごとに担当区域が割り当てられていた。現在でも石垣の石をよく観察すると、さまざまな刻印が刻まれていることが分かる。これらの刻印は、各大名が運び込んだ石材を他家のものと区別するための印と考えられており、工事における混乱や争いを避けるための工夫でもあった。
この石垣工事において特に活躍したと伝えられるのが、石垣築造の名手として知られる加藤清正である。清正は城の中でも最も重要な天守台の石垣を担当し、肥後熊本からおよそ2万人の人夫を率いて工事に参加した。そして、伝承によれば、わずか3カ月足らずという短期間でその工事を完成させたと伝えられている。
普請を命じられた大名は、その成果を試される。過酷な力仕事に携わるのは、強靭な肉体を持つ荒くれ者が多い。そんな荒くれ者どもをコントロールし、いかに素早く、見事な仕事を成し遂げるか。戦国大名たちにとって、これは新たな戦だった。すぐ隣には少し前まで敵対していた大名の担当範囲があるのだから、大いにライバル心を燃やしたことであろう。
・江戸城(武蔵国、東京都):1603年~1614年
・名古屋城(尾張国、愛知県):1609年~1612年
・高田城(越後国、新潟県):1613年~1614年
・駿府城(駿河国、静岡県):1607年~1608年
・伊賀上野城(伊賀国、三重県):1611年~1615年
・加納城(美濃国、岐阜県):1602年~1603年
・福井城(越前国、福井県):1601年~1607年
・彦根城(近江国、滋賀県):1603年~1606年
・膳所城(近江国、滋賀県):1601年
・二条城(山城国、京都府):1601年~1606年
・丹波亀山城(丹波国、京都府):1609年~1610年
・篠山城(丹波国、兵庫県):1609年
・大坂城(摂津国、大阪府):1620年~1629年
さすが家康様。緊迫していた不穏な空気や、関ヶ原で残った各大名のフラストレーションを、天下普請によって見事に発散させておられる。
そして、これには「今後は戦や破壊ではなく、土木工事で何かを創造することに、その能力を使い、競い合え」というメッセージが込められている。
実際、歪み合ってた大名同士が一緒に美しい石垣を完成させて、最終的にお互いの仕事を讃えて仲良くなった事例もあるだろう。作られた城たちも、軍事要塞としての機能よりも、見た目の美しさを競った主旨へと変化しているらしい。
つくづく家康様は偉大ナリね〜(突如コロ助)。
参考
https://blog.kojodan.jp/entry/2020/11/18/180000
https://www.rekishijin.com/33380https://www.takamaruoffice.com/shiro-shiro/edo-period-castle-rush/
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