祝! 200投稿目! やればできる!
けど、5日で1投稿なんで次の300回目を祝う時には、今より500日年を取ってるわけで。400回目は1000日後だし、500回目のころには今より4歳老けてると思うと、、あれ、なんだろう嬉しくない。。
まー、そんなこと考えるのはやめにして、記念すべき200回目は「江戸城の建設」について、である。関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長8年(1603)2月12日、家康は征夷大将軍に任じられる。これをもって、一般には「江戸開府」(江戸幕府の創設)とみなされている。いよいよ本腰入れて江戸城を築ける時が来たのである。しかし、巨大な城を築くのって、そりゃ大変なことで。一体どうやって作ったのか。以下の資料を参考に見てゆこう。
● まずは江戸湊を整備する
慶長8年(1603)3月、大工事を始める前の準備として、江戸湊の海岸線を整え、船着き場を築いた。これは、全国から船積みされて運ばれてくる建築資材(石や木)を荷揚げするためである。
神田山を切り崩し、その上で「の」の字型の大拡張計画にもとづき、遠浅の日比谷入江を埋め立ててゆく。同時に、その東側州崎=江戸前島に掘り割りして道三堀と結び、これを平川に通じて堀川(日本橋川)と名付けた。そこに大きな日本橋をかけ、五街道の起点としたのである。
● 伊豆の採石場
慶長9年(1604)、いよいよ幕府は江戸城の大構築計画を発表する。この時、石垣を築く、土木工事を命じられたのは、池田輝政、福島正則、黒田長政、加藤清正など、豊臣家に使えたことがある外様大名たち。
各大名は、石を運ぶ「石船」を、各300〜400ほど2年がかりで準備し、ようやく江戸に集まって、受け持たされた土木工事の指揮をとり始める。石山は、関東地方には少なく、伊豆半島へ雇い入れた石工と共に多くの家臣を人夫として派遣した。
採石場では、まず石工が「ゲンノウ」と呼ばれる金槌とノミで矢穴を掘って崖から石を切り出し、数トンの大きさに割る。それを「修羅」というソリに乗せて海岸まで運び、幕府役人の「石改め」を受けてから石船に積むと、先を争って江戸へと向かった。
時には、大風に遭うこともあり、鍋島勝茂の石船が120艘、加藤義明のが46艘、黒田長政のが30 艘も、沈没したと伝えられる。
● 木曽山林の小谷狩り〜材木の輸送
建築工事に使う木材は、利根川上流の関東北部山岳地帯や、富士川上流、木曽川上流から運び出した。特に木曽谷の大山林は、昔から良質のヒノキの大材が得られることで有名であった。
まず建築を立てる大工統領の注文を受けて、必要な寸法の木を杣頭(木を伐り出す職人の指導者)が探す。そこでその立木を根伐りして形をそろえ、谷へ寄せ集め、とりあえず川筋へ引き出す。これを「小谷狩り」と言った。
木曽川上流に運ばれた材木は、ゆるやかな流れのところに集め直す。材木が流れないように網が張ってあるので「網場」といわれ、ここで寸法の似かよった材木を種分けして、それぞれ筏(いかだ)に組む。そして筏乗りの川下りがあって、伊勢湾まで送られた。
こうした巨木は、長いだけに大石を運ぶより大変で、数千人の人夫を使って木曽川を堰き止め、水の浮力を利用しつつ、やっとの思いで運び出した。それからさらに船で引いて遠い江戸湊まで一年がかりで回送したという。
● 江戸町中の運搬
大石の運搬には修羅のすべりを良くするために昆布を敷き、上に南蛮人風の変わった格好をした音頭取りが乗って、鐘や太鼓を打ち鳴らし、大勢の人夫が力を合わせて引いた。時には千人引きどころか、三千人、五千人引きの大石が数知れず町中を運ばれた。
まさに荒くれ男たちの仕事である。しかも各大名は、他藩より少しでも早く立派に石垣を積み上げようと躍起になり、火事とお祭りが一度におこったような騒ぎで、江戸の町は、湧きに湧きたったという。
● 江戸城の石垣積み
慶長10年(1605) 4月、江戸城の天下普請が本格化するにあたって、家康は秀忠に征夷大将軍の職を譲り、隠居している。二台将軍になった秀忠は、築城術ね大家「藤堂高虎」に命じて、改めて江戸城自体の基本計画を委ねる。
これを「縄張り」と言うが、高虎は豊臣家に使えていた時から、郡山城、和歌山城、小倉城を計画しており、城の縄張りの名人であった。関ヶ原の後、家康の信任を得て、秀吉の作った大阪城に対抗し、二条城や伏見城を縄張りし、今また江戸城を天下一の城にしようとしたのである。
だが、江戸は今までの土地と勝手が違った。硬い岩盤の上に石を積む時は良いが、江戸城の堀は日比谷入江を埋め立てた泥地に築くため、重い石垣はずぶずぶと沈んでしまうのだ。そこで、泥の中に松の木を並べて筏を組み、それを長い杭を打って止め、石垣を乗せる方を取った。しかし、それでも工事なかばにせっかく積んだ石垣が崩れ、数百人が下敷きになって死ぬこと事故もあった。
これを聞いた加藤清正の話は有名で、人夫に命じて武蔵野に茂っていた茅を刈り取らせ、それを泥沼の中に敷き、10歳から15歳までの子供を集めて、その上で遊ばせることで、時間をかけて踏み固めた後、石垣を築いたというものだ。おかげで工期はかかったが、地震が来てもびくともしなかったという。
●大天守の設計と作事
石垣積みの土木工事が終わると、いよいよ建築工事のスタート。高虎の縄張りした江戸城は、江戸の「の」の字型都市計画にしたがって「渦郭式」の構造になっている。これは、本丸の高台の周囲に、二の丸、三の丸、西の丸、北の丸を順次、渦巻き状に配置してゆく構造で、城の縄張りとしては最も複雑で、敵が攻めにくいもの。
さらに、小天守を輪のように連結する「環立式」天守を作ることで、本丸の中に大・小4つの天守で囲まれた「天守丸」という特別な郭ができる。これにより、例え敵に本丸まで攻め込まれても、この天守丸だけで籠城することができ、まさに難攻不落の新方式であった。
この環立式の大天守は、もちろん歴史上かつてない規模の高層建築であった。天守丸石垣を任されたのは、伊達政宗、上杉景勝、蒲生政宗など、関東・東北地方の諸大名。この上に高さ約44mの外観五層の大天守が組み上げられた。最終的には地上84mほどの大天守が町中にそびえたったのだから、立派な高層建築と言えよう。
● 大阪の陣と家康の死
江戸城が一応完成すると、家康は自分の隠居城として、駿府に城を築く。それから次に名古屋城を築き始める。すでに完成していた二条城、伏見城とあわせると、江戸幕府の大城郭が東海道筋になんと5つも揃ったわけで、豊臣秀頼の居城=大阪城を攻めたてる構えになっていた。こうして家康と秀忠は、万全を期して大阪冬の陣をおこしたのである。いったんは休戦したものの慶長20年(1615)に夏の陣があり、さしもの大阪城も落城となった。
豊臣家が滅びて、徳川家に敵対する勢力はまったくなくなり、日本には平和な時代が訪れた。家康は、翌年4月、豊臣家の滅亡を見届けるかのように駿府城で75歳の生涯を終えた。その亡骸は遺言により、とりあえず久能山に祀られ、やがて日光東照宮に移された。江戸城にも紅葉山に東照宮が建てられ、依頼、家康はこの紅葉山の上から江戸の町を見守ることになったのである。
ふう。人様の文献を勝手に文字起こしするのも、それはそれで楽じゃないっす(良い子は真似しちゃダメだぞ)けど、自分用のメモとしては本より手軽に読み返せるので、のちのち便利だ。
ちなみにこの本、問屋組合の本棚に何十年もホコリ被ったまま眠ってて、とうとう捨てられそうになった本の山たちの中から、私がサッと引き抜いてきたもの。なかなか良い拾い物をしたでござるよ。1982年発行ですって。1932年生まれの作者さんはさすがにもう亡くなってるのかしら?
良い知識を誠にありがとうございました。
ご冥福をお祈りします(94歳でご存命かもですが)。
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