vol.207『江戸の名主 馬込勘解由』を読んで

読んで、と題したが、正直に言うと読んでない。いや、読む努力はしたのだが、ど素人にはとても読み切れない代物で。決して悪い意味ではなく、内容が濃いの、濃すぎるのよ。だから買った直後に投げ出して2年半寝かせてから再トライしてみたのだけど「まだ10年早いわ!」って返り討ちにあってしまいましてな。


とりあえず現段階でかろうじて把握できたことを記しておくが、ちゃんと理解できてない奴が書いたメモなので、そこは悪しからず。




● そもそもどこの誰なの馬込勘解由


馬込勘解由にまつわる資料は少なく、一部は「江戸東京博物館」に保管され、その全貌は未だ調査、研究中の部分も多いと言う。つまり、歴史研究家の方々ですらよく分かってない人物なのだ。であるからして、私がいくら調べたところで、分かりやすくまとめられるわけがない。


〜〜由緒書によれば、初代「伊東平左衛門」は遠江国敷知郡馬込村(静岡県浜松市中央区中央)の郷士で、幼少より時の領主徳川家康に仕え、兵站を担っていた〜〜


とwikiにあるが、「伊東平左衛門」で検索すると別人の建築家「伊東平左衛門9世」が出てくる。しかも慶長年間から続く宮大工だってのが、また同時期でややこしい。なんせ「馬込勘解由」の名も、家康の時代より代々世襲として継承されとるだけに、ますます混乱させられる。あと、兵站って言葉も聞き慣れてなくて全然スッと入って来ないしよ。


ともあれ、その兵站ってのをやってた方の平左衛門が、天正18年(1590)家康に連れ立って江戸まで付いて来て、江戸町名主を命じられ、江戸前島の宝田村に土地を与えられ、名字帯刀を許され、馬込勘解由と名乗るようになる、と。ってことは、かなり信頼されてた人物のようだ。そんなに信頼されてた家臣なのに、こんなに知られてないとは。スーパー花形社員(武将)らの影に隠れた、地味な事務方社員ってとこだろか。




● しかしその事務方なくして江戸成り立たずで


腕自慢の武士らが、土木工事や石垣作りやらのガテン系仕事に駆り出されてたころ、事務方には事務方にしかできないお仕事が命ぜられる。そのひとつが前回メモった「伝馬役」で。陸路による人、モノ、情報の流れを司る重要な役職であり、大雑把で大酒飲みの武士どもには務まるはずもない。


慶長11年(1605)江戸城拡張の第一次天下普請により、日比谷入江東沿岸の「宝田村」の住民が「大伝馬町」に移転。馬込家は大伝馬町二丁目に住居兼「御伝馬御用取扱所」を設ける。(大伝馬町の他に、小伝馬町南伝馬町も同時に誕生し、三伝馬町と呼ばれるようになる)


家康に伝馬役と町名主を命じられた江戸の町制度は、町奉行が町民を支配する。町政の実務は、町年寄、町名主、月行事、店子、という階層で形成されていた。町年寄は日本橋一丁目の「奈良屋市右衛門」、同二丁目の「樽屋藤左衛門」、同三丁目の「喜多村弥兵衛」の三家が代々世襲で務め、御触の伝達や、人別調査、人口の集計などを行なった。


町名主は伝馬役との兼業であり、一人で7~8町を受け持ち、御触の伝達、町奉行や町年寄の指令による諸調査を担当した。月行事は家持や家主から町ごとに毎月選ばれる。選出された家主の役目は火の番や夜回り、水道井戸の修繕など自身番屋で事務を執り町の生活と密接に関わった。


店子は土地を借り自ら家を建てる「地借」と土地も建物も持たない「店借」がいた。長屋に住む住民の殆どが店借であった。最下層の裏長屋では九尺2間の3坪6畳間の生活であった。しかし、借家人には公的な権利や義務がなく、家主がその保証や責任を負ったことから、「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」の言葉が生れた。


しかし、家持ちの建てた裏長屋に雇われ大家の監視の目が必要であった。江戸には治安維持政策の五人組制度があった。武家、農民、町人、神官、僧侶などの職制別に自治組織を組ませ、各組織内で連座制を執る。つまり、身分や同職業の者を一カ所に集めて纏めて住まわせ、五家を一組として、何かあれば連隊責任を執らされるため、お互いを監視させたのである。この連座制は五家の家族に留まらず、その敷地内に住む貸家の店子まで同罪として処罰の対象範囲であった


また、町名主には町内で揉め事が起こった際に、町奉行の裁判に持ち込む前に、内輪で住むものは町名主に相談して解決するようにとされており、支配町内の住民が関係する諍いの調停も役割のひとつであった。




● みるみる繁栄してゆく伝馬町


今でこそ、中央区の繁華街と言えば、銀座、日本橋界隈であるが、当時は馬込勘解由率いる、その名の通り、伝馬町が盛り場となり、旅籠屋だけではなく、江戸の交通、物流の中心であった。


馬込勘解由が呼び寄せたとされる尾張・三河・伊勢出身の商人たちは、主に木綿を商品として扱った。陸路での馬による輸送は、重いものは非効率で、壊れやすいものはリスクが高い。その点、木綿は軽くて運びやすく、破損しにくいし、保存が効くため、陸路での伝馬制度と相性が良い。


しかも、江戸の人口は増える一方で、衣服需要が爆発的にある。かくして木綿流通が発展し、大伝馬町は大商業地へと発展した。これにより、それまで主流だった麻から木綿へと、衣料の主役が交代したほどであった。


五街道の整備により、全国のモノ・人・情報が必ず江戸に集まるようになったことも大きな要因だ。江戸では、将軍・幕府の需要があり、武士の消費も集中する。公用物資の供給拠点でもあり、つまり「最大の顧客(幕府)に一番近い市場」と言える。


江戸の人口のかなりの割合は武士。武士の特徴は、生産活動をせず、給料(俸禄)で生活し、消費するだけの存在、である。つまり「作らない人が大量に住んでいる都市」と言うわけだ。江戸は巨大すぎて食料 も外部依存(関東・東北・上方)であるし、木材や衣料品も各地からの供給が頼りの「自分で作れない都市」=必ず買う。買うしかできないわけだ。


経済現象としても、①商人が集まり ②商品が集まる ③情報も集まる ④金も集まる ⑤そしてさらに人が集まる。といった流れが出来上がり、一度中心になるともう止まらない。そうした構図のど真ん中に、日本橋三伝馬町はあったのである。

やがて、大伝馬町には木綿問屋街が出来上がり、木綿販売の独占権を持った組合も出来た。仕入れから販売まで一貫した流通における国元から木綿の陸上輸送に、馬込勘解由の伝馬役の果たした役割は大きい。寛保元年(1741)には、大伝馬町3丁目に「大丸屋呉服店」が江戸店を開店し、越後屋に習って「現金掛け値なし」の商いで大繁盛店となった。

大丸屋呉服店まえの行列は、「棟梁送り」という儀式である。新築の家の上棟式を終えたあと木遣を唄いながら、大工職人の仲間が先頭の棟梁を自宅まで送り届ける江戸風俗を描いたものである。越後屋の始めた「現金掛け値なし」の商法を、大丸屋も取り入れて看板に明示している。大丸屋は越後屋、白木屋とならび称される江戸の三大呉服店として隆盛を極めた




● でも結局よく分からない馬込勘解由


ちなみに、三浦按針ことウィリアム・アダムスの妻は、馬込勘解由の娘「お雪」であるとされてきた。が、どうもこれは事実ではなく創作であるらしい。また、お雪という名前も1973年(昭和48年)石一郎の小説『海のサムライ』を初出とし、牧野『青い目のサムライ三浦按針』の英訳書を通じて誤って広まったものであり、史料上、夫人の名前は残っていないそうだ。


まーある意味、創作の対象になるくらい、この時期の馬込勘解由は家康に近しく、日本橋に屋敷のあった三浦按針とも交流があった、ということなのだろう。さすが「草分名主」の筆頭である。そこから馬込家は代々「勘解由」の名を受け継ぎながら伝馬役を歴任し、明治維新をも乗り越えるのであるが、前半の6代まで ↓ このように?だらけ。結局のところ誰だったのかよく分からない。



12代も要職についておきながら、こんなよく分からん一族もなかなか珍しくないか?とか思うが、事務方レベルなんてこんなもんなんでしょうかね。さすが公務員。商人と違って私的な記録はほとんど残さないポリシーでもあるようで。


しかしながら、今の大伝馬町に繊維問屋街が残っているのも、宝田恵比寿神社と「べったら市」が健在なのも、そもそも町名がまんま継承されているのも、馬込家が代々きっちり仕事していてくれたからで。地味な事務方でこそあれ、不始末を起こして御役御免となったりすることなく明治まで頑張ってくれた事実の賜物に他ならない。


ありがとう勘解由。誰だか知らんけど。



参考
https://wako226.exblog.jp/241852315/
https://ja.wikipedia.org/wiki/馬込勘解由

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/archive/2011/11/post-1016.html

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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