「大久保長安」「馬込勘解由」に続いて、またまた出ました〜聞き慣れない人。大河ドラマでも一瞬しか登場しないタイプの、江戸創設初期メンバーのひとりですね。でも私、馬込勘解由さんと同じく1周目の最初も最初の方に「伊奈忠次(いな ただつぐ)」さんも出会ってまして。それも記念すべき「vol.1 『家康、江戸を建てる』を読んで」で、あります。
しかも、その記事の一発目の話題で「利根川東遷」について触れてまして。まさに私にとっての江戸研究活動のはじめの一歩。その内容があまりに面白かったから今に続いたと言っても過言ではなく。ほんと神様、仏様、伊奈サマサマなので、2度目ましての今回はきちんと深掘りさせていただきますね(vol.1では200文字未満でサクッと済ませてごめんなさい)。
● 紆余曲折を経て家康の側近となる
「伊奈忠次」の生まれは、天文19年(1550)三河国。父は、小島城(現在の愛知県西尾市)城主の「伊奈忠家」。父・忠家は、先祖代々松平家の家臣だったものの、弘治2年(1556)の「三河一向一揆」の際、家康が率いる松平側ではなく、一向宗側に加勢。結果、松平家が一揆を鎮圧し、面目を失くした父と共に伊奈忠次は出奔(しゅっぽん:逃げ出すこと)することになった。このとき、伊奈忠次まだ6歳。どこに逃げていたのかは不明であるが、幼少の頃から秀才で、ここで土木の技術を学んだと言われている。
ところが、1575年(天正3年)「長篠の戦い」が起こると、伊奈親子は自費で従軍。25歳となった伊奈忠次は見事に武功を挙げ、徳川家康のもとに帰ることを許された。これにより、伊奈親子は徳川家康の嫡男「徳川信康」の家臣に就任。やったぜカムバック!と思いきや、天正7年(1579)「築山殿事件」(徳川信康と母・築山殿が武田家に内通していると発覚したこと)が起こり、徳川信康は自害。これにより、死にたくなかった伊奈親子は再び出奔することに。
伊奈親子の逃亡先は、父・伊奈忠家の兄「伊奈貞吉」が住んでいた堺であった。そこに天正10年(1582)の「本能寺の変」が起き、伊奈親子は堺を遊覧していた徳川家康と再会する。伊奈忠次は、家康がピンチであることを知ると「伊賀越え」に同行し、三河国まで家康を帰すことに成功。この功績により、伊奈親子は再び、徳川家に帰参することを許された。
32歳となった伊奈忠次は、すぐに徳川家康の家臣「小栗吉忠」の与力(よりき:補佐)に就任。そののち、天正14年(1586)には近習衆に登用され、徳川家康の領国、三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国の「5ヵ国総検地」を実施。この検地に基づき、年貢量を決め、徳川家康が家臣に与えた土地・石高を記した「知行書立(ちぎょうかきたて)」を完成させた。
また、天正18年(1590)の「小田原攻め」の際は、「兵站」(へいたん:軍隊を支援するために、移動を助け、食糧や兵器の確保、運搬をする任務)を任され、道路や舟、橋を普請し、兵糧輸送する功を立てる。この小田原攻めで北条家が滅亡すると、家康は「豊臣秀吉」から関東250万石を与えられ、それまで持っていた三河、遠江、駿河、甲斐、信濃との国替えを命じられた(関東の連れ小便ですな)。
戸惑う家臣の中で真っ先に賛成したのが、伊奈忠次であった。伊奈忠次は、利根川などの大河川と低湿地の多い関東平野は、優れた治水、土木工事によって多くの新田を造れると江戸の発展を予見したのである。
家康が江戸に入ると、伊奈忠次には小室の約10,000石の土地が与えられ、武蔵小室藩を立藩。「代官頭」にも就任し、慶長4年(1599)には、「備前守(びぜんのかみ)を叙任。慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」では、小荷駄奉行(こにだぶぎょう:武具、兵糧を運ぶ部隊の指揮)を務める。
さらに、慶長8年(1603)に江戸幕府が成立すると、伊奈忠次は五街道の宿駅制度を整え、伝馬制度の基礎を築き、東各地で検地を実施。新田開発、河川開発・改修を行うなど活躍し、大都市「江戸」の礎を築いたのである。つまり、これらを一言でまとめると、「有能すぎて何があろうが出世しちゃう奴」って感じ。
● 利根川東遷事業とは
1590年、徳川家康が江戸に入った当時、利根川と荒川は越谷付近で合流し、東京湾に注いでいた。度重なる洪水によって、現在の埼玉東部から東京東部地帯は大湿地帯だった。そこで家康は、利根川と荒川を分離させ、利根川の流路を太平洋沿岸の銚子沖へと東側に大きく変えるよう、使える男・伊奈忠次に利根川東遷事業を命じた。
具体的には1594年、利根川の中流域で二股に分かれまた合流する、南側の川の「会の川」(埼玉県羽生市付近)締め切りに着手。これが、人工的に流路を変えた第一歩と言われる。1621年には、利根川と渡良瀬川をつなぐ「新川通り」と利根川と常陸川をつなぐ「赤堀川」(埼玉県栗橋から関宿間)の開削に着手する。会の川締め切りが、人工的に流路を変える瀬替えの第一歩なら、「新川通り」と「赤堀川」は開削という手法を使った人工河川の初弾と見てもよい。
その後1624年から1643年にかけ、利根川の分流となる江戸川・逆川開削によって、利根川・赤堀川から江戸川が分流する分岐点の関宿(千葉県野田市)が、水上交通の要衝として発展することになる。赤堀川の通水は1654年。これによって利根川が小貝川、鬼怒川も併せて太平洋側に流れる「東遷事業」が完成した。
こうして、伊奈忠次は伊奈家3代70年かけて、利根川を海に通すことに成功。東遷によって大量の水を東側へ逃がすことで、江戸の周辺から大洪水のリスクを減らし、人々の安全を守った。また、川の流れを付け替え、治水・排水を進めた結果、利根川流域の広大な湿地や低湿地が水田として開発しやすくなった。そのおかげで、関東平野は日本有数の穀倉地帯となり、米の生産が増えて江戸の人口増加を支える基盤が出来上がる。
さらに、東遷と同時に江戸川の開削や河道整備が進み、東北・北関東と江戸を結ぶ水上交通網が整ったことで、米や木材、魚などの物資が大量かつ安価に江戸へ運べるようになり、江戸が巨大都市として発展する重要な要因となった。まさに、伊奈家3代が江戸を開拓したと言っても良いレベルの活躍ぶりであった。さすが、使える男は、孫まで使える。
利根川や荒川の付け替え普請(利根川東遷、荒川西遷)だけでなく、知行割、寺社政策など、江戸幕府の財政基盤の確立に寄与し、その業績は計り知れない。関東各地に残る「備前渠」や「備前堤」と呼ばれる運河や堤防は、いずれも忠次の官位「備前守」に由来している。
諸国からの水運を計り、治水を行い、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたので「神様・仏様・伊奈様」と農民に敬われていたという。伊奈忠次に因み、埼玉県・中東部の自治体を「伊奈町」と命名。次男・忠治に因み茨城県筑波郡伊奈町(現在のつくばみらい市伊奈地区)と命名していて、親子2代が町名由来である。
また、年貢は豊凶に関係なく一定の租額を取り、それを「伊奈流」と呼び、人々からものすごく尊敬されておったそうな。
● 子孫もずっと使える伊奈氏
ちなみに、伊奈氏の子孫「伊奈 忠順(ただのぶ 通称 半左衛門)」は、宝永4年(1707) 富士山噴火の際、奉行と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、主に川底に火山灰が堆積していた酒匂川の砂除け、堤防修復などに従事。農地を回復させるための土壌改良にも取り組んだ。
って、かつて「vol.24『怒る富士』を読んで」で勉強したヒーロー半左衛門さんですね。その業績を称えて大正時代になってから「従五位(じゅごい)下」に叙せられ、使えすぎて、とうとう貴族になっちゃいました。とさ。めでたし、めでたし。
その後も明治、大正を経て令和の今に至るまで、利根川改修工事は続いているそうで、家康が始めた事業を国土交通省が引き継いでいると考えると、なんとも壮大な話である。
伊奈家のすごいところは代々みな、治水事業に特化してる点。まさに専門家ですな。河川クリエイター伊奈。水流の魔術師。水神様。伊奈家に曲げられぬ川はない、的な。水のトラブルなら伊奈家におまかせ、のちの「暮らし安心クラシアン」である(嘘)。
参考
https://www.touken-world.jp/tips/112283/
https://ja.wikipedia.org/wiki/伊奈忠次https://ja.wikipedia.org/wiki/利根川東遷事業
https://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00185.html
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