江戸創設期は、ほんま色んな人が色んな所から集まって来て面白いやで。ほんで今でもその時ついた地名がまんま残ってたりするから、なおのことオモロイ。ほなちょこっと紹介していこか。
● 家康の命を救った漁師らの島「佃島」
佃島の漁民の故郷は、実は関西の佃村(現在の大阪府西淀川区佃)。かの徳川家康が江戸に入来の際、摂津の佃村に住んでいた漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えた。なぜ佃村の漁民か?なぜ特別待遇か?そこには大きな理由がある。家康公が生涯忘れることのできない苦難に遭遇した際、こぞって公を助けたのが佃の漁民だったのである。
1582年6月2日早朝。明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で倒れた時、家康の一行はわずかな手勢とともに堺にいた。見つかれば、信長の盟友である家康も当然標的。なんとしても岡崎城へもどらねば……。家康一行は決死の覚悟で脱出奇策をとった。いわゆる「伊賀越え」である。
ところが神崎川で足留めを食らってしまう。川を渡る舟が無かったからだ。ここに救世主のごとく現われたのが、近くの佃村の庄屋「森孫右衛門」を筆頭とする漁民たち。手持ちの漁船と、不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食として用意したのである。
気候の悪い時期に人里離れた山道や海路を必死に駆け抜けねばならない一行にとって、この小魚煮がどれだけ身を助けてくれたか、ありがたいものだったかは、言うまでもない。以来、佃村の人々に対する家康の信任は、特別なものになったそうな。
後の大阪の陣に備えて、佃村の漁民に大名屋敷の台所へ出入りできる特権を与え、大阪方の動向を探る隠密の役割をつとめさせたという言い伝えもある。
慶長年間(1596〜1615)には、さっきの佃村の名主「森孫右衛門」が江戸における将軍の御菜御用の命を受け、一族7人と佃村・大和田村の漁民33名とともに江戸へ下ることに。
江戸へ来た漁民たちは、当初小石川の「安藤対馬守」の屋敷に暮らしていたが、その後、日本橋小網町の船手頭「石川大隅守」邸内に移っている。この石川大隅守とは、幕府より隅田川の小島を拝領し、石川島を築いた石川さんなのである。
漁民たちは慶長18年(1613)に、幕府御用掛けとして江戸湾近辺で自由漁業を願い出て、これを許された。その見返りとして幕府への御菜魚納入のほか、将軍御成先での漁の実演や、鷹狩用の鷹や小動物を飼育するための小エビや小ウナギの納入、出水の際に隅田川への船人足の派遣、などが義務付けられた。
漁民たちは武家地に仮住まいをしながら漁を行っていたが、寛永年間(1624〜1644)に武家地内へ町人の居住が禁止されると、石川氏の拝領した隅田川河口の島(石川島)の南続きの干潟およそ8550坪を拝領し、築き立てを行った。正保元年(1644)2月に完成し、本国佃村の名にちなんで「佃島」と命名し、ここに移り住んだ。
築き立て間もない慶安2年(1649)の佃島には、戸数80軒、160余名漁民が居住していたそうな。
佃島漁民は江戸城へ白魚という小魚を献上していた。また、佃漁民とは別に「白魚役」という白魚漁専門の集団もいたようだ。漁は夜間に提灯を掲げて行われ、水揚げされると漆塗りの献上箱に入れて早朝に江戸城へ運ばれた。
佃島の漁民は悪天候時の食料や、漁に出た時の船内食用に、売り物にならない小魚や貝類を、塩や醤油で煮詰めて保存食としていた。
天保2年(1646)6月29日に故郷の産土神を祀った住吉神社を建てた際、参拝客に振る舞ったのが「佃煮」の名前の由来と言われている。これが、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため、全国に広まったとされる。
参考
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=2023
https://enchu-food.com/tsukudani/
● 神田の町名に残る江戸の面影
「神田」を指すエリアは実はかなり広く、神田駅から北西のJR中央線御茶ノ水駅、都営新宿線神田神保町駅周辺にまで及ぶ。明治11年(1878)、東京府(当時)が15区に区分された際に誕生した「神田区」は、戦後の昭和22年(1947)に「麹町区」と合併して「千代田区」となり、「区名」としては消滅した。しかし、伝統ある地名は残したいという思いがあったのだろうか、神田紺屋町・神田鍛冶町・神田佐久間町・神田神保町など、「神田○○町」と神田を冠した町名が現在まで残り、それらが江戸時代の面影を今に伝えている。
神田には、幕府御用達のさまざまな職人たちが町単位で土地を拝領しており、紺屋町は染物屋、鍛冶町は鍛冶屋が集住していたことから付いた町名なのである。家康と関係が深かった職人が、染物屋の「土屋五郎左衛門」。そもそもは家康に仕える武士として戦国時代を生きたが、負傷して戦えなくなったため紺屋頭となり、藍染の職人集団を組織して神田に定住したという。
城下町では、火災や疫病を防ぐため、同じ職業の人々を一か所に集めて住まわせる“町割り”がなされていた。火を使わず、水を多く使う紺屋たちは、川沿いや水路の近くに居を構え、町全体が一つの工房のように機能していたらしい。
江戸を代表する藍染めの浴衣(ゆかた)と手ぬぐいの大半は、紺屋町一帯で作られていたという。「紺屋町に行けば流行が分かる」と言われたほど、流行の発信地だった。ちなみに、「場違い」という言葉があるが、これは紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来するそう。
町内には古くから藍染川という小川が流れていた。幅一間(約1.82メートル)ほどの川で、染物の布を洗い流していたことから、そう呼ばれるようになった。「狂歌江都名所図会」には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄(あさぎ)なり」などの歌が詠まれており、江戸では有名な川であったことがわかる。
他にも駕籠(かご)などの乗り物(乗物町)、銀細工(銀町/しろがねちょう)、漆工芸(塗師町/ぬしちょう)、左官業者(白壁町)など多くの職人町があり、一部は現在の町名に残っている。
鍛冶町で作られる鎌・包丁をはじめとした金物職人街は、都市生活のさまざまなシーンで庶民の暮らしを支えた。たびたび大火に見舞われた江戸の町では、家屋の新築や建て替えの需要が頻繁にあり、建築に必要な釘などの建築資材を作るのも、鍛冶職人の仕事だった。
ところが、17世紀後半に入ると町は解体されていく。何度も大火を経験した幕府は、火災が発生した際に、類焼を防いだり、近隣の住民が避難したりするための火除(ひよけ)地を整備するため、職人たちから土地を接収したのだ。あとには、職業を冠した町名だけが残されたわけだ。
一方、佐久間町と、古書店の街・神保町は人名に由来する。前者は材木商人「佐久間平八」の名をとっている。慶長年間(1596~1615)の江戸城築城に際して資材を供給するなど、幕府とは草創期からゆかり深い人物だった。後者は「神保長治」。知行地を持たない旗本から身をおこし、正徳2年(1712)に佐渡奉行まで出世した男だ。長治の屋敷があった地が現在の神保町で、日本最大の古書店街として書籍文化を発信している。
参考
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kurashi/volunteer/chomeiyuraiban/choumei/kandakonya-s.html
https://hotyuweb.blog.fc2.com/blog-entry-1531.html
他にもまだまだたくさんあるが、今回は、こんくらいで。その他の地名と由来については、↓ こちらを参照するがよろし。
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kurashi/volunteer/chomeiyuraiban/chome.html
それにしても、いいな〜この時期の有力者は、すぐ町名にしてもらえて。までも、あたしゃ名前が田中なんで「田中町」なんて町名じゃ冴えないし、やっぱいーや。
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