vol.210「庄司甚内と吉原」について


さて、前回「江戸の三甚内」について書いたが、長くなって書き切れなかった3人目の男「庄司甚内」の話をしよう。しかし、三甚内はどいつもこいつも揃ってヒールでやがる。武士でもなく元が忍者の身分なだけに仕えていた主が滅亡してしまうと、まともな先に再就職できなくて大変らしい。


かと言って、いつまでも盗賊やってたらいつかは捕縛されて磔にされちまうし。。さて、どうしたものか?




● 盗賊業から足を洗って吉原遊郭を創設した「庄司甚内(甚右衛門)」


庄司甚内」は天正三年(1575年)、北条家の家臣である庄司又左衛門の息子として生まれたとされている。又左衛門は豊臣秀吉の小田原攻めにより落城際、主家に殉じて切腹して果てた、あの人物だ。本来は各地を巡り、情報収集をしており、いわば乱破=忍者の元締めのような仕事をしていた。


北条忍者といえば、風魔一族。北条家の滅亡とともに歴史に埋没していったが、伊賀、甲賀との並び称せられた忍者軍団である。その風魔一族が北条家の滅亡をきっかけに始めたのが、江戸を中心に関東を荒らし回ることだった。北条家再興の資金稼ぎや、江戸の町を不安に陥れることで、幕府転覆を謀る意図もあっただろう。


彼らはいわゆる破壊工作のプロである。そのスキルを生かし、火付けや強盗、殺人など悪の限りを尽くす大盗賊団になった。この盗賊団に庄司甚内も加わっていたらしい。


風魔一族の跳梁跋扈に頭を悩ます江戸町奉行所は、同じ盗賊を生業とする「高坂甚内」と手を結んだ。毒をもって毒を制そうとしたのだ。蛇の道は蛇である。高坂甚内の密告により、風魔一族の頭領・小太郎は捕縛されて処刑。配下もことごとく捕らえられた。


ところが、アジトに町奉行所が踏み込んだ際、庄司甚内はたまたまその場にはおらず、逃げ延びたようだ。その後、庄司は盗賊業から足を洗う。庄司は、若い労働力で城下町の造成も進み、人口増は男性中心で女性は1/3に満たない状況に商機を見据えていた。


慶長17年(1612)甚内は、道三堀沿いにできた初町並みの一つ柳町で遊女屋を営んでいた。江戸市中の遊女屋は、江戸の町々で遊里が分散していた。庄司甚内を代表とする遊女屋は、治安上好ましくないので、遊女屋を一カ所に集めて公許「遊郭」として、取締まる必要があると幕府に請願した。


まさに江戸に不逞の浪人や悪党が入り込んで、悪事を企んでいるご時世であった。当時の遊女屋には悪党であれ、金さえ出せばいくらでも隠れられた。請願の内容は、1、客が遊興に溺れて使い込みなどさせぬよう、一夜以上の長居はさせぬこと。2、子女の拐かしを防ぐため遊女の身許を改めること。3、浪人や悪人の潜伏を防ぐこと、など、幕府の困りごとの解決策である。


庄司は家康らが関ヶ原に向かう途中の道々で若い女をサービスとしてあてがっていたので、遊女街を作りたいと幕府に申し出た時にすんなりOKとなる。幕府としても、犯罪と密接な関わり合いのある娼館をひとつにまとめた方が治安維持のために都合が良かったのだろう。


元和3年(1617)幕府は甚内の上申を認め、日本橋葺屋町東続きの葭の自生する低湿地の土地二丁四方を与え、甚内を惣名主に任じて遊女と遊客の取締を命じた。低湿地の埋立て造成に一年をかけ、元和4年(1618)11月、敷地1、4万坪の四方に浜町川を引き込み堀川を巡らせた江戸唯一の公許遊郭を開業した。


甚内は遊廓内を五町に分け、江戸町一丁目には、柳町の娼家を移し自らの居宅も置いた。江戸町二丁目には鎌倉河岸の14軒が移る。京町一丁目には麹町八丁目の14軒、京町二丁目には新規に京都の移住者を集めた。角町には京橋の角町から移った者である。それぞれの妓楼棟の部屋は北枕にならぬ方角に配慮されていた。

遊廓の入口は北の大門(おおもん)口の1ヶ所のみである。この大門に通じる南北の道は、現在も使われ「大門(おおもん)通り」と呼ばれている。因みに将軍家の菩提寺である増上寺の正門は「芝大門(だいもん)」と呼び分け混同しないようにしている。


また、この遊郭を「傾城町」と呼んでいたが、葭の繁る自生地から葭原、そして縁起の良い「吉原町」と名付けた。当時の吉原には、幕府評定所に遊女を給仕役として派遣する義務が課せられていた。遊女の格式に、太夫、格子、端女郎という序列があり、評定所には最上位の太夫が務めた。


吉原大門を潜る遊客の大半は、大名など要職の武家であった。そうした幕府高官を相手にするため、太夫には和歌や茶道、三味線、歌舞、書画など多彩な教養が必要であった。遊客はまず揚屋に登楼して、酒肴を注文し、揚屋の部屋に置屋から太夫や格子が呼ばれ、三味線・笛・太鼓も入って酒宴が始まった。この揚屋での遊び方が𠮷原で確立した。揚屋から馴染みの太夫を呼ぶと、置屋の遊女屋から揚屋までを大名行列の如く召し連れて練り歩く「太夫道中」が生まれた。


元和3年(1617)開業と同時に吉原への通路として、東掘留川に「おやじ橋」を架橋した。近くには、遊ぶか戻るか「思案橋」や「わだくれ橋」を渡る頃には、もうどうにでもなれと決心した。通称「親父」と親しまれた庄司甚内は、大盗賊の高坂甚内と同名であるため、庄司甚右衛門と改名した。

「おやじ橋」東詰の葺屋町に、天保5年(1834)に埼玉郡千疋村の大島弁蔵は「水菓子安うり処」の看板を掲げ「千疋屋」を開業した。店頭には水菓子と呼ばれた甘い桃、西瓜、まくわ瓜、野菜など新鮮な果物が評判を呼び繁盛していた。右の店舗「呉服太物」とは、絹織物以外の天然繊維の着物を「太物」と呼んだ。木綿や麻の織物は、絹の薄地に比べ厚地であるため「太物」といい、その販売店を「呉服太物商」と称した。


元和4年(1618)から吉原遊郭の営業を始め、明暦3年(1657)までの39年間人々の歓楽街として栄えていた。江戸の繁栄と拡張につれて市街地が広がり、悪所と呼ばれた吉原遊郭の移転が急がれていた。浅草北と本所が選ばれていたが、本所には渡船でまだ橋がなく、陸路と山谷堀舟運のある浅草北の千束村が選ばれた。明暦2年(1656)江戸町奉行の石谷将監によって、元吉原から新吉原への移転が命じられた。


各遊郭の移転条件は、旧地2×2丁から新吉原2×3丁の5割増の坪数となる。夜間営業の許可、風呂屋敷200軒の取り潰し、11月28日引越保証料1万5千両が支給され移転準備が進められていた。その最中の明暦3年(1657)1月18日の明暦大火で吉原遊郭が焼失後、浅草北の仮宅に移り、復興事業と共に五割増の土地に「新𠮷原遊郭」が開業した。旧地は「元吉原」と呼ばれ、高砂町、住吉町、新和泉町、浪花町に変わり、隣接した富沢町など繊維の町と供に繁栄した。




● 幕府公認遊郭「吉原」 vs 非公認サービス


なにしろ、この頃の江戸は男ばかりで女が少なかった。その上、建設工事でごった返しており、埃っぽい町であった。そこで、銭を払って湯に入る銭湯が繁盛し、そこで男の体を洗い性的サービスを提供する「湯女」が大流行していた。


風呂から上がった男客は、別料金を払い2階の座敷に上がって休憩もできた。座敷には碁や将棋が置かれ、湯女は茶菓子の接待や酒間を取持った。2階を利用する男客は湯屋にとって上客であり、散財させては収益を上げたのである。


銭湯の多くは通常の営業を終えた夕刻の6つ刻後の7つ刻から男客向けの「湯女風呂」を営んだ。湯女風呂の風呂とは名ばかりで純然たる入浴が目的ではない。脱衣場を金屏風で仕切るなど模様替えし、客が来れば席に侍り、三味線を奏で小唄を唄ったりもした。そして、求めに応じて男客に膚肉の交接といった性的行為が行われていたのである。


江戸の人口は男3人に女1人の割合の男性過剰な町であったため、男たちの性欲の惑乱を鎮めるための場所がいくつも存在した。主に遊里や茶屋、湯屋などが私娼家化し接客婦を控えさせ、男たちの悶悶とした鬱勃を静穏させる役目を担っていた。


甚右衛門を惣名主として江戸初の遊廓「葭原」の設置を許可した際、幕府は甚右衛門の陳情の条件に加え、江戸市中には遊女屋を他に一切置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。


遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を得られるうえ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。


これにより、湯女風呂が衰退したかと言えば、そうでもなかった。その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある。また、街道の宿場には飯盛女と呼ばれる私娼が存在していたが、半ば黙認されていた。


やがて、それら安価な非公認サービスに押されて衰退しかけた新吉原を、なんとかしようと頑張ったのが「べらぼう」の蔦屋重三郎なのであるが、それはだいぶ先のお話。


遊女文化の移り変わりに関しては、以前の記事「vol.13「遊女文化」について」を参照してくれよな。




てことで、かの有名な吉原を創設した庄司甚内さん。確かにこれは堅気な奴には務まらない。忘八だなんて言われる奴らがどの時代にもいるのは分かるが、まさか創始者が忍者上がりの元盗賊だとは。堅気じゃない、どころの出自じゃなかった(笑)。そうとは知らなかったが、知ってしまえば何だろう、やけに合点が行く。あ〜、たがらか〜、みたいなね。


しかし江戸創設期はホントすごい。有能ならば、身分どころか善人だろうが悪党だろうが異国人だろうがチャンスを掴めるわけで。カオスでもあり、江戸りあんドリームでもあり。

おもしろ。



参考
https://wako226.exblog.jp/241258464/
https://www.asagei.com/excerpt/211496?page_type=show

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。