江戸城の本丸御殿の奥に女性だけの居住空間を作ったのは、秀忠の御台所だった江が最初。けど秀忠は側室は持たずに死んだ。で、いよいよ家光の時代。将軍の後継ぎが途切れないようにという目的で、女性たちが大奥に集められ始める。
● きっかけは家光の男色好き
実は家光は男色好きで有名であった。明治以前の日本はどちらかというと性愛におおらかで、男性同士の色事も武士のたしなみといわれたほど。でも、このままではお世継ぎが生まれないと心配した乳母のお福(後の春日局)が、家光の気に入りそうな女性を集めたのが「美女三千人」といわれた大奥の始まりである。
家光には「孝子」という正室がいたが、通説では 〜 家光との仲は結婚当初から非常に険悪で、実質的な夫婦生活は皆無であり、結婚後ほどなくして事実上家光から離縁された 〜 とされている。が、現存の良質な史料や資料からは、孝子と家光の仲の悪さを実際には読み取ることができない。
きっと実際はそごまで険悪ではなかったのだろうが、家光の男色嗜好のせいか子供が出来なかったのは確かだ。そこで乳母のお福は、家光にいろんな美女を側室に勧め始める。しかし家光は興味なし。焦るお福。逃げる家光。そんな日々がしばらく続き、家光36歳の時、運命の出会いが訪れる。
● 家光を女に目覚めさせた「お万の方」
お万は、満13歳で伊勢宇治郷にある尼寺・慶光院に入り、その3年後、17代院主となる。慶光院では、名門公卿の姫君が院主となる伝統があった。朝廷や将軍家の祈祷も行う由緒ある寺院であり、寛永16年(1639)3月、その院主として彼女が江戸城にまで挨拶へ訪れた。そのときのこと。
若き尼僧の姿に家光が見惚れていたと、お福の耳に入った。当時の家光36才。これに対しお万は16才。女嫌いで知られていた将軍が、親子ほどの歳の差がある美少女尼僧に惚れるなんて急にどうした?と皆がザワつく。どうやら家光は、お万の方の美しい容姿だけでなく、「尼僧姿」というところにも心惹かれたと噂されたとか。分かるようでちょっと気持ち悪いフェチである。
まあ珍しい! でも公家の娘でしかも尼か〜! いやもうそんなこと言ってられないわ! とにかく上様が女に興味持ってるうちにその娘を無理やりにでも還俗させて側室に迎えましょう! と、半ば拉致するように嫌がるお万と家光をくっつけるお福。もう秀忠も江もいないので自由に権力を振りかざす。
すると、お万の方がよほど抱き心地良かったのか、家光ここにきてついに女に目覚める。けれども結局、二人の間に子は出来なかった。いや、本当は何度も出来てたのかもしれないが、公家に近い血が時期将軍になることは徳川家的にまずいため、妊娠するたびに堕胎薬を盛られていた、あるいは不妊薬を飲まされていたという俗説もある。
ともあれ家光は、お万の方を寵愛しながらも、それ以降、すっかり女性に開眼し、お福がスカウトしてくる女中に次々と手をつけるようになる。
● 男装させて送り込まれた美少女「お振の方」
お振は、春日局の養女として大奥に入り、寛永13年(1636)、家光の手がついて初めての側室となった。家光が男色を好み、なかなか女性を近づけないため、お福がお振を男装させて近づけたと言われている。
この時、推定12歳から14歳。家光にとって初めての子である長女・千代姫を産むが、その後体調を崩し、3年後に死去した。お振の方が出産後に死亡したのは成熟していないために無理な出産だったからではないかと見られている(ひどい話やで)。
● お万の方に似てると送り込まれた「お楽の方」
13歳の時、古着商の店の手伝いをしていたところを、たまたま浅草寺に参詣していたお福の目にとまって召し出された。一説によるとお楽の外見が、徳川家光から寵愛されていたお万の方に似ていたからだとされている。
もともとの名前は「お蘭」であったが、蘭が「乱」を連想させることからお楽に改名。お福の狙い通り家光の手が付き、念願の嫡男「徳川家綱」が誕生。後の4代将軍を生んだことで平民から将軍の母へと成り上がったが、家光が死去した翌年、あとを追うように没した。
● 風呂お手付きに送り込まれた「お夏の方」
お夏は、家光の正室・孝子付の女中で「御末」という将軍お目見え以下の役職だったが、将軍が大奥で入浴する際に世話をする「御湯殿」を任せられ、その際、家光の手がつき懐妊。産まれた男児は、後の甲府宰相「徳川綱重」となる。
家光が死去すると、夏は落飾して「順性院」と名乗るようになった。同じく家光側室だった「桂昌院」とは犬猿の仲だったと言われる。順性院の死から26年経って5代将軍「綱吉」が嗣子無く没し、綱重の子である「家宣」が6代将軍になった。また、家宣の子で順性院の曾孫に当たる「家継」も7代将軍に就任している。
● 世界最強の運を持つ女「お玉の方」
お玉の出生については諸説あるが、最も知られているのは京都西陣の八百屋の娘だったという説。商人の娘らしく活発な女の子だったらしい。ところが突然、八百屋を営んでいた父が亡くなり、お玉は父が野菜を納めていた下級武士・本庄家の養女になる。さらに本庄家の養女となったお玉は、公家出身の尼僧の侍女として奉公することになる。つまり商から士、士から公家へと、出世階段を上った、なんとも運の良い女性である。
そして、お玉が奉公することになったこの尼僧こそ、後に将軍・家光の側室・お万の方になる人だった。やがてお万は家光の側室として大奥に入り、お玉も大奥で暮らすことに。さらにさらに、お玉も成人すると家光に見初められ側室となった。大奥は将軍に見初められて出世したいと願う女の戦場だったという。そんな中で家光の目に留まったのだから、相当目を引く女性だったのであろう。
そしてお玉は家光の子を産む。しかも運よく男子。後の5代将軍「綱吉」である。ただ当初は、綱吉の上に2人の男の子がいたため、将軍を継ぐ可能性はほとんどなかった。が、お玉は諦めない。「この子が将軍になったときのために」と熱心に綱吉を教育した。そんな中で家光が亡くなり、4代将軍は予定どおり嫡男の「家綱」になり、側室のお玉は出家して「桂昌院」になる。
普通なら、ここで諦めるが、お玉はまだ諦めん。桂昌院になった後も綱吉の教育に熱心だったそう。すると、奇跡が起こる。突然、4代将軍・家綱が若くして亡くなったのである。家綱には子どもがなく、家光の二男もすでに他界していた。となると、お玉の子・綱吉しか将軍を継ぐ男子がいなかった。
こうして5代将軍・綱吉が誕生し、八百屋の娘だったお玉はなんと、将軍の生母になった。なんともすごいシンデレラ・ストーリーである。お玉ほど運の強い女性はどの時代を探しても見当たらない。お玉が「玉の輿」の語源になったのも頷ける。
● 詳細不明な「お里佐の方」と「おまさの方」
お里佐は、元和9年(1623)に家光の正室・孝子の侍女として大奥に勤め始める。その後、家光に見初められて正保4年(1647)に家光の五男「鶴松」を産むが、鶴松は翌年に逝去してしまう。家光の死後は落飾して「定光院」と号すが、鶴松と家光供養のために、お福の姪である済松寺の「祖心尼」の弟子に入って長心尼になったという説もある。
おまさは、尾張藩家老「成瀬氏」の娘として生まれたとされる。家光の世継ぎを生ませるために、お福の計らいによって大奥へ入る。はじめは、お福の部屋子であったが、寛永20年(1643)、家光との間に次男・亀松を出産。ただし、『以貴小伝』では母はまさとあるが、『幕府祚胤伝』では玉が母であると記載されている。亀松は正保4年(1647)に夭逝した。
● 大奥制度の完成
かくして、お福の計画は奏功し、将軍の「胤」を存続させる大奥という“機能”が完成する。お服は「将軍様御局」と呼ばれ、この職がのちに大奥幹部の役職である「御年寄」として定着。同時に御年寄は将軍の「胤」を管理・監督する立場として、老中をも上回る強大な権力を手中に収めていく。
寛永6年(1629)年、お福は公家の三条家の猶妹(ゆうまい=義理の妹として縁組する)となり、宮中に参内する資格を得て、「春日局」の称号を授かった。
将軍の側には、正室や側室、奥女中たち──多くの女性たちがいた。だがその空間は、しばしば嫉妬や派閥、情報の錯綜に揺れていた。春日局はそこに、秩序と制度を持ち込んだ。彼女は奥女中たちの役職・序列を体系化し、内部規律を整備。女の世界にも「仕える立場」としての自覚と統率を与えたのである。
寛永20年(1643)、春日局は病に伏した。家光が疱瘡にかかった時に平癒を祈願し、一切の薬を飲まないと誓っていたため、治療も薬も一切断わったが、心配した家光が自ら服薬させたと伝わる。だが、その甲斐なく逝った。享年64。
死後、家光の将軍後継を巡り、火種がくすぶりはじめる。母の違う後継者が3人もいれば、争いは起きやすい。春日局没後に奥を取り仕切ったお万が「長幼之序」を説き、継嗣はお楽が産んだ竹千代(家綱)であることを言い含めた。
だが、同じく男児を産んだお夏とお玉は互いに強い対抗心を持っていた。特にお玉は、権力志向が強かったとされる。お福が苦労して完成させた「胤」存続のシステムが、皮肉にも軋轢を生んでいくのである。
● 第二の春日局「永光院(お万の方)」
春日局の死後、「永光院」となったお万の方が家光より「春日同様」に奥向きを取り締まることを命じられ、春日局の後任として大奥の支配者となった。新御殿造営時の役人の不手際を将軍に逐一報告したり、幕閣の反対を押し切って大奥にて猿楽(能)を催したりと、幕閣から「第二の春日局」と恐れられたという。
また、春日局が築き上げた質実剛健な武家風の奥向きを、永光院は華美で豪奢な京都の公家風に改めていったという。ただし永光院を裏で操っていたのは春日局の姪・祖心尼であったとする説もある。
慶安4年に家光が死去した後は、他の側室達とは違い落飾せず、「お梅の局」と名を変え、大上臈として再び大奥勤めを始めたといわれているが、実際の彼女のそれ以後の経歴はほとんど伝わっていない。お梅の局という人物も別人だとする説もある。
しかし、明暦3年(1657)に起きた「振袖火事(明暦の大火)」で江戸城の本丸が焼け落ちてしまい、家光の正室・孝子と共に小石川の無量院に避難したとされているので、少なくともこの頃までは大奥にいたと思われる。正徳元年(1711)、88歳で死去。
ったく、世話焼けるなあ〜家光。お福が頑張ってくれなかったら徳川家は一体どうなってたことやら。マジで危ないとこだったじゃん。
それにしても「男色は武士の嗜み」って言うけど、少年に発情できる時点で、あまり正常ではないと個人的には思うのだが。。
参考
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/175393/
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c10801/
0コメント