このメモブログを始めたばかりの「vol.3『江戸一新』を読んで」で出会った「知恵伊豆こと松平伊豆守信綱」に、ようやく再開することができた。彼との出会いのおかげで、私は歴史勉強の面白さに開眼したと言っても良いだろう。
そんな思い入れのある知恵伊豆さんの、若き頃のエピソードを今回はまとめてみた。と言うか知恵伊豆ファンはみんなまとめてる。みんなコピペ合戦だ。元は誰がオリジナルなのか分からんが、とりあえず以下のサイトより拝借させていただこう。(ちなみにこのサイトも↑の著者からの抜粋である)
https://nobutsunakai.com/ya/F_nobutsunakou/nobutsunakoutoha.html
● 松平伊豆守信綱とは
江戸前期の幕府老中。徳川氏の地方役人「大河内久綱」の長子(幼名:亀千代)で、8歳のとき叔父「松平正綱」の養子となる。9歳で3代家光に小姓として近侍。元和9年(1623)小姓組番頭、伊豆守(いずのかみ)に叙任。寛永4年(1627)1万石。ついで老中忍3万石(行田市)の城主となった。のち、家光より島原の乱鎮圧の命を受け、これを見事に鎮定。その功績により川越6万石(川越市)に転じ、正保4年(1647)7万5000石に加増された。
家光の死後は幕閣の頂点に立ち、4代家綱を補佐。「松平定政事件」や「由比正雪の乱」を処理。「明暦の大火」後の復興に努めた。家光・家綱2代にわたり、新参譜代の中心として幕政を運営、幕藩体制の確立に尽くした。すなわち、武家諸法度の改訂、参勤交代の制度化、鎖国の完成、寛永飢饉後の幕政改革に参画した。
川越藩政の確立にも大きく寄与し、38年の「川越大火」後の川越城郭修築拡張、城下町の町割・復興と町制の整備(十ヶ町四門前町)、喜多院・仙波東照宮再建、新河岸川舟運の開設、荒川・入間川治水、慶安総検地の実施、野火止用水開削と武蔵野開発、勧農政策の実施などに努力した。
現在、国指定重要無形民俗文化財に指定される川越氷川祭の山車行事(川越祭)は、慶安元年に松平信綱が祭礼道具一式を寄進したのが起源である。近世以降、現在まで続く川越の繁栄の礎は名君松平信綱の功によるところが大きい。寛文2年(1662)の逝去まで老中を勤め、岩槻の平林寺(翌年野火止に移転)に葬られた。
幼いころから才気あふれ聡明で「知恵伊豆」と呼ばれた逸話が多く残っており、以下にその例を記載する。
● 卵泥棒をこらしめる
信綱は幼名を亀千代と言った。
亀千代は4歳の頃から鶏の飼育を始め、鶏や卵を蛇やイタチから守るために小者を見張り番につけて大切にしていた。
しかし、ある時から卵の数が減ってきた。不審に思った亀千代が鶏小屋をうかがっていると、見張り番の小者が卵を盗み食いしていたのである。
「番人につけた者が盗み食いをするとは、不届きもひとしおだ。二度とこんなことを仕出かさぬよう、喉を痛めてやろう。首を括れ」
盗み食いした当人ではなく、卵を飲みこんだ喉に罰を与える、という発想がユニークである。命じられた者が見張り番の首に綱を巻くと、亀千代は、
「あまり強く締めては、息が絶えてしまう。卵の盗み食いをしたとがくらいで、人の命を奪うべきではない。死なない程度に括るべし」
といい、縄が緩めばすぐ分かるよう結び目に封印をつけた。翌日、亀千代は縄を解いてやりながら、
「かさねてこんな悪さを考えてはならぬぞ」
と盗人をさとした。
亀千代は、小なりとはいえ代官大河内家の若君である。父に事情を伝えて卵盗っ人を牢に放りこんでもらうこともできたはずだし、屋敷から追放することも当然できた。それをそこまではせず、4.5歳の子供なりに考えた罰を与えて放免してやったところに、並々ならぬ才気がほの見える。
● 養子縁組を自ら願い出る
まだ長四郎と名乗っていた信綱は、8歳の時、叔父で長沢松平家に養子入りしていた松平正綱の邸に赴き、願い事があると言い出した。
「私は徳川家の身内ではない代官の子に生まれたことを口惜しく思っています。恐れながら松平の姓を下さいまして、養子にしては下さいませんか」
正綱が理由を問うと、
「大河内の本名のままでは、お上の御近習となる夢は叶いがたいでしょう。養子にしていただけるならお上の御座近くに御奉公することもできようかと思い、かくは申し上げたのです」
こうして長四郎は松平家の養子となった。なんと長四郎はわずか8歳にして、いずれは幕府に仕えたいと望み、そのためには大河内姓のままでいるよりも松平姓の方が奉公の道がひらけやすい、と見極めていたのだ。
8歳にして自分の人生をどうデザインするか考え始めていたとは只者ではない。
● 秀忠の小姓となり太刀を守る
長四郎はまず秀忠の小姓として採用された。
ある夜、秀忠が大奥へ渡った時、長四郎は太刀を持って廊下の途中まで供をし、暗い一角で控えるうちについ居眠りをしてしまった。やがて大奥から出てきた秀忠は、起こすのも気の毒と思ったのだろうか、黙って太刀を取って中奥に戻っていった。
この時、長四郎が目を覚まし、何者かに次期将軍の太刀を奪われたと思い「やるまいぞ!」と、秀忠の背に組みついていった。
組みつかれた秀忠は、「なんと奇特な子であるか」と感じ入り、「その心を一生忘れるでないぞ」とほめてくれたという。
● 家光の求めで雀をとりに
10歳になった長四郎は竹千代(家光)付きの小姓として登用されることになった。
竹千代が3歳、長四郎が11歳の時、秀忠の神殿の軒端に雀が巣をつくり雛を育てていたのを見つけた竹千代が、それを欲しがった。が、長四郎は、秀忠の神殿に忍び寄るのは恐れ多いと一度辞退する。
しかし、近習たちから
「昼に取ろうとすれば、雀が驚いて飛び立ってしまう。巣の位置をよく見定めておいて、日が暮れてから手前の軒からしのび、取ればよい。大人では身体が重く足音がたつ。汝が取りによくように」
と口々に言われたため、仕方なく取りに行くことにした。
手前の館の屋根から秀忠の軒に上手く渡って巣を取ろうとしたその瞬間、足を滑らせガラガラドタンと軒下に落っこちた。物音に驚いた秀忠、お江与の方が外を出るとそこには長四郎の姿。
「汝は、なにゆえここに来たか」
秀忠の問いに長四郎は、
「今日の昼ごろ、この御殿の屋根の軒端に雀が雛を育てているのを見て、欲しさのあまり取りにまいりました」と答えた。
秀忠は竹千代が命じたに違いないと思い、誰が命じたかを問うたが、長四郎は自分が欲しかったのだと頑として主張を変えない。そこで秀忠は、長四郎を大きな袋の中に押し込め、口を封じて柱に吊るしてしまった。
「事の次第をありのままに申さぬならば、いつまでもこうしておくぞ。」
秀忠はそう告げたが、長四郎は主張を変えない。明けて昼ごろ、秀忠が再び大奥にやってきて長四郎を詰問したが、返答は同じであった。そこにお江与の方も詫び言を言ってくれたため、ようやく長四郎は解放されることになった。
その後、秀忠はお江与の方にむかい、
「あやつ、今の心のまま成長すれば、竹千代のために並びなき忠臣になろう」
と語り、ことのほかの喜びようであったという。
● 竹千代の命を救う
竹千代が7.8歳、長四郎が15.6歳のころ。竹千代が鉄砲の稽古をしていると聞き、長四郎も鉄砲の稽古場である角場へ行ってみた。ただ、この時、長四郎は病からあけたばかりだったので見守るだけにした。
長四郎が見守る中、竹千代が火縄銃の火蓋をきり、引き金を引いた。しかし、火縄が途中で消えてしまい、弾は発射されなかった。「火薬の詰めようが悪かったのかな」と、竹千代はその鉄砲をかたわらに置いた。
しばらくすると竹千代はその鉄砲のことなど忘れてしまい、銃口の先に体を移した。それを見た長四郎は、しゃにむに駆け寄って鉄砲を蹴り飛ばした。一呼吸あって、鉄砲は轟音を立てて暴発した。
火縄の先が火皿に触れたままになっていたため、ふたたび火縄が燃え出すや弾丸が発射されたのである。長四郎は竹千代とそのまわりに注意深く気を配っていたので、火縄がまた燃え出したことにいち早く気づいて、竹千代の命を救うことになったのだ。
これを見ていた守役の青山忠俊は、
「ただいまのふるまい、形容する言葉もないほどの忠節である。御家人は数万人ありといえども、とてもその方に及ぶものではない。いよいよ体調に気をつけて、長く忠功を尽くしなされ。まことに類なき人物だ」
と、感動の涙を浮かべたという。
● 算学に強い「算勘者」
江戸時代の初期は武士の中に武を尊び、事務仕事、特に金を数えるようなことを卑しむ風潮が強かった。そのため、数字・算術に弱いものが多く、数字に強いものを「算勘者」と呼んだ。長四郎も算盤が達者な「算勘者」であった。
ある夜、家光がいやに長い招縄(おきなわ:鷹を馴らすために脚につないでおく縄)を鞠のように巻いたものを持って小姓たちの前に現れ、こう命じた。
「この綱の長さがどれぐらいであるか、急いで測ってまいれ」
小姓たちは細工所に行って物差しなどを借り出し、あれこれと測ってみたが、やけに長い縄なのでなかなか全長が割り出せない。そんな小姓たちを家光が苛立ちながら急かす。
困りきった小姓たちのところに長四郎がやってきて「簡単だ」と、長さの割り出し方法を教えた。
それは、まず縄から十尋(10ひろ=15~18m)の長さを切り取り、秤でその重さを量る。次に縄全体の重さを量り、十尋分の重さの何倍にあたるかを計算するというものであった。
ことは、簡単な比例式の計算である。長四郎がたちまち全長を割り出してみせたので、家光は機嫌を直したという。
長四郎はこのような機転でよく家光の機嫌を直したため、周りからも頼られることが多かった。
● 突貫工事の天才
ある日、家光は西の丸の庭で能楽師たちに能を演じさせようと思い立った。ところが、その庭は見通しが良すぎて能舞台としては具合が悪い。そこで、家光は「急いで庭に白土塀を築け」と命じた。
通常であれば、縄張りから土台、骨組み造りとなり、土を塗って乾くのを待ち、その上から白漆喰を塗るため数日が必要である。しかし、これを長四郎は一刻(二時間)以内に完成させて見せた。
どうしたのか。矢倉や土蔵などは外壁を白漆喰で塗ってあり、その扉も同様に白漆喰が塗られている。長四郎は、その扉をはずして持ち寄り、一列に並べるとそれぞれの間を鎹(かすがい)で留めていった。さらに丁寧なことにその即席の白土塀の上に屋根覆いまで乗せたから、これはもう立派な白土塀(見た目は)であった。
また、家光が朝鮮通信使の「馬上手」(ばじょうさい:朝鮮伝統の馬の曲乗り)が見たいと所望した時のこと。そのために長さ八町(872m)の馬場を作ることになった。しかも家光は、その両端に食い違いのある土居(土手)を築けといい、期限は明日までとのことだった。これも常識では無理な話である。
この難問を解決したのも前年に従五位下伊豆守となった松平伊豆守信綱だった。
彼は材木で、かまぼこ型の骨組みを作らせ、その表面を壁の下地に用いる木舞と呼ばれる竹などを組んだものでおおい、その上に土を塗って芝を植えさせた。見た目は立派な土居で、しかも軽いため、家光のお気のめすままに配置でき、大いに満足したという。
● 大酒飲みを諭す
信綱は酒が飲めない体質だったようで、出入りの者から同僚まで、彼の面前で酒を飲むのは控えていた。そんな中、屋敷に出入りする箱根小市という70歳を過ぎた法師だけは大いに酔って、小唄などを口ずさみながらやってきた。
「いかに上戸(酒飲み)とて、年を取ってそんなに大酒をしては病気になる。少しは控えたらどうだ」
と、信綱がたしなめたところ、小市は、
「私はもう老いぼれですが、おかげさまで子どもたちはみな一人前になりました。もう思い残すこともないので、酒だけが楽しみでして」
「その方、子供を不憫に思うのか」
「いかにも」
「その方の親も、その方のことを不憫に思っていたであろうな」
「はい、私は兄弟の中でも愛子(あいし:もっとも可愛がられる子)でした」
「ではその方、親の恩をなんとも思ってはいないのか」
「人間たるもの、どうして親の恩を忘れましょう。今思い出しても、涙がこぼれるほどです」
それを聞いた信綱は小市を静かに諭した。
「それではその方の親は、さぞその方を不憫に思っているだろうな。親は死んでも、その志は残るものだ。その方の親は、その方がかくまで大酒を飲むことを喜ぶわけがない。もはや眼前に親の姿がないとて、親に対して後ろめたいことをいたすな」
この言葉に小市はハッとして、手の盃を投げ捨てると、
「今後、大酒はいたしません。愚かにも親の恩を忘れておりました」
といい、信綱に手をついた。
そこに居合わせた人々は「名誉の理屈だ」と感じ入ったという。
● 殺人事件の真相を暴く
ある旗本家の同心が、自分の父親の命日に菩提寺の僧を自宅に招き、その夜は僧を泊めることにした。
その夜、戸を開け閉めする音に盗人でも入ったかと思い、同心が刀を持って出ていくと、慌てて裏口から逃げていく者がある。同心が刀を抜いて追うが逃げる者は止まらない。
やっとのことで追いすがり、同心は逃げた者の背中を切りつけた。大声で近くの同僚たちを呼び、出てきた同僚の持つ明りで確かめると死んでいたのは命日に呼んだ僧であった。
家に帰った同心が下女に事情を聴くと、住職は下女が寺にお使いに行くとなんのかのとちょっかいを出してくる人だったが、いよいよ今日の夜、下女の部屋に夜這いに入ってきたということであった。
この事件を最初に受け持ったのは「阿部重次」であったが、重次からこの話を聞いた家光はなぜか満足しない様子。今度は「阿部忠秋」にさらなる詮議を命じたが、忠秋もこれといって新しい事実を出すには至らない。そこで家光は、信綱に詮議を任せた。
二人が詮議して新事実が出てこなかったのだから自分が詮議したところで変わりはないだろうと乗り気ではなかった信綱であっが、ともかく評定所に出向いて同心と下女を審問することに。
同心と下女の姿を見たとたん、信綱にはピンとくるものがあった。下女はまだ12.3歳であったが既婚の者がするように眉毛を抜き、留袖を着て、歯も白歯(何もつけていない歯)ではなかった。
これはつまり下女が処女でないことを意味し、そしてそのなりを黙認している同心が相手と考えて間違いない。
信綱は同心を別室に控えさせ、下女だけにしてから素直に話さなければこうなるぞと拷問の数々を語り、真相を訊ねた。
はじめはごまかそうとする下女だったが、結局事の次第を白状した。
それによると、事件の日、同心は僧に食事を出し、風呂をすすめた。僧が風呂に入った時に僧が首にかけていた頭陀袋を同心が探ると、中に小判が七・八枚入っているのが分かった。
そこで同心は風呂から上がった僧に酒をすすめ、酔わしたうえで宿泊を持ちかけた。その後、僧を殺して金を盗み、事件を偽装したのである。下女ばかりか、近隣の同僚たちにも口裏を合わせることに成功したため、誰にも真相が見抜けなかったのだ。
その後、同心も自白したため、本来ならば斬首に処すべきところであったが、同心とはいえ武士の端くれであることに配慮して、信綱は切腹を申し付けた。
● 実験をして判断する
寛永13年(1636)、江戸城総郭(そうぐるわ)の造営が始まった。このころの江戸城は老朽化が進んでかなり傷んでいた。この時「天守閣の白壁が風雨寒暖に剥がれ落ちているのだけれど、これらに強い練り土はないか?」と問われた信綱は、
「たぶん当年あたりに破損がはなはだしくなると思い、20年前から練り土の工夫を調べて五品こしらえておいた」
と、20年前から晒しておいた練り土をしめし、この方法が採用された。20年前と言えば信綱21歳。なんとそのころから実験し、試していたのである。
また、西の丸の奥にある紅葉山の仏殿の板壁が天露のためにすっかり傷んでしまっていた件に関しても、信綱は前もって他に良いものがないか実験をしていた。コールタールを塗ったものが水をはじき、腐らないことが分かったのでこれを採用したところ、非常に長持ちしたとのことである。
実験し、効果を確認してから実行に移す。信綱は近代科学につながる精神の持ち主でもあったようだ。
● 自然の理を知る
信綱には合理的、科学的な考え方というエピソードが多く見受けられる。丈の高い葦原などで方角が分からなくなったときに、太陽の位置で方角を割り出すという話などは幾度も語られている。実際に信綱は、現代でいう科学的な知識を活用する名人であった。
信綱の邸は、江戸城の北側、一橋御門の内にあったが、ここの居間の前に水を満々と湛えた桶をいくつも置いていた。これは信綱が考案した地震計である。
地震が起きた時、そのこぼれ方を見て、急いで登城し対応するか、急ぐほどのものではないかを判断したという。
また、ある日、家光が
「明日は明け六つ(午前六時)から鷹狩りに行く。雨が降ったら延期とするからよく見定めておけ」と言い出した。
夜も明けようとした頃、近習たちが天気を確かめると、雨の降りそうな降らなそうな、どうにもはっきりしない空模様。困っているところに信綱がやってきた。事情を聞いた信綱は、縁側に出ると脇差を鞘ごと抜き取り、しばらく外気に触れさせた。その後、室内に戻ってその脇差を灯火に近づけ観察すると、鞘に空気中の水分が結露していた。この結果から信綱は、
「霧雨が降りだした、と申し上げよ」
と、近習たちに告げたという。
以上、これらはすべて信綱が老中になる前までのエピソードである。老中になってからの活躍ぶりは、この後の歴史をなぞってゆけば、おのずと知恵伊豆が登場してくるので、その折ごとに。
頼りになる人々に恵まれて良かったな、家光。
参考
https://mag.japaaan.com/archives/170406
https://mag.japaaan.com/archives/173882
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