初めて日本橋船着場から船に乗った。
乗船したのは第3便。日本橋の水路から、周辺の歴史的建造物や、橋を眺めつつ、築地市場跡や、浜離宮の港内を遊覧し、東京湾へ出て、レインボーブリッジを潜って、お台場まで。というコース。蒸し暑い日だったが、船が走り出すと風が心地よく、これぞ納涼、よきかなよきかな、であった。
「家康、江戸を建てる」を読んだばかりだったので、現在の形になった経緯に想いを馳せるのも、なかなか味わい深い。次から次に橋の名前の由来や、歴史蘊蓄を語ってくれる船頭さんのトークもテンポ良く、気分はジャングルクルーズ。せっかくなので、今回得た知識をメモしておこう。
●今の日本橋は20代目。明暦の大火をはじめ、江戸時代中に10回は焼け落ちてるとか。今の橋にも、東京大空襲時の焼夷弾による焼け跡が残ってるらしい。知らんかったし、今度通ったら見てみよ。
●茅場町は、江戸城が築城された当時は、茅が生い茂る草原で、屋根葺の材料となる茅で商いをする商人が住んでいた。だから茅場。江戸の人口が増えて、家を作るのに、茅がたくさん必要だったんやね。茅葺き屋根やね。まあ、まんまだから分かるっちゃ分かるけど、改めて知ると、なるほど感。
●人形町には最初、吉原遊廓があった。名前の由来は「葦の原」の「葦」が「悪し」と似てて縁起悪いので「吉し」に変えて「吉原」にしたそうな。明暦の大火で燃えちゃった後に、今の浅草の方に移転したのは一般常識でござりんすね。(そういや人形町には「大門通り」と言う通りがあるが、元の吉原の大門があったから、その名前が残ってるってわけか!)
●鎧橋の付近は、茅の生い茂る沼地で、江戸時代に徳川家康の江戸城築城計画に合わせて、埋め立てられた。鎧の名の由来は、源頼義が奥州討伐の際に、この場所で暴風雨に遭い、自分の鎧を海中へ投げ入れ、竜神に祈りを捧げたところ風がおさまった、という逸話から。てか、源頼義て誰よ?
●蛎殻町のあたり一帯は、昔は漁師たちの「小網の干し場」があり、牡蠣の殻の堆積した海浜であったらしい。享和元年(1801)に、京橋に設置されてた銀貨鋳造所が移転し、蛎殻銀座と呼ばれるようになったとのこと。大森貝塚と言い、蛎殻町と言い、かつての東京は海だったことが偲ばれる。
●佃島は、、以下コピペ↓
本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢と共に堺にいた。家康は、本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟が無く、進めなくなった。そこに現れたのが、近くの佃村の庄屋・森孫右衛門と、彼が率いる漁民たちで、彼らが家康らに漁船を提供した。その結果、家康らは生きて岡崎に戻ることができた。後に家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せたのが、入植の由来とされる。ってさ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/佃_(東京都中央区)
●つきじ治作、なる料亭の存在を、今回初めて知り申した。あまりグルメ情報のアンテナ張ってないもんで。で、知ったついでに水炊き食べてみたいなーって調べたら、高っかい、高っかい! ひとり3万4万するやんけ! こりゃ恐れ入りました、超高級店なのですね。でも、歴史や文化の勉強のためってことで、何とか経費で行かせてもらいませんかね?
https://jisaku.co.jp/_release/history/
●浜離宮の詳細ついては、↓ググりましょう。とりあえず、船で海から公園を眺めるのは、滅多に出来ない経験だった。まあ、陸からも行ったことないけど。これもそのうち行っときましょう。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吉原_(東京都)
●お台場が、大砲台だって事はもちろん知っていたが、いざ近くで見てみると、石垣が海の中から積まれてて「普通にこれよう作ったねー!」と、技術にびっくり。ペリーが二度目に来た時、前には無かったこれが出来てるの見て、ビビって品川諦めて横浜に引き返したんと。
以上、他にも細かな蘊蓄や見所もあったが、とりあえず印象深かったのは、ざっとこんなところ。江戸時代にはもっとたくさんあった水路も、大震災や戦後の瓦礫処理で、だいぶ埋め立てられちゃったらしい。もったいない。
それにしても「自分で勉強するのも大事だけど、こうゆうツアー的なやつで、ガイドさんからつらつらつらっと教えてもらうのが一番楽でいいや」と思った日であった。
あと「治作、いつか行ったるから待ってろよ」的な別の目標ができた日でもあった。
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