vol.9「日本橋べったら市」を見物


さてさて、今年もやって参りました、この季節。日本橋恒例の「べったら市」でごぜえます。毎年10月19日20日は、業務時間中に会社を抜け出し、立ち並ぶ屋台のB級グルメをあれこれ食べ歩くのが、あっし大好きでして、へえ。今年も楽しみに指折り数えておりやしたわけでさぁ。


ま、なんせ人が多くて歩きづらくてならねぇんですがね、活気があるってのは、気分も盛り上がるってもんですわ。江戸はやっぱり景気が良くなきゃいけませんぜ。商人が威勢よく声出して、町は客やら見物人で賑わってる。これだね。この雰囲気こそが、江戸の町人文化が現代にも残ってる、ってことなんじゃねえかと、あっしはそう思うってわけでさぁ。普段Amazonで日用品まで買い物してる私が、あんま偉そうなこたぁ言えませんけどね。


べったら市の起源や由来について知らない方は ↓ こちらを参照してくんなせぇ。あっしはもう知ってますんでね。そこまでいちいちメモってらんないんで、ご勘弁を。


けれども、新知識が全くなかったってぇわけでもなくて。犬も歩けば棒に当たるって言いますが、ありゃホントだね。宮城地鶏焼きをほうばりながら大伝馬を歩いてたら、こんな石碑を見つけやしてね。「馬込勘解由の碑(べったら市の由来)」て書いてあるけど、読めねぇのよ、その馬込勘解由が。ふりがなふっとけってんだ、そんな名前!て思いながらググッたら「まごめかげゆ」と読むらしい。

馬込勘解由(まごめ かげゆ)


キラキラネームかよ馬鹿野郎っ、とか思いつつ調べてみれば、なんでぇ、この界隈を取り仕切ってたお偉い名主(なぬし)様だったらしい、と来たもんだ。は〜、知らなかったねぇ〜。なになに、しかも、もともと江戸城すぐ近くにあった宝田村を、大伝馬町に村ごと移転させる代わりに、あの「運慶」が掘った御神体を家康公からもらって、それを今の宝田恵比寿神社に奉納したと。へぇ〜、こちとらそんなこと知らずに毎年サクッと遠くから拝んでたけど、あーだからあんなに参拝で行列ができるってわけかい。へぇ〜。知らなさすぎて屁〜でるわ。

宝田恵比寿神社(たからだえびすじんじゃ)



え、じゃなにかい? もしかして椙森(すぎのもり)神社の方も、未だ知らぬ江戸っぽいトリビアがあんのかい? てググッて見れば「藤原秀郷が、平将門の乱鎮定のため戦勝祈願し、戦後白銀の狐像を奉納したとされる」ておい。平将門の乱てあんた。平安時代やないかーい。想定外すぎて関西弁になっちまったじゃねぇか。

椙森神社(すぎのもりじんじゃ)



ともかく、さっきの馬込勘解由って野郎はどうやら江戸城下町のキーマンぽいし、詳しく調べる必要があるな、ってんでググるがあまり情報がない。唯一の図書は単行本で4500円もしやがるが、しゃーねぇ一丁買って読んでやろうじゃねぇか! 面白くなかったら承知しねぇぞ、ちきしょうドロボー。


てなわけで『江戸の名主 馬込勘解由』を読んで、はまたいつか。とりあえず今夜は、べったら漬け買って帰りますもんで、これにてあばよっ!


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。