vol30「江戸の食」について①


おまっとさんでした!(愛川欽也)

生類憐みの令のせいで、一時期むりやり足踏みさせられた「食文化の逆襲」が始まりまっせ! けれども、これが調べると、なかなかなかなかに面倒な作業でして。。だって、何がいつどこで食べられるようになったかなんて、むっちゃ曖昧なんだもん。いちいち「0000年 天麩羅誕生!」とか記録ないんだもん。


だから、この記事書くのに何気にすっごい労力費やしてます。あれこれ検索しては、時系列順に落とし込む作業、想像してみてくださいよ。こんなんお金もらわなきゃやってられませんぜ? けど私ってば偉いから、まとめましたよ。しかも、どれだけ長くなるか分からないから、①②③、、ってシリーズに分けて。なーんてマメな活動なんでしょーか。誰かお金くださいよ。


てな愚痴はさておき、テーマは日本の食文化についてですので、これは日本人としてテキトーかますわけには参りませぬ(他の文化もですが)ゆえ、きっちりじっくりやってきますよ。食通、日本人の「沽券」に関わりますからね。つか「沽券」て何? 使っておきながらなんの意味なんか知らないのでグクります。


●マメ知識メモ「沽券」とは?

https://ri-ho.jp/information/view/272


なるほど「沽券」の意味も分かったところで、初回の①なので、やはり始まりはセオリー通り「稲作の歴史」から入りましょうか。日本と稲作は、一心同体、一連托生、ですからね。そもそも昔は、米=資産だったりするので、食文化以上の意味を持ってましたし。武士の世では「米=パワー」のようなもの。大名がスカウターで戦闘力を測られたら「00万石」って表示されます。1人あたりの年間の米消費量が約1石なので「加賀100万石」ったら「100万人の部下を養う力あり」ってことを意味し、フリーザより強い戦闘力になるわけで。その影響力も絶大です。


そんな稲作=米文化と、その他の食文化の変遷をまずは探っていきましょう。




< 稲作の伝来で、国が興る >


稲作が大陸から日本に伝わったのは、縄文時代の終盤。それまでは、猪や鹿の肉を食べたり、栗やドングリを食べたり、サトイモを栽培してたようですが、弥生時代中頃には、東北地方の北部まで稲作が広がっていたとか。それはイコール余剰を生み出す社会の始まりであり、日本という国家の始まりでもありました。米は貯えることができるため、その貯えの多さによって貧富の差が生まれます。紀元後3世紀の日本には30の国があり、最強の国が女王・卑弥呼(ひみこ)が統率する邪馬台国(やまたいこく)だったと伝えられてます。


弥生時代、米は臼と杵を使って脱穀され「粥」のように煮炊きして食べられてたようで。それに芋とか野菜を入れて煮るから、つまりは「雑炊」です。一月七日に無病息災を願って、粥にセリ、ナズナなどの「春の七草」を加える「七草粥」を食べるのは、その頃の中国の風習がルーツだとか。

(ちなみに、現在のような米を炊き蒸らす調理法は、平安時代に確立され、室町時代に普及したとされとります)



< 仏教の伝来で、肉食が禁止に >


この頃は、まだ狩猟もスパッとやめたわけではないから、米と肉を一緒に煮た、猪肉の雑炊とか、鹿肉雑炊とかもあったんでしょう(普通に美味そう)けど、飛鳥時代の675年あたりになると、仏教の伝来と共に、獣の肉が禁止されちゃいます。そして奈良時代以降は、キジや鴨以外の肉は、ほとんど食べられなくなってしまう日本。天皇の命令ですし、違反したら罰せられちゃうんだから、たまったもんじゃありません。


なので、大衆の間ではコソコソ肉食を続けます。鳥は禁止されていなかったので、ウサギも一羽二羽と数え「みなし鳥」としてひそかに食します。どう見てもウサギなのに「鳥なら仕方ないか〜」って。許す方も頭おかしい、不思議な世界です。


てことで、肉食より魚食寄りに傾く日本。けど、魚は米のように保存が利かないので、割と早い段階で「」が登場。鮨は「酸し(酸っぱい)」の意味で、もともとは魚や貝を塩と炊いた飯のあいだに浸けて「めし」を乳酸発酵させ、魚や貝が白く酸味を帯びたものを食べる「熟鮨(なれずし)」を指してました(魚や貝を保存することが目的だから「めし」は食べずに捨ててたそうな)


平安時代には、各国が「鮨」を税として納める規定があり、伊勢の鯛鮨、近江・筑紫の鮒鮨、若狭のアワビの甘鮨、讃岐の鯖鮨などが朝廷に献上されてたんだとか。されど、我々が鮨と認識している鮨が当時するのは江戸時代中期のことである。



< そんで「塩の道」ができる >


多くの肉や魚が食べられた狩猟・採集時代には、獣や魚が臓器に蓄積した塩化ナトリウムが摂取されてました。が、穀物を大量に食べるようになると、穀物や野菜に含まれるカリウムがナトリウムを体外に排出してしまうために、もっと塩を摂取しなければならなくなります


なので、海岸部から内陸部に塩を運搬する「塩の道」が多数ひらかれます。生活必需品を運ぶための「塩の道」は、文化が行き交う道でもあり、多数の小世界の孤立性を打ち破る道でもあったので、内陸部の集落が「塩の道」により海とつながったわけです。


のちの戦国時代に、その塩ルートを遮断して「内陸野郎の武田信玄を弱らせてやれ!」としたのが今川&北条。けれど、それを見た上杉謙信が「俺らは武力を争ってるんであって、米や塩などの生活必需品の争いをしてんじゃねーだろ」と「敵に塩を贈る」という超かっちょいーことした逸話は有名ですね。


でも、それデマらしいです。武田信玄は織田信長から塩を送ってもらえるし、別に塩に困ってなかったとか。むしろ上杉謙信の方が武田に塩を送りたい理由があって、それをもっともらしい美談に勝手に変えた、いわゆるプロパガンダだったぽいです。詳しくはこちらで ↓

https://originalnews.nico/259904



< 味噌と醤油の登場 >


室町時代になると、味噌が普及。コウジさえあれば誰でも家で簡単に作れるので「自分の家で作った味噌を自慢する」ことから「手前味噌」という言葉が生まれます。味噌が生活に調味料として浸透すると「味噌汁」を飲むようになり、入れる具としてはカモ、アオサギ、ウズラなどの他、特にツルが味噌汁の最高の具とされたんですって。(食べてみたい。。)


同時に、味噌を作る過程で出来た汁が、ナニコレめっちゃ美味いじゃん!となり、醤油が爆誕します。醤油が出回ると、魚の食べ方も変わり「刺身」が出現します。醤油が生魚本来の旨さを引き出したのです。ついでに、魚の切り方まで見栄え重視に変わります。なお、魚の種類が分かるように、頭や尾を差したから「(尾ひれを)刺(したやつの)身」だから「刺身」と呼ばれるようになったとか違うとか。(諸説あり)



< 西洋から来た食文化 >


ポルトガルとか外国との貿易が増えると、鉄砲だけじゃなく色々なものが伝来します。日本で一番最初にコンペイトウを食べたのは織田信長、ってのは有名ですね。けど砂糖は貴重品だったので普及はしません。他にコショウも伝来しますが、肉食文化の薄い日本ではあまり必要とされず。汁ものにユズとコショウを少しアクセントで入れる程度。


定着したやつと言えば、揚げもの文化でしょう。とりあえずザビエルが薩摩に来て揚げものをレクチャーしたことで「さつまあげ」が誕生します。あと何でか知らんが、ネギを使った料理に「南蛮」の名が冠せられるようになり(←だんだん調べ方が怠慢になってきた)鴨南蛮とか今でも言うのはその名残り。


そんなことより大事なのは天麩羅です。駿府に隠居した徳川家康が、上方で流行してた天麩羅という南蛮料理の話を聞き、オオダイをゴマ油で揚げてニラをすりかけた天麩羅を作らせて食べたところ、あまりに美味くて食べすぎ、偉大な人生を終了させてしまいます。(もともと胃がんだったところにトドメをさしたとか)


当時、ゴマ油は高価だったので、天麩羅はまだ庶民にまで広まりませんが、江戸中期に安価なナタネ油が出回るようになると、家康を殺した天麩羅は日本を代表する料理にまで出世するのでした。



< 江戸時代前半は「下りもの」がメイン >


天下の台所は大阪です。なので初期は上方から江戸へ下ってきた品の方が上質。下って来てない取るに足らないものは「下らない」の語源ですね。特に、樽廻船(たるかいせん)で運ばれてくる「下り酒」は、船で揺られてるうちに樽の香りが酒に移り、味もまろやかになると江戸で大人気。おびただしい量が毎年消費され、やがて「京の着倒れ、大坂の食い倒れ」に並んで「江戸の呑み倒れ」と称されるようになったそうな。


また「下り醤油」も大人気。やがてその製法を真似して、千葉の銚子や野田で江戸好みの濃い口醤油が作られるようになると、江戸独自の醬油文化が花開いてゆきます。やがて、それが薄口醤油と昆布だしベースの関西料理とは一線をかくして、濃口醤油と鰹だしベースからなる、そば、鰻の蒲焼、握り鮨、鍋料理など、さまざまな江戸料理を生み出してゆくことになるのです。



ふ〜、よ〜やっと江戸時代前半まで戻ってきました。けども、5th綱吉の例の令で、元禄期は、ほぼ野菜しか食べれない状況に陥ります。なぜなら貝類ですら生き物なので殺しちゃダメだからです。漁師は商売上がったりどころか、転職のためビズリーチに登録したとか。(嘘です)


それを6th家宣が解禁してくれてから再び動き出す食文化。元禄文化より出遅れて、いよいよここから江戸の食文化が花開くってわけです。が、今回はとりあえずその嵐の前の静けさ段階で終わりますね。だって疲れたんだもの〜。人間だもの〜。


続きは8th吉宗の「米価コントロール奮闘記」のあとで。せっかくオカズが解禁されたのに、いろいろ米にまつわる騒動が起きるって、どゆこと!? 説明して!! と庶民が茶碗と箸を持って怒ってますもんで。

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。