vol.33「江戸の食」について②

さてさて、江戸の食文化シリーズ②であります。元禄時代あたりから一日三食が定着してきた今日このごろ。これまでアワとかヒエを食べてた農民までもが白米を食べられるようになって良かったねー、と思いきや、思わぬ事態が。



< 白米食の「江戸わずらい」という病気が流行 >


これは、ビタミン不足で起こる「脚気」のこと。それまで主食だった玄米や麦飯にはビタミンが含まれていたために問題はなかったが、主食が白米に変わったことで、慢性的な栄養不足に陥ってしまったのである。けれども、当時はそんなこと知る由もなく。参勤交代の江戸滞在期間中に白米三昧して具合悪くなった武士が、故郷に帰って麦飯食に戻った途端に治ったことから「江戸わずらい」と呼ばれるように。


ちなみにこの脚気という病気、大正時代くらいまで原因不明のまま大勢の人々を苦しめます。明治3年以降、東京などの都市部や陸軍があった港町から「脚気」が流行り始め、乳児まで含めると毎年1~3万人の人が亡くなったと推測されてます。特に、明治になって誕生した軍隊では、多くの兵士が同じ食事をとることもあり、大量の脚気患者が発生。亡くなる兵士も多く、大問題となります。


原因がビタミンB1不足などとは露知らずの江戸時代ですが、不思議なものでビタミンB1を含んだ「蕎麦」が流行り出します。知識はなくとも体が不足してる栄養を欲したのであろうか。ともかく、江戸っ子は蕎麦LOVEに。手軽にチャチャっと立ち食いできる「二八蕎麦」の屋台は、価格もリーズナブルで大人気となりもうす。


同じくビタミンB1を含む「豆腐」も救世主。この頃の〝料理番付〟を見ると、最も人気があったオカズは「八杯豆腐」だったとか。これは、細長く拍子木切りした豆腐を、水四杯・醬油二杯・酒二杯の割合の汁で煮立てるというもの。 豆腐は一丁50文ほどで、現在の一丁の約四倍もの大きさがあったという。毎朝、棒手振が裏長屋にまで売りに来てくれたので、気軽に買うことができたのである。



< 飢饉でサツマイモの栽培スタート >


享保17年(1732年)に起きた享保の大飢饉は、日本全土に被害をもたらした。しかし、享保期に薩摩国では既にサツマイモが伝来して農耕作物として普及定着していたと推測されており、サツマイモの栽培は飢えから人々を救っていた。それを知った「青木昆陽(あおき こんよう)」は、サツマイモを栽培して救荒食とすべきことを吉宗に上書し、これが認められ「甘藷(かんしょ)先生」と呼ばれるように。


のちに起こった「天明の大飢饉」と「天保の大飢饉」の際にも、サツマイモが食料として重宝され、多くの人々の命が救われたとか。江戸時代の後期になると、サツマイモについて書かれた書物も世に出まわるようになり、1789(寛政元)年出版の『甘藷百珍』では、サツマイモを使った123もの料理をランクごとに紹介している。


また、江戸の風俗をつづった『絵本江戸風俗往来』にも「江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼芋店のあらぬ所はなし……」との記述がある。吉宗の時代以降、サツマイモがいかに庶民の食文化に深く根付いていたかがうかがえる。



< 人気を博した鰻の蒲焼き >


鰻は縄文時代から食べられており『万葉集』にも登場する。「蒲焼き」の語源は、鰻を丸のまま長い串に刺して焼いたのが、水辺に生える「蒲」の穂に似ていることが由来。背中から開いて焼くようになっても古い名前が使われ続けた。


高タンパク高カロリーでスタミナがつく鰻は、江戸開拓期の肉体労働者の軽食としては最適で、屋台売りが大繁盛。海での漁法が未熟だったため、安定して川で捕獲される鰻が江戸前料理の最初の素材とされ「江戸前」が「鰻」を意味する時代が、まずあったらしい。


享保時代に著名な文筆家の「平賀源内」が「土用の丑の日に鰻を食べると体に良い」と発信し、各店の前に「本日土用丑の日」と貼り出すよう提案したところ、それがたいへんな宣伝効果をあげて、大ブームになったそうな。(この日本最古のキャッチコピーを発明した平賀源内については、後日スポットを当てたいと思いまする)


ちなみに、当時はまだ鰻屋で飯は出しておらず、客は家から飯を持参して蒲焼きを食べに来たんだとか。想像すると、なかなかシュールな絵面でヨネスケの隣の晩ごはんを思い出します。のちの化政期に「鰻めし」が工夫され「うな丼」となり、屋台でも気軽に楽しめるようになったそうな。



< 品川の海苔と、佃島の佃煮 >


江戸前の代表格である品川沖では、いつでも江戸城に魚を献上できるよう生簀が作られており、そこに付着した藻類が旨い!と気付いてから、意図的に生簀で海苔を養殖するようになる。その後、浅草の古紙再生技術にヒントを得て、紙状に乾燥させた海苔が誕生。享保時代にこの浅草海苔が江戸市中に広まってゆく。


モノを包める浅草海苔は、醤油との相性も抜群で、またたく間に全国区に。江戸生まれで大阪や京都の上方に初めて「のぼった」最初の食品だったとされる。その後もちろん海苔巻きが誕生し、寿司の発展にも大貢献。そして現代の令和には、山本海苔店の「味附海苔」が宇宙日本食として認証されるまでに至る。すごいぞ海苔w

https://www.yamamoto-noriten.co.jp/knowledge/history.php


もうひとつ江戸の名物となったのが佃煮で。家康が伊賀越えピンチを救ってくれた佃村の漁師らを江戸に呼び寄せ、幕府お抱え漁師として白魚漁にあたらるため与えた島が佃島であり、そこで獲れた雑魚を煮詰めて保存食にしたのが佃煮である。


これが売り出されるようになると、味も良く安くて日持ちもすることから参勤交代で江戸に上った下級武士の江戸土産として大評判になり、各地でも真似して佃煮が作られるようなった。江戸前佃煮は、夏の常温下でおにぎりや弁当に入れても痛まず、食中毒を起こさないと重宝された。



< 女房を質に入れてでも食べたい初鰹 >


というブームは関西にはなく、江戸固有の社会現象。初物を食べると長生きできるという言い伝えと、江戸っ子の初物好き、見栄っ張りが重なり合ったようだ。相模湾で獲れた鰹を江戸まで運ぶのだから、鮮度の面からお世辞にも美味しいとは言えないはずがないのだが、初鰹を食べないのは恥とばかりに群がる江戸っ子たち。値段も一尾で二両から三両もしたと言う。


当時の一両は、現代では六万円くらいの感覚。経済観念が発達している大阪では、ステイタスとして初物の魚を高額で買い漁るような馬鹿なことはなされず、手頃な値段で買える他の旬の魚を楽しんでいた。一方、江戸っ子は「宵越しの銭は持たない」という気質からか、損得よりも一時の見栄と粋を優先し、身銭を惜しまなかった。変なスイッチが入ったまま切れなくなってしまったとしか言いようがない。



< サンマを食べたのは日本だけ >


サンマ漁は日本固有で、サンマを対象とした漁業は外国にはなかったんですって(それが今や中国に参入されちゃって散々な有様ですよ腹立たしい)。江戸時代に庶民の間に広がってから大衆魚の地位を獲得し「サンマが出るとアンマが引っ込む」と言われるほど、健康を増進させる食材として大歓迎された。


落語で有名な「目黒のサンマ」では、お忍びで目黒を訪れた殿様が、休憩した農家で焼いたサンマを振る舞われ、その味に感激。あの味が忘れられないと後日お城でも出すよう命令する。家来はそんな下魚をと思いつつ、上品に一度蒸してから焼いて油のすっかり落ちたパスパスのサンマをお出しする。それを口にした殿様はサンマをどこから取り寄せたのか問い「日本橋です」と聞くと「やっぱサンマは目黒に限るね」と言ったっつーオチ。



以上、生類憐みの令が廃止され、だんだんと食のバラエティーも増えてまいりましたな。享保の大飢饉も何とか乗り越えて、この先江戸では様々な屋台が登場し、ファストフード文化や外食産業が発展してゆくわけですが、それはまた別の機会に。


ああ、書いてて無性にお腹が減ってきてしまいました。

あ、てか今日は私の誕生日、、! 夕飯なんだろ?


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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