vol.35「町人社会」について


小川笙船の病人救済物語で、けっこう重ための空気になちゃいましたので、ここらで気楽でノーマルな「町人世界」に一度戻りやしょう。せっかくまた江戸に活気が戻ってきたんすからね、暗い話は忘れちまって、町人は町人らしく浮世を楽しく生きなきゃ損ですぜってことで、今回はそんな一般ピーポーの町人社会にスポットをば。



⚫︎ その前にそもそも「町人」の定義とは?


江戸は同時代のロンドンやパリより先に人口100万都市になっとりましたが、じゃ、その全員が町人かと言うと、そではなく。勝手に住み着いた乞食や、江戸参勤中の武士もたくさんいたわけで。狭い意味での「町人」とは、江戸に町屋敷を所持していた地主層だけを指すらしい


町屋敷は売り買いが可能で、その際に作成される証文を「沽券」と呼び、今でもプライドに関わることを「沽券にかかわる」と言ったりするが、これは沽券を持っていることが正式な町人であることの証であり、誇りであったことに由来する。ってのは、以前の記事でもマメ知識メモで触れましたね。(忘れたころに抜き打ちテストするから油断しないように)


その地主さんの土地や建物を借りて生活するのが「店子」であり、それをまとめるのが「大家」さん。大家は町屋敷の何でも窓口で「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」の関係。店子の結婚だって大家の許可がいる。当時の住民台帳である「町方人別帳」には、地主を筆頭に、大家、店子の名前、その妻子や職業などが記載され、これが広い意味での「町人」と呼ぶのだとか


ちなみに、江戸時代の刑罰は連帯責任制なので、自分が属するコミュニティー内に悪さする奴がいたら、人別帳に目印の札をつけて大家が目を光らせたそうだ。これが「札つきの悪」と言う言葉の由来である。


⚫︎ 町人ヒエラルキー


↑ の図のように町人のトップは、行政、司法、警察、消防など全般を取り仕切る町奉行。町奉行は町人らから「親方」と呼ばれ、一番身近で頼もしいオラ達のボス!的に尊敬されてたそうな。享保時代だと大岡越前殿が有名ですな。町人みんなのことを真面目に考えてくれる正義の味方じゃないと務まらない大役である。

その下に町年寄や町名主などの中間役人がおり、月行事という交代制の役職があったらしいが、それは ↑ とwikiでも参照くだされ。


それより(と言っちゃ悪いが)町奉行の下で働く、与力同心という武士らの方が「八丁堀の旦那」と慕われていた。役職としては、与力が裁判官や検察官、また警察署長クラスで、同心がその手下ども、といった感じ。武士の割に言葉遣いも「べらんめえ口調」な上、髪型や身なりも粋でカジュアルスタイルだったので町人から人気があった。


粋な出立ちには理由があり、町人に変装して潜入捜査する際に都合が良いから。また、銭湯で男湯内での会話を盗み聞きするため、特権として女湯に入ることが許されていた(男湯が賑わい、女湯の利用が少ない早朝の時間帯であるが)。このために八丁堀界隈の銭湯の女湯には、刀掛けが備えてあり「八丁堀七不思議」のひとつになっていたとw


⚫︎ 町をあげての防犯監視システム


身だしなみに気を遣うお江戸男子は、銭湯と併せて「髪結い床」にも足しげく通った。順番待ちの間に囲碁将棋をしたり、おしゃべりをしたり、けっこう楽しい時間だったようだ。髪結いは、そこで集めた町の噂や情報を与力・同心に伝えることで営業権を得ていた。町で良からぬ噂が立てば、すぐ警察の耳に入ってしまうシステムである。これではなかなか悪さもできぬ。


そもそも警察としての役回り同心は20人程度。それで江戸全体への警察機能が果たせるわけもなく。よって必然的に町屋敷の大家や銭湯、髪結い床が町奉行所の末端機関のような役割を果たし、協力することで秩序を維持していたのだという。時代劇でよく登場する「岡っ引き」という者も、同心に私的に協力する、ただの町人なんですと。


さらに、町屋敷の出入り口には「木戸」が設けられ、午後10時を過ぎると閉じられてしまい、夜明けまで自由な通行ができなくなる。時間外の通行は木戸番に願い出て「くぐり戸」を通らなければならず防犯には効果抜群。「木戸番」と対で建てられた「自身番」には交番のようなものまであったと言うから、怪しい動きはますます出来ませんぜ。

また、自身番の近くには火の見もあり、半鐘を吊るし火事の際には住人に知らせた。このように江戸町人は「自分たちの町屋敷で起こったことは自分たちで解決する」という高い自治意識を持っていた。江戸町奉行が少ない人数で八百八町を支配できたのも、このおかげ。武士と町人、持ちつ持たれつで江戸の平和は保たれていたのである。


⚫︎ 裏長屋の暮らしにプライベートはない


町人のうちの大多数が店子であり、裏長屋の1間3坪住まいなわけで。トイレも井戸も共用だし壁も薄いしプライベートなんてありゃしません。嫌でも隣人らと顔を合わさなければならないわけだから、隣がどんな人か知らないなんてことも皆無で、奥様方が集まっておしゃべりする「井戸端会議」なんて言葉もこれが語源。


まあでも、裏長屋の住人には公民権がない代わりに税金もなく、家賃さえ払えれば生きてゆけるメリットもあった。例え火事や地震で家を失っても、住居は地主が建て直してくれるから貯金する必要も無し。その日に必要な額さえ持っていれば生きてゆけたのである。


『文政年間漫録』という史料には、江戸の裏長屋暮らしで家族を養っている行商の暮らしが詳細に書かれているので、現代語訳してご紹介しよう。なお、1文は現代だと20円~25円程度とお考えいただきたい。


〝夜明けとともに銭600文から700文を持って、蕪・大根・蓮根・芋などを籠に担げるだけ仕入れる。江戸の町を「蕪菜めせ、大根はいかに、蓮も候、芋や芋や」と、売り声を上げて西日が傾くまで必死に野菜を売り歩いた。日が沈むころ、菜籠のなかには一にぎりぐらいの野菜が残っていたが、これは明日の味噌汁の具にしよう。


家に帰って菜籠を置き、竈に薪をくべてから財布を取り出して、売り上げからまずは明日の仕入れの代金を取り除いて、家賃にあてる分は竹筒に収めた。そのとき、ようやく昼寝から覚めた女房が「米代は?」と手を出すので200文を与えると「味噌も醤油も切らしている」と言うので、さらに50文を渡した。女房が買い物に出ると、今度は子供の番だ。菓子代に12文が消えた。


手元に残ったのは100から200文ばかりの銭。それを手に「さて、一杯やるか」と思うけれど、「いやいや明日は雨になって商売にならないかもしれない。貯めておこうか」と思案する。これが日雇いの行商人の暮らしぶりである〟


けっこう気楽な生活で楽しそっすね。物を右から左にうまく捌けば利潤で食えていけるわけで。そりゃ物作りしてる生産者側を大事にしてた重農主義の吉宗さんからしたら「商人たぁ誠にたわけた奴らじゃ!」と思うかもですな。


されど時代の流れってやつで、ここまで来たら町人社会=貨幣経済の成長はもう止められやしませんぜ。となると、いくら年貢率を上げたって、武家社会の米本位主義もやっぱり限界が来るわけで。。


さあ、どうする吉宗?

てゆーか次の将軍は誰にするん?


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。