vol.43「蝦夷地」について


田沼意次が、幕府の財政再建と、諸外国からの防衛、そして来たる開国時代への足掛かりとして、大きな期待を寄せていた「蝦夷地つまりは、昔の北海道。この北の大地の歴史を、そういや私たちは全然学んでいない。アイヌについても、たいして教わってない。なぜか? 理由は簡単、日本が侵略者側、虐待者側の歴史だからである。


アメリカ人とインディアンの関係みたいなものでしょうかね。どうやら、先住民を人間として扱わず、気軽に虐げ、気軽にレイプし、気軽に殺してたようだし。そりゃ詳しく語り継げない黒歴史ですわな。さりとて、せっかく田沼意次ついでに蝦夷地について学ぶ機会が来たので、いっちょ腰を据えて調べてみましょかね。この機会を逃したら、もう次に興味を抱くタイミングもなさそうですし、お寿司(←ほらもう頭が食文化③に向き始めてる)


しかし、いざ調べてみるとこれがゴッチャゴチャ。民族もいっぱいいるし、人物名がカタカナで聞き慣れないから覚え難いし、よう分からん。たぶん、当時の幕府もこんな感じで「なるほど分からん!」状態だったんでしょうね。で、松前藩に任せて長年ほったらかしてきた。松前藩は、ほったらかされてるのを良いことに、アイヌを虐めて搾取しまくり。要は、幕府の目も法も届かぬ「未開拓無法地帯」だったようですね。江戸時代中期になっても、まだそんなエリアがあったんだとビックリです。




● 1457 コシャマインの戦い

時は室町時代「応仁の乱」の10年前。太田道灌が江戸に粗末な1st江戸城を建てたころのこと。蝦夷地で和人が営む鍛冶屋にて「おい頼んだ小刀、ボロいわ高いわ、ちゃんと仕事しろ!」と、アイヌ人が抗議したら「のび太、じゃなくて、アイヌのくせに生意気だぞ!」と鍛冶屋が逆ギレしてアイヌを刺殺。で、戦争へ(それで戦争?w)。まあ、ともかくアイヌ軍だいぶ奮闘する。のだけど、首領コシャマインが弓で射殺されると、アイヌ軍はみるみる崩壊。結果的には和人が勝利し、これが松前藩形成の元となった。とか。


 ↑ まあ、小競り合いはどこでもありますわな。。



● 1599 松前藩が家康から蝦夷地支配権を得る

コシャマインの戦いで勝利した蠣崎氏が台頭。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽・海草を入手し、対価を鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていた。松前藩の中では、アイヌからどうやって搾り取り、それを分け合うかの内輪揉めに明け暮れ、トリカブトを用いた毒殺内紛劇が繰り広げられた


↑ さっそく醜い松前藩。



● 1669シャクシャインの戦い

アイヌ民族同士の中にも「なにオメーら松前藩に媚びてんだよ!派」と「しゃーねーだろ現実見ろよ!派」との不協和音はあって、その諍いが発端であったが、途中で「やっぱ一緒に松前藩倒そーぜ!運動」となり、和人との全面戦争へ。(うっぷんが溜まってたんでしょう)けれど、アイヌは結束が弱い。すぐ和人に分断工作されてしまい、リーダーのシャクシャインは孤立奮闘に。そこへ松前藩が和睦の交渉を申し入れて来たので、シャクシャインは応じて酒宴に出席し、まんまと騙され殺されてしまう(油断すんなよシャクシャインー!)。これより後は、松前藩のアイヌにとって不利な交易が始まる。


↑ アイヌの団結力ないところが残念。



● 近江商人が漁夫の利を得に押し寄せる

さすがに松前藩もアイヌをいじめ過ぎると戦になることに、やや懲りる。が、代わりに今度は近江商人らがアイヌをコキ使いに来る。松前藩は商人たちに好き勝手させる代わりに、税を取るだけで良いから楽チン。海運と交易を生業とする船乗り商人軍団は、頭もキレるし腕っぷしも強い。江戸とも大阪とも精通してる商人らに松前は牛耳られたようなもの。それどころか、この商人らは未開の厚岸(アッケシ)だの国後(クナシリ)だのと、蝦夷地を骨の髄までしゃぶる魂胆である。


↑ 私も近江商人の末裔だけども、これは引くわ〜。。



● しかも同時にロシアも南下してくる

ロシアもラッコやアザラシの毛皮を求めてどんどん南下。現代の北方領土問題で揺れる島で台頭し「この島って元々は誰のものなんだっけ?」状態な感じにカオスってく。和人とロシアに挟まれたるはアイヌの方々。しかも結束力弱し。ちっちゃい抵抗はするものの、相手が数枚上手で結局泣かされる民族たち。それを見て「つかロシア南下ヤバくね?」と、日本の国防的に危機感を抱き始める有識者がちらほら生まれる。


↑ アイヌ、カワイソス。。けど賢い人らに気づいてもらえたよ!



● 工藤平助が『赤蝦夷風説考』をリリース

松前藩は、自分らの蝦夷地での利権確保のためロシアとの接触を隠していた。しかし実際は厚岸などにロシア船が来航し、交易開始をねだっている情報を工藤平助がキャッチ。平助は「いやいやいや! それって侵略の前兆じゃんかよ!」と驚き、田沼意次に蝦夷地に目を向けるべしと直談判。意次は「マジか、んじゃさ、とりあえずそれ本にしてムーブメントにしてよ、そしたら議題に取り上げやすいから」と出版を促す。そして出来たのが『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』である。


↑ 意次さんにも立場があるからね。



● 幕府主導で探索隊が派遣される

さあ、いよいよ幕府が蝦夷地の本格調査に乗り出しました。目的は、蝦夷地の幕府直轄と、ロシア南下対策。ひいては蝦夷での開港と、日本の開国計画、というオッキーの壮大な夢の実現のため。でもそれって、松前藩にとっては既得権益の侵害に他ならないわけで面白くない。から、逆らわないけど微妙に足引っ張って邪魔する。近江商人らも面白くない。から、邪魔する。おかげで調査隊は苦労する。


↑ 調査隊めっちゃアウェーで、気の毒。



● だけど負けない最上徳内(もがみとくない)という偉人

調査隊のひとり、最上徳内は、頭が相当キレた。だけでなく体も強靭、性格も優しくてアイヌの心を掴んで、役立たずな松前藩を無視してどんどん調査を進めてゆき、松前藩から危険人物として警戒されつつも、見事に役目をこなして江戸へ帰還。調査結果をまとめた『蝦夷草紙』で、幕府に蝦夷地の重要性を訴える。


↑ 平賀源内の弟子の青島俊蔵(あおしましゅんぞう)って相棒も一緒。



● なのに田沼意次が失脚しちゃって頓挫

そこへ来て、暗殺を含むクーデターにより田沼意次がまさかの失脚。次の老中首座「松平定信」は、意次が進めてたプロジェクトは悉く中止にしてゆく。そのせいで蝦夷地開拓計画もストップ。松前藩や商人らは「やったぜイエーイ!」で、アイヌらとしては「がっくりショボーン」である。おかげで和人とロシアの両方から虐げられる「元の木阿弥」状態に。


↑ 徳内と青島はお役御免に。なんなんだよ死ぬ思いで調べたのに〜!ですわな。



● 1789クナシリ・メナシの戦いが勃発

和人の中でもクナシリを請け負った商人「飛騨屋」によるアイヌへの横暴は苛烈を極め、男を殺害したり女を暴行したり長老まで殺されて、さすがにブチ切れたアイヌ勢。飛騨屋関係者など71人の和人を殺害。飛騨屋は責任を問われて場所請負人の権利を剥奪され、アイヌ側の首謀者37人が処刑されて事件は収束。以後、虐待は防止されるようになるが、その半面、アイヌは幕府の経済体制に完全に組み入れらたことになる。


↑ プライドを賭けた最後の抵抗だったのかな。



● 1792 大黒屋光太夫とラスクマンが根室来航

ロシアに漂流した船乗り達が10年以上かけて日本に帰還する胸熱実話。しかも当時のロシア女帝に謁見して帰国の道を得るまで、とんでもない苦労とサバイバルを乗り越える話なんだから、ハリウッド映画化されても良いレベルのネタなのに普通に知られていない。ここでの幕府の対応次第で、北方領土問題はこじれずに済んだ可能性が高い。のに、史実はここでラスクマン光大夫の強いコネを活用せず、ロシアとの国交問題を棚上げ(貿易したいなら長崎に行ってチョンマゲ!と)した。ロシアのみならず世界との外交開始のチャンスを見送ったツケは、やがて幕末にきっちり支払わされることになる。


↑ この時のキーマンが、松平定信じゃなくて田沼意次だったらなあ。。



● 1804 レザノフが長崎に来航

「むっちゃ遠かったけど長崎まで来たぜ、漂流民も連れてな。さあ貿易しよか」と、レザノフ。なのに半年上陸させずに散々待たせといたあげく結局、通商も拒絶の日本。レザノフ激おこぷんぷん丸で帰って「武力で脅すしかねっすよあいつら!」と皇帝に提言。部下のフヴォストフにも「ちょっと一回あいつらシメて来い!」と命令する。


↑ 半年も幽閉同然で扱われたら、そりゃレザノフも怒るよ。



● 1806 フヴォストフの襲撃

フヴォストフは択捉島や樺太、利尻島を襲撃し、アイヌの子供らを拉致したほか略奪や放火などを行った。圧倒的な火力の差に日本側は苦戦し、持ち場を捨て撤退することを決意。日本側が引き揚げた紗那幕府会所にロシア兵が上陸。倉庫を破り米、酒、雑貨、武器、金屏風その他を略奪した後放火する。しかし、これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍に撤退を命令した。

だが、幕府はフヴォストフの襲撃を受けて奥羽諸藩に出兵を命じ、蝦夷地沿岸の警備を強化するとともに、1807年12月に「ロシア船は厳重に打払い、近づいた者は逮捕、もしくは切り捨て、漂着船はその場で監視する!」という「ロシア船打払令」を出した。


↑ ほらー、こじれてきちゃったじゃんかー。



● 1811 ゴローニン事件

そんな中、ロシアの軍艦に乗って千島列島の測量をするためゴローニンが国後島に上陸。水や食糧を補給するため国後島に着港することに。当時の国後島は、国境の曖昧なロシアと日本の緩衝地帯。ゴローニンは日本人に「ロシアの軍艦だけど、国後島に上陸してOK?」と確認した上で国後島に上陸。しかし、確認したにもかかわらず、ゴローニンは警備兵によって捕まり、監禁されてしまう。「えっ、なんで捕まるの!? ちゃんと確認もとったし、補給が済んだらすぐに国後島を離れる予定だったのに。ちょっとひどくない?」のゴローニン。「フヴォストフが北方で暴れておきながら軍艦でやってきて信用できるわけないだろ!」の日本。


↑ ゴローニンには気の毒だけど、まあ、そうなるわなあw



● ゴローニン救出計画

ゴローニンの拿捕を知った副艦長のリコルドは、ゴローニン救出計画を練る。当初は「松前藩の護送船を砲撃でぶっ壊すか?」という案もあったたが、ゴローニンに被害が及ぶ可能性もあるため廃案に。ロシアから軍隊を派遣しようにも、当時ロシアは、ヨーロッパ方面でナポレオン率いるフランスと戦争中だったのでこれも無理。そこでリコルドは、ロシアで保護している日本の漂流民や捕虜を使って、ゴローニンとの交換交渉をすることに。ところが、江戸幕府の役人は「漂流民・捕虜は返してもらうよ。ありがと。でも、ゴローニンは処刑されたから返すのは無理。諦めて帰ってくれ」と言う。リコルドは役人の言っていることが本当なのかどうか探るため、国後島付近を航海していた高田屋嘉兵衛の船を拿捕。高田屋嘉兵衛の一行をカムチャッカ半島に連行して、ゴローニンのことや日本の国内事情について色々と聞き出す。


↑ ゴローニンの大事にされてる具合にロシアの愛を感じる。



● 高田屋嘉兵衛の神対応が窮地を凌ぐ

すると、高田屋嘉兵衛は「リコルド安心して。ゴローニンはまだ生きてるよ。日本はフヴォストフによる攻撃を強く恨んでる。だからゴローニンは捕まったんだ。ゴローニンを救いたいのなら、まずはフヴォストフの件について謝罪の文書を幕府に送ると良いだろうね」とアドバイス。それを受け、リコルドは「蝦夷地を襲撃したのはフヴォストフが勝手にやったことで、ロシアには攻撃する意図はなかった。申し訳ない」って内容の謝罪文を提出。これが効果バツグンで、こうしてゴローニンは釈放され、ロシアへと帰ることができた


実はリコルドが謝罪文を携えてて日本にやってくる前から、幕府内では「事態を大きくしたらマズいから、ロシアから謝罪文をもらって平和に解決しよう!」という話が進んでいた。なので、高田屋嘉兵衛のアドバイスは、幕府の真意を見抜いた完璧パーフェクトな最高のアドバイスだったことになる。捕まったのが高田屋嘉兵衛でなかったら、日本の歴史は大きく変わっていただろう。これこそまさに神対応。


↑ 高田屋嘉兵衛ようやった!



● 蝦夷地調査、ついにゴールへ

最上徳内から始まった蝦夷地調査は、間宮林蔵によって樺太が半島ではなく島だったことの発見と、伊能忠敬の偉業が合体し、ついに完全なる日本地図『伊能図』が完成する(この時代、この地域だけが世界地図で謎のエリアとして正確な実態が解明されていなかっただけに、それを明らかにした功績は大きく「間宮海峡」と命名される)。そしてその世界最先端の情報が含まれた『伊能図』をめぐり、のちに有名な「シーボルト事件」が起きることになるのだが、けれどもこれは別の物語。いつかまた別の時に話すことにしよう。(← 名作『はてしない物語』の言い回し)


と言っておきならがら話さないのが、ミヒャエルエンデの憎いところ。なので私もおそらく話さないでしょうw



いやー、疲れました。これらについて調べてる時期が2月で、東京でも雪が降ったりして、想像力が高まって凍死する思いを擬似体験させられましたわ。できれば夏に調べたかった。。


しかしそれにしても、アイヌの人らは気の毒な環境ですね。しかも今まさにアイヌ語が消滅の危機なんですって。まあ言語まで学ぶのはハードル高いですが、せめて ↑ こんくらいの歴史観は世間に浸透させてあげたいものだす。


そーゆー意味では『ゴールデンカムイ』が、アイヌの歴史に興味を持つきっかけとして役立ってるらしいですな。未読なので読んでみよっと。


ちなみに今回は ↓ こんな漫画も入手して読みました。大黒屋光太夫がどう見てもゴルゴでしたw 


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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