vol.44「江戸の食」について③

このところ暗くて辛い話が続きましたんで、またブレイクタイムとして食文化ネタでも挟みましょう。

「あ〜あ、オッキー死んじゃったぁ〜、一橋治済と松平定信のばっきゃろーっ! こんな嫌な気持ちは旨い酒と飯で紛らわさなきゃやってらんね〜ってんだよっ、だから親父、もう一杯!!」ですよ(泣)


いつの時代もそんな酔っ払いの需要はありまして。その受け皿が「居酒屋」であり「屋台」であります。まあ、すべての客がこんな酔っ払いばかりじゃないですけどね。でも、とりあえず手っ取り早く空腹を満たすんなら、屋台なんかはもってこいなわけで。安く手軽に旨いもんを食って、ついでに下り酒の熱燗をキュッとやれたら言うことなしでさぁ。




< 屋台だらけになる江戸 >


てことで、いろんな種類の屋台が江戸には出現してきます。中でも、そば屋の屋台は夜でもやってて「夜鷹そば」なんて呼ばれます。夜鷹とはいわゆる立ちんぼ売春婦のことで。その夜鷹が仕事の合間に食うから「夜鷹そば」って、えらい裏社会的なネーミングになっちまいます。あるいは、お代が16文だから二八そば」なんて呼ばれ、有名な『時そば』って落語も生まれたりなんかして。ともあれ、夜に空いた小腹には便利でありがたい営業形態なわけですよ。今で言う〆のラーメンみたいな位置付けか何かでしょうか。知らんけど。


と、その一方、昼は昼で天ぷらの屋台が現れ、田沼意次が開発した中洲エリア(隅田川と箱崎川の分岐点)にて繁栄してまいります。胡麻油で揚げた串刺しの天ぷらが並べられ、大きな皿に大根おろしがうず高く盛られましてね。食欲をそそる美味そうな匂いが漂ってくるでやんすよ。それが四文銭一枚のワンコインで一串から食べられるってんだから、そりゃ武士から使い走りの小僧まで、老若男女みんな買い食いせずにはいられませんぜな。まさにファストフードの元祖ってワケでさぁ


天ぷら屋台の前に人だかりができるってーと、移動式のそば屋がするするするっと寄ってきて、いつの間にやら隣で商いを始めます。「おっ、そばも食いたいし、天ぷらも食いたいね〜」と隣で買った天ぷらをそばに乗っけて食べたらアラ不思議! 天ぷらそばの誕生ってわけでさぁ。結ばれるべくして結ばれた運命の出逢いと言うか、抗うことのできない自然界の摂理と言うか、もはやそれは宇宙意志と言うか。ま、とにかく大人気になりますわな。


んで、満を持していよいよ握り寿司の登場です。それまで箱に入った押し寿司をテイクアウトして家や別の場所で食べるのが主流だったのに対し、握り寿司はその場でパクッと食べれる手軽さが大当たり。安くて早くて旨い、これがせっかちな江戸っ子にはドンピシャで。それに、寿司を握るあの独特の手つきが妖術みたいで、パフォーマンスとしても物珍しいからバカウケですわ。ちなみに、その屋台が繁盛店かどうかは「のれん」の汚れ具合を見れば分かりましてね。客はその場でお寿司を食べて、汚れた手を屋台の「のれん」で拭いてくもんだから「繁盛店=のれんが汚い」ってわけ。衛星的にはアレですがね。


他にも屋台には色々ありまして。歌川広重が描いた『東都名所 高輪廿六夜待遊興之図』では、月見の名所に屋台が立ち並び、人々が賑わう様子が見てとれます。「廿六夜」とは、なんでも阿弥陀仏が観音菩薩と勢至菩薩をひきつれて光の中に現れ、これを拝むと願い事が叶ってしまうありがたい月のことなんだとか。けど、この月、顔を出すのが深夜1時や2時くらいだってんで、いつしか月よりかそれを待つ時間のほうが行事のメインとなって、呑めや歌えの大騒ぎをしているうちにすっかり「祭りごと」となっちまったんですとww 夏フェスですよ、夏フェス。



< 居酒屋も昼間から大繁盛 >


寛政年間(1789~1800)ごろから、酒も飲ませる煮売酒屋が登場しやす。煮売屋は、現在のそうざい屋のようなものでしょかね。やがて食事を出すのが専門であった飯屋でも酒を出すようになり、酒の提供店では縄でできた暖簾を入り口のところに掲げることから、居酒屋のことを「縄のれん」と呼ぶように。文化8年(1811)には、江戸になんと1808軒の居酒屋が存在しており、居酒屋は飲食業をリードするまでに発展。ほら『みをつくし料理帖』とか、あの世界観ですわ。なんせ江戸には自炊しない独身男が多くってね。自炊が面倒だったんでなくて、自炊してたら薪代がバカになんないからなんですわ。


ちなみに、つまみとなる料理のメニューはこんな感じ。↓


田楽

「味噌田楽」は、豆腐に串を刺してお味噌を塗った後に焼いた料理のこと。安くて、旨くて、酒を飲みながら片手で食べられるのが人気の理由ですな。


湯豆腐

寒い日は湯豆腐に限りますわ。つけ汁は醤油と花がつお、薬味には刻み葱、大根おろし、粉唐辛子、浅草海苔、紅葉おろしなど。


茹でダコ

タコは江戸時代には好まれてよく食されていて、居酒屋でも店頭に吊り下げられるなどして看板の役目まで果たしてたんだそうな。


芋の煮ころばし

里芋を転がしながら汁がなくなるまで煮詰めたもの。やがて、これを売り物にした居酒屋が現われ「芋酒屋」の名が生まれやす。鉄板メニューですわね。


どじょう汁

どんぶり飯にどじょうの入りの汁をかけた「どじょう汁」は、江戸っ子たちがさらさらっと食べるにはもってこい。精もつくしガテン系には欠かせない食材。鰻は高いしね。


ふぐ汁

ふぐには毒があるため、幕府は武士がふぐを食べることを厳しく禁じていたが、庶民は例外。あたったら怖いとは分かっていても、食べずにいられないほど旨いんで、こっそり食べる裏メニューだったとか。


おでん

豆腐田楽がルーツで「おでん」という名前も、この「田楽」から。豆腐田楽が登場したあと、こんにゃくに串を刺してみそをつける「こんにゃく田楽」も登場し、その後は串に刺したこんにゃくを煮た料理などが登場。その後、醤油の醸造が盛んになるにつれ、煮込み料理としての「おでん」に発展していったんと。


ねぎま鍋

江戸時代には下魚(げざかな:安い魚)として見られていたマグロ。その理由は、脂の多いトロなどの部位が江戸っ子の口に合わなかったのと、腐りやすかった点。そのマグロを美味しく食べるために考案されたのが「ねぎま鍋」で。江戸っ子の愛した濃口醤油と合わせ、さらに当時の居酒屋の人気調理法であった小鍋仕立てにすることで、広く愛されるように。濃口醤油と濃厚なマグロの味わいと、熱めにつけた燗酒は最高の相性。熱々のマグロとカツオの出汁が、口の中でお酒と一緒になると、思わずハーっと大きな溜息が出る旨さ。

マグロの刺身

江戸近海でもたくさんマグロが捕れた江戸時代、安くておいしいマグロは“庶民の魚”として人気で、煮たり焼いたり刺身にしたりして食べられてました。特に「刺身屋」という刺身専門店までできるほどマグロの刺身が大好きだった江戸っ子たち。居酒屋でマグロの刺身がメニューに登場するようになったのは自然な流れで、江戸時代後期にはマグロの刺身も居酒屋の定番メニューになりました、とさ。

https://youtu.be/zPsCMogRc9A?si=H1b36bKcnnN94ve4



< 茶漬け屋と茶飯売りと稲荷寿司 >


居酒屋以外にも、お茶漬けを主として簡単な料理などを出す「茶漬屋」という店もありまして。手軽に早く食事ができるってんで、庶民の間で広く親しまれやした。茶漬けに乗せる具材は、梅干や漬物、山葵、昆布や貝、佃煮、塩ざけ、干物など様々。具材だけでなく水にもこだわった本格料理として、豪華なお茶漬けを出す店まで現れます。「天ぷら茶漬け」なんかも、そのあたりで発明されたようでがす。と言っても、お茶漬け一本で商売していた店はほぼ無く、茶飯、豆腐汁、煮染や煮豆なども出した上で、締めの一杯として提供されてたんで、なんだかんだ高くつきます。だんだん高級志向の料理茶屋化してくる兆しであります


そんな高級化路線の一方で、安くて便利で庶民の味方なのが「棒手振り」と呼ばれる売り歩き。棒手振りとは、天秤棒に商品を振り分けて担いで移動する行商人で、その商いは多種多様。元々は野菜や魚、貝類、豆腐や納豆、みそ・しょうゆ・塩などの調味料、のり、漬物など食材を売る商売が、次第に惣菜、飲み物などの加工品も手がけるようになり、買ったその場で食べたいとの需要に応え、焜炉に火を入れて持ち運び、焼いたり温めたりして食事を提供するようになりまして。


そのひとつが、しょうゆ飯や、あんかけ豆腐、けんちん汁などの食事そのものを売る「茶飯売り」。お茶と同じように色がつき、味もついて手間がかからないので広まったんでしょうね。当時のご飯料理には、いろいろな具をのせて、汁をかけて食べるスタイルのものが多くみられ、当時は、ご飯を保温することができなかったんで、温かい汁を冷えたご飯にかけて食べまして。短気な江戸っ子には素早くかき込む事のできる汁かけ飯がウケるワケです。江戸の町では、夜になると「茶飯と餡かけ豆腐」を籠に入れて、売り歩く者がいて、夜食の定番になっとりました。


天明の大飢饉のおり、油揚げの中に飯のかわりに「おから」をつめて屋台で売ったのが始まりと言われる「稲荷寿司」は、魚を使っていないから極めて安くて大人気になり。暮れから夜にかけて往来のはげしい辻々で商われました。油揚の片側を切りさき袋にしてキノコ・干瓢等を混ぜた酢飯を詰めるというから、今日と製法は大きく異ならない。名前の由来も「狐が油揚げを好む」という話を踏まえて「稲荷鮨」ってのも、ご想像の通り。夜中に売り歩かれる最も安価な寿司でありました。



こんな感じで、ともかく庶民を中心に食文化がどんどん開花してくる今日この頃。この先、さらに日本食の確立へ向けて大進化を遂げるわけですが、それは「化政文化」と呼ばれる時代が来てからのこと。その時代を迎えるためには、とりあえず堅っ苦しい松平定信の寛政の改革を終わりにさせなきゃですね。


合言葉は「もとの田沼の濁り恋しき〜!」でやんす。

これを唱えると松平定信が失脚するらしいですよ

毎日唱えましょう。

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。