vol.45「松平定信」について


すっかり田沼意次びいきとなった私にとって、この松平定信(さだのぶ)という男は、いくら一橋治済(はるさだ)に操られていたとは言え『ダイ・ハード』のジョン・マクレーン並みに「間違ったタイミングに間違った場所でしゃしゃり出て邪魔しやがる超めんどくせー奴!」でしかない。バイキンマンで言うなら「出たな、おジャマ虫!」である。


間違った正義を振りかざすヤツほど、始末の悪いものはない。そんな奴が、なぜにこうも完璧なタイミング(意次の弱り時)で登場すっかね? もそっと生まれた時期がズレていれば、一橋治済の駒には成り得なかっただろうに。この駒さえなければ、一橋治済の野望も詰めが不完全で大成しなかったのに。この脚本、シェイクスピアが書いたの?ってくらい見事な悲劇である。


そもそも「清廉潔白・完璧主義」という性格がもうイケ好かん。8th吉宗の真似をしたかったんだろうけど、じっちゃんは民や部下の性質をよぉ理解してて、無理強いはせぇへんかったんで。厳しくやり過ぎずに、うま〜く導く度量があったんや。せやけど、それに比べて何やアンタ。締め付け&締め付けで「もとの田沼の濁り恋しき」って言われとるやんけ。


そんな奴にしゃしゃり出て来られたおかげで、日本を生まれ変わらせるはずだった田沼意次が失われ、ペリーやマッカーサーに苦渋を舐めさせられる日本を作ったんは、アンタや。アンタが中途半端なヒーローぶりさえ発揮しなければ、すべては違っとったんや。どないしてくれんねん、おうコラボケ。(エセ関西弁)


されど、定信にも、定信なりの理念とか信条とかがあったのだろうし、一応どうゆうつもりだったんか調べてみたる。みたるけども、それがもし薄っぺらくてしょーもない感じだったら、殺す。すでに死んでるけど殺すからな!(嫌いすぎて言ってる文句が自分でもよく分からなくなってまいりました)




● 「田沼病」という概念が存在した


田沼の経済政策が、商品&貨幣経済を刺激したため、賄賂など様々な不法な手段を使ってでも「利益の追求」に血眼になり「地道な暮らしより一発当てる」あるいは「あまり苦労しないで利益を得よう」とし、農村でも農業より商業、コメよりカネ、村より町、という風潮が強まった。これを松平定信は「田沼病」だとし「まさに本末転倒だ!」と、最も強く批判する。確かにそうかもしれない。


田沼が世間に広げた考え方は、幕府の基盤である貴穀賤金(金よりも米穀を重んじるべきとする)思想の逆を行くものであり、それによって農民が田畑を捨てて町で商売を一発当てに行ってしまうことを助長している。いくら既存の重農主義が、やがて破綻を迎えることが見えていても、その反作用、すなわち現状の破壊に抵抗する概念が生まれても仕方がない。田沼の描いた夢は、8th吉宗の考えを否定する日本の姿だったのだから。



● 血筋のプライドがややこしくした


田沼の新しい概念は、日本の未来に即していた。だが、悲しいかな田沼には、由緒正しき血筋のバックボーンが無かった。かたや、松平定信や一橋治済の属する「御三卿」は、正当なる8th吉宗の血筋である。その血筋のプライドを、田沼意次は強権により押さえつけた。正規将軍家である10th家治と、その嫡男家基を脅かす存在にしないためにである


それは老中として必要な仕事だった。だから、田安家で有能そうな定信から早い段階で権力を奪う行動もした。当然、定信から恨まれることになるが、承知の上だった。若き定信クンが、後にこの采配を「その立場だったら私もそうしただろう」くらいに思ってくれる聞き分けの良い子に育てば良かったのだが、現実はそっちパターンにならなかったのである。


● 一橋治済は一瞬、負けそうだった


次期将軍候補の家基を毒殺し、現将軍の家治までも毒殺することに成功した<スーパー黒幕テロリスト>の一橋治済であったが、田沼意次自身はみごと落とし穴に落として失脚させたものの、田沼派の結束力が強くて最後の決め手に欠けていた。その隙をついて、田沼意次が復権の兆しを見せ始める。長年培われた田沼の信頼と実績は絶大で、田沼派を打ち崩し切れなかったのだ。


これにより一橋治済は、真っ青になる。ここから田沼の逆襲によって、どれほど辛い仕返しを受けるのか。しかし、時勢は一橋治済の方に味方し、とっておきのアイデアと「モンスター駒」を治済に与えてしまう。


● 江戸の打ちこわし騒動が決め手に


田沼意次が「落とし穴攻撃」により穴の底で10回休みくらいのペナルティーを食らっている間、田沼派の老中首座として一橋治済の攻撃を跳ね返していたのが御側御用取次の「横田準松(のりとし)」だった。例え田沼を消したとしても、この男がいる限り、治済の野望は通らない。そこで治済は、トンデモナイ方法に出る。


江戸での大規模な米屋打ちこわしを主導したのである。つまりは「ヤラセ暴動」をプロデュースしたわけだ。かくして、江戸での大規模な打ちこわしは、奇妙なほど統制の取れた形で実行され、スケープゴート的な者が何人か処罰されるだけでスッと幕を引く。が、将軍お膝元での大暴動ゆえ、余波として横田準松も11th家斉の怒りを買い(おそらく治済の指示で)罷免となる。


●「天明の打ちこわし」が産んだ強権


一橋治済の策略により、御三家と御三卿のダブル推しを受けて、松平定信が、老中首座に異例のゴリ押し、前例なしの大抜擢、を果たす。だけでなく、11th将軍になった家斉がまだ若いことを理由に「将軍補佐」の肩書きまでをも手に入れる。これにて、これ以上ないくらいの「強権オブ強権」を手にした松平定信であるが、言うなれば、祭り上げられたマリオネット権力者だ。バックには御三家や御三卿(そしてそれを全て操る一橋治済)という決して逆らえぬ存在がいる。そんな真の黒幕たちから「さあ、舞台は整えてやったぞ。思う存分好きに踊ってみよ」と言われている。それはそれでエグいプレッシャーである。少し同情する。



● ストイック野郎の思わぬ副産物


田沼派を徹底的に排除するだけで定信は止まらなかった。クソ真面目野郎なだけに「田沼病」がもたらした世の中の空気まで変えることに信念を燃やす。彼の中で、それは幕府と武士の尊厳を取り戻すという聖なる戦いだったようだ。と言うのも、確かにここ最近の武士の置かれた状況は情けないものがある。どの藩も、商人に頭を下げて借金をしていて、カッコがつかない。


そのため「文武」の推奨をゴリゴリに復活した。要するに、利益ばかりを追求する商いの感覚から、つつましくも美しい武士の本来の姿、武士を中心に統率の取れた日本のあるべき姿、を取り戻したかったらしい。おかげで、「大田南畝(おおたなんぽ)」の傑作な狂歌が詠まれる。↓


『世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶと言うて寝てもいられず』


「蚊ほど」は「これほどの意」で「ぶんぶ」は「文武」とかかっている。寛政の改革の特徴と、それへの反発を茶化して表現した、まことに面白い狂歌である。さっそくカラ回ってるね〜定信クン。人望もないのに生徒会長になった奴みたい。けども、最高権力者のお達しだから、何だかんだで従いますよ日本人は。おかげで、武家の文武教育のみならず、町人世界にまで教育ブームが生まれてゆきます。まあ、副産物としては悪くないすね。




● 全国的な「囲籾(かこいもみ)」を推進


自分に権力をもたらした最大の要因は「天明の打ちこわし」であり、5日間に渡り江戸を無政府状態に追い込んで大きな政変をもたらした直接の原因は、大飢饉にあった。それゆえ、定信は再びの凶作に備えて「囲籾」という政策を重視する。しかし。喉元過ぎれば何とやらで、今までの凶作が嘘のように豊作となると、飢饉がもたらした危機的状況を皆が忘れてしまうことに、定信は苛立ちを覚えた。


そこで「三年分の蓄えも持ってなかったら、それは国とは呼べないってばよ!」と息まき、様々な障害を乗り越えて「江戸町会所」という「凶作を飢饉や打ちこわしに発展させない機能」を最終的に残すことに成功。これにより、民衆の生活をギリギリのところでは保証する仕組みを完成させた。つまりは、国民福祉の思想を芽生えさえたのである。、、ちょっと見直したぞ、定信。


● 嫌われながらも財政を回復させる


定信は「田沼病」のせいで乱れた風紀を正すために、洒落本(江戸で流行した小説の一種)や、黄表紙(田沼時代に流行した小説の一種)などを発禁処分に。また、朱子学を正学とする寛政異学の禁」を出して、蘭学者を公職追放した。さらに、大奥や朝廷にかかる経費の節約を図り、華やかな田沼時代を謳歌した江戸市中の人々に対しても、贅沢を厳しく取り締まる。


幕府の金蔵は「浅間山の噴火」や「天明の大飢饉」や「記録的大雨」の被害を受けて、81万両しか残っていなかった。そこへ「将軍家治の葬儀」が重なり、幕府財政は百万両の赤字が予想されるほど切迫していた。そのため、定信は即効性のある厳しい緊縮政策を実行し、財政再建に努めた。結果、幕府の赤字財政は黒字となり、定信失脚の頃には備蓄金も20万両程貯蓄することができた。


しかし、オニ厳しすぎる倹約令や、風俗統制令を頻発したために江戸が不景気になり、市民から強い反発を受けた。娯楽や自由を奪われた人々の不満は高まり、かの有名な


『白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき』


という狂歌が誕生。

理念は正しくとも、人々に理解されない苦悩を味わう定信。でも田沼意次だって、そうだったんやで。同じ孤独を味わうが良いわ。しかし、そう考えると定信も定信で、国を良くするために頑張ってたんだな、とも思う。そもそも、この緊縮政策は田沼意次がやってたやつを引き継いだだけらしいし。あれ? だんだん定信を見る目が変わってきたかも。



●「尊号事件」で朝廷とモメる


https://nihonsi-jiten.com/songou-ikken/

ややこしい話なので詳細は ↑ こちらご参照を。簡単に言うと「オレの父ちゃんにオレより偉い肩書きを与えてやってよ」の要望に「ダメったらダメ!」と融通の利かない定信が断固反対する、って話。嫌なタイミングで嫌すぎる案件を処理するハメになり、おかげで11th家斉とも険悪になる



●「ラクスマン交易要求」の対応に苦慮する


漂流した大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)を連れて、ロシアからラクスマンが根室に来航し、日本へ交易を要求。しかし、松平定信は「ひとまず漂流民お届けあざーす。でもウチ鎖国してるんで、長崎以外には来ないでほしーの。だし長崎への入港許可証あげるから、今回は帰ってチョンマゲ」と言って、とりあえずお引き取り願う。


要するに、交易したくないけど蝦夷地をこれ以上南下されるのも嫌だし、紛争になるのはもっと困るから、の苦肉の策。これがオッキーだったら、蝦夷地での開港に向けて上手に交渉しただろに。



● 結局わずか6年で解任される


1793年7月、定信は突然老中を解任されることとなり、寛政の改革はわずか6年で幕を閉じた。その背景として「尊号事件」などにより、11th家斉との対立、その他、大奥の予算の大幅削減や、不良女中を厳しく罰したことによる大奥との対立の深刻化などが挙げられる。また、あまりに厳しい緊縮政治の結果、武士や庶民の不満が高まっていたことも理由にある。


ほーらすぐ使い捨てされてら。

しかし、寛政の改革の政治方針は、定信が失脚した後も、後任の老中首座となった「松平信明(のぶあきら)」を初めとする「寛政の遺老」達によって引き継がれ、定信の政治路線は継承・発展していった。公金貸付政策は、改革末期の貸出高の約150万両から300万両と倍増し、出版規制も遺老の代の享和・文化期の方がより規制が厳しくなった。この寛政の改革を継承する政策は、1817年に松平信明が病没し「水野忠成(ただなり)」が新たな老中首座となるまで維持された




う〜む。調べてみると、こやつはこやつなりに一生懸命がんばってたようにも見える。し、朝廷との綱引きや、ロシア接近問題、幕府財政再建などなど、難題の多さが無理ゲーだった感もあって、気の毒にも思える。おジャマ虫呼ばわりしたのは少し言い過ぎだったようだ。すまぬ。許されよ。


ただ、アンタがもし田沼政治にそこまでのアンチとならず、オッキーが描いた今後のビジョンや、その先見の明を理解してくれていたなら、双方の理念の良いところをミックスした素晴らしい結果が導けたのではなかろうか。そう思うだけに、よりアンタの頑固さが残念でならない。


実際、アンタがモメた「尊号事件」がやがて後に「尊王思想」になって幕府を滅ぼすし、ロシアとの国交を拒否り「断固鎖国」の考えが「異国船打払令」となって日本の孤立を深めるし、「蝦夷地開拓プロジェクト中止」がアイヌ蹂躙とロシアとの「北方領土問題」へと続くわけで。アンタがたった6年でオッキーの明るい未来像を消し去り、代わりにもたらした負の遺産はとてつもなくデカい。デカすぎるのよ。。


ああダメだ。精一杯アンタに寄り添ってみようと頑張ってみたけど、やっぱりどうしても好きになれない。申し訳ないが「居ないほう方がマシだった人認定」の解除ならず、で。


田沼恋しき〜! オッキーを返して〜!

(。´Д⊂) ウワァァァン!!

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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