vol.70『十五万両の代償』を読んで


以前、11th家斉については書きましたが、こちらの本を読みまして、まだ触れていない要素を見つけましてん。それは何かと申しますれば、言うなれば「華やかな化政文化の功罪」の「」の部分。つまりは「天下泰平の代償」について、です。


1818年に、水野忠成が老中になってから改鋳を行い、それまでの質素倹約を脱ぎ捨てて栄華を極めた家斉時代。と同時に、その裏では密かに幕末の徳川政権崩壊の芽が着実に育ち始めていたのである。何でしょね〜、気になりますね〜。




⚫︎ 念願成就と薩摩の罠


水野忠成を老中首座に据え、改鋳で財政もウハウハ、大きな災害も騒動も嘘のようにピタッとおさまり、まさに毎日が順風満帆なビッグダディ家斉。であったが、実はひとつ気掛かりなことが。クーデターまがいの策略で見事に自分を将軍の座に据えさせてくれた父親、一橋治済(はるさだ)の地位問題である。


グランパ治済は、家斉の父なので「大御所」の地位に就きたがったが、家斉を将軍にするため10th家治の養子にしたわけだから「大御所」となることは松平定信にダメと言われ、ただの御三卿の一角でしかなかった。しかし杓子定規モンスター松平定信も、その名残りの寛政の遺老らも、もういない。水野忠成なら何とかしてくれるかも。これはチャーンス!


てことで、グランパ治済に「准大臣(じゅんだいじん)」の位を与えるよう朝廷に掛け合ってくれと水野忠成におねだり。そこで忠成は、朝廷に太いパイプを持つ薩摩藩にその交渉を頼むことに。家斉の正室はもともと薩摩の姫であり、夫の父親孝行を援護するテイだから、一応コネも道理もあるわけで。薩摩藩もなかなか無下には断れまいって作戦である。


難しいことを頼まれちゃった薩摩藩は、そのころ借金地獄に苦しんでいた。どう頑張っても武士は儲からない時代である。そこで、頼まれごとと引き換えに、ある取引を申し出る。


江戸時代、貿易は長崎にのみ許されていた。長崎奉行が支配し、地役人が運営する日本で唯一の貿易機関「長崎会所」が中国とオランダを相手に貿易をおこなっていた。ただ、オランダ相手の貿易は銅以外に日本側にこれといった輸出品がなかったため、規模もしれていたし、赤字が続いていた。一方の、中国相手の貿易は日本側に海産物(俵物・諸色)という輸出品が豊富にあったから活発におこなわれ、かなりの利益を挙げていた。おもな輸入品は薬種だ。要はこの貿易に割り込ませていただきたいというのが薩摩の要望だ


「もちろん売上高の二割と、若干の諸経費も長崎会所に納めます。かわりに人気薬種の大黄や甘草など十品目の販売を認めてください。また、薩摩は長崎に屋敷を所持しております。いちいち会所へ運んで販売するのは面倒です。長崎屋敷での販売を認めてください


これには罠が仕掛けてあった。

長崎会所を通じての販売だと「販売は1720貫が限度ですぞ」と会所がチェックできる。薩摩の長崎屋敷での販売だと誰もチェックできない。二割の344貫(約5700両)を払いさえすれば、無制限に販売できる。制限額は定められているがザルという罠だ。


この罠に水野忠成は気づかず「例の件を実現してくれるなら聞き届けよう」と認可した。薩摩に与えたこれら優遇措置により、のちに幕府の利益を驚くほど食われてしまうことになろうとは、まだ誰も予想だにしなかった。


グランパ治済の「准大臣ゲットだぜ!作戦」が成功したので、調子に乗って今度は家斉自身が「太政大臣」になりたいと言い出した。早速また同じ薩摩経由のルートで朝廷へと依頼が届く。朝廷はもう、毒を食らわば皿までの心境である。承知しましたと回答した。ただこのときもまた、薩摩は水野に迫って有利な条件を勝ち取った。薩摩の長崎での貿易の上納金は二割の344貫(約5700両)だったが、それを240貫(約4000両)に減額させたのだ。


かくして、引き換えに家斉は現職の征夷大将軍のままにして、最高位の官職である太政大臣になることができた。日本史上たった1人だけの栄誉である。まさにグランパ治済とビッグダディ家斉、ふたりの念願成就の瞬間であった。




⚫︎ 薩摩にパイを奪われる長崎


長崎会所が利益を出せる貿易相手は中国である。一方の、薩摩は琉球経由で中国から唐物を仕入れていた。それで、薩摩は水野(幕府)の許可を得て、長崎の薩摩屋敷で唐物の販売を認められることになった。


当時の貿易は物々交換のようなもので、輸入するにはそれに見合う輸出品がなければならず、長崎会所は中国料理の原料となる海産物を主要輸出品としていた。薩摩はどうかというと、これという輸出品を持っていなかった。すると、長崎会所とおなじように海産物にたよるしかないのだが、輸出用の海産物の買い入れは長崎会所が独占していた。薩摩は海産物に手を出してはならないと釘を刺されてもいた。


薩摩はとぼけた。海産物の生産地は松前家が支配する蝦夷で、北前船の行き交っている西廻り航路、日本海側の航路をとって海産物は運ばれてくる。このころ薩摩は、民間の海運業をも育てつつあり、日本海沿岸へ、ときには蝦夷まで船を送って、海産物、おもに昆布を仕入れた(ちなみに沖縄に昆布文化が生まれたのはこのことに起因する)。


いうならこれは違法行為である。しかし違法でもなんでも、海産物を仕入れなければ貿易は維持できない。薩摩は違法行為と承知していながら、なかば公然と割り込んでいった。その分長崎会所に送られてくる海産物は減る。したがって貿易量(額)も減る。それを横目に、薩摩は割り込んで仕入れた海産物を琉球経由で中国に送って、代わりに唐物を仕入れ、長崎に送って売り捌きはじめた。それも大量にだ。


会所にとって都合の悪いことに、薩摩が売り捌くもののほうが品質がよかった。自然と相場の足を引っ張られる。それでいて固定経費は変わらない。利益は大幅にダウンして、大赤字になった。確かにきっかけは家斉の太政大臣就任のためなどで、水野忠成に私利私欲や悪意はなかった。だが、結果は薩摩に長崎会所の利益を齧られ、長崎会所の慢性的な赤字化を招いたのであった




⚫︎ 高すぎた代償


水野忠成は、長崎で自分が仕出かした不始末に気づいていたが、とうとう一言も言いおかずにあの世に逝った。その後、薩摩は唐物16品目の長崎屋敷での販売の、向こう10年の延長を願った。 長崎会所は薩摩の割り込みによって天保4年に銀10000貫(約16600両)の赤字を出し、この年5年も大赤字を出しそうな気配で、水野忠成はそのことを苦に病んで死期を早めたと言えなくもない。


が、後任の松平康任は勝手掛になったばかり。もとより水野から事務引き継ぎなど受けていないし、長崎のことなど何ひとつ知らない。幕府は先例さえあれば何事も認めた。これまで認めていることをさらに認めるだけだ。そのことに問題などあろうはずがない。康任はそう考えて、薩摩の期限の延長をあっさり認めた。裏では薩摩のせいで長崎が大赤字になっているなど夢にも思わなかったのだから、仕方ない。


やがてそれから問題が明るみになり、家斉はこの恐ろしい現実を知らされることになる。


「してみると、なにか?」

 家斉は膝を乗りだして家臣に聞く。

「放っておくとこれから10年、公儀は何万両という長崎の不勘定を埋め続けなければならぬのか?」

「そういうことになりますな」

「、、マジか」

「マジです」


水野忠成の働きで、自分は太政大臣に、実父は准大臣になったと喜んでいたら、なんと10万両もかかり、天保7年も締めてみると5万両もの赤字を計上していた。合計15万両。赤字の記録はこの天保7年で途絶えているが、天保8年も9年も赤字は続いただろうし、本当は15万両どころか軽く20万両は超えていたと思われる。これにはさすがの家斉も悔恨に打ちひしがれた。なんとも高い代償であった。


いや、むしろ20万両の代償だけならば「まだ安かった」と言うべきかもしれない。なぜなら、薩摩は借金地獄から息を吹き替えし、貿易によって外国の文化に触れ、この後メキメキと力を付けてくるわけで。そして幕末に何が起こるのかは周知のとおり。つまり治済と家斉は、近い将来、徳川幕府を転覆させることになる敵が産まれる土壌を作ったのだ




● もうひとつの時限爆弾、オン


准大臣にしてもらってご機嫌だったころのグランパ治済には、最後の野望が残っていた。ビッグダディ家斉のおかげで、孫らを御三家や御三卿にことごとく縁組みさせることができ、残すは水戸家のみ。この水戸の後継ぎとして、家斉の息子を養子に出すことができれば、すべての徳川家を一橋家の血で固められる。言うなれば一橋王朝の完成だ。何としても成し遂げたい。


なんでも水戸の後継ぎ「敬三郎」は、かなり性格に難があるらしく、当主に相応しくないと聞く。そこで、水戸藩へ「家斉の息子を養子にどうよ?」と打診させる。受けた水戸の当主は苦悩する。確かに敬三郎はありゃダメだ。アイツにゆずる気はない。けど、治済の打診は明らかに水戸の乗っ取り作戦だ。素直には聞けない。かと言って堂々と断るわけにもいかん。ぐむむ弱った。。


とかしてるうちに具合悪くなって倒れる水戸当主。遺書に「後継ぎは敬三郎で」と書き残してポックリ逝く。遺書が出てきた以上、家来は逆らえない。家来は幕府に「敬三郎君を嗣に立てます、お聞き届けいただきたい」と願った。正式に願われた以上、幕府としては、これ以上横槍を入れるわけにいかない。しぶしぶながら認めた。敬三郎は「徳川斉昭(なりあき)」と名を変え、水戸当主に納まった。ちなみにこの間にグランパ治済も高齢で死ぬ。


幕末の幕府の悲劇は実のところ、この鬼人「徳川斉昭(なりあき)」が水戸の当主に納まったことに始まる。のちに斉昭は、祖法の厳守、国体の護持、言い換えるなら攘夷鎖国、異国船を撃ち払い、鎖国体制を守り抜くことが正義であると豪語し、ペリーに敵意を剥き出しにする。しかも、ことあるごとに「朝廷の意を聞け、判断を仰げ」と言い、幕府の権威や力を弱めてしまい「尊皇攘夷運動の産みの親」となるのである。


斉昭のせいで、ペリーとの通商条約はこじれた。当初の通商条約では、とりあえず、横浜、長崎、箱館の三港が開港されることになっていた。開港すれば人や物の往来が活発になり、あれよあれよという間に開国に慣れる。条約に反対だの攘夷だのと言ってる暇はない。幕府という政治体制もあたふたと変貌しただろうが、野たれ死にするような結末を迎えることはなかった。幕府にとって、斉昭は獅子身中の虫。斉昭ほど幕府に仇をなした男はいない


↑ 徳川斉昭、こいつだこいつ。竹中直人のそっくりさんだ。



てなワケで。かなり面白い本でしたね。まるで幕末物語の前日譚を観ているような。例えば「どうしてシスが生まれ、ジェダイが滅びることになったのか」みたいな。あーこの例えは、分かる人にしか分からんかーw



参考
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000205531

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。