vol.71「江戸の賭」について

賭博の賭。賭け事の賭。

つまり江戸のギャンブル事情についてですね。

私は学生時代、UNOとか大貧民とかで友達に散々カモられまくった苦い経験から、大のギャンブル嫌いになりまして。麻雀もパチンコも宝くじにも手を出しておりませんし、掛け捨ての保険すら嫌厭しとるタイプであります。なので、元金が減るリスクがあるのに賭け事に興じる方々の神経が知れないと言うか、ギャンブルの醍醐味なるものを理解できておりませんゆえ、個人的には関心の薄いテーマです。

なんですけども、とある理由がありまして、しかたなく取り上げてみることに。(あくまでしかたなくなので、ほぼ「江戸ガイド」様からの転載であります。)ま、その理由とは記事後半にて。



⚫︎ 古代から大ブームとなった双六

日本における賭博の歴史は非常に長く、記録に残る最古の賭博は『日本書紀』にまでさかのぼるそう。この時やっていたのは双六(スゴロク)の一種らしい。689年(持統天皇3年)には持統天皇によって「双六禁止令」が出されていることから見ても、よほど悪影響があったんでしょうね。古代日本でも賭博に対する処罰はかなり厳しく行われていたみたいです。

ちなみにプレイ中のようすはこんな感じ。2人の若衆(美少年)がなにやらボードゲームをしとります。白・黒の駒を使っているので囲碁のようですが、囲碁ではなさそう。そう、これが「双六」なのですと。

現代人にもおなじみの双六を「絵双六」と呼ぶのに対し、こちらは「盤双六」と言いまして。現代では姿を消してしまいましたが、江戸時代まで「双六」といえばこちらの「盤双六」のことでした。「盤双六」は“世界最古のテーブルゲーム”のひとつといわれるバックギャモンに似たゲームで、飛鳥時代(奈良時代とも)に中国から日本に伝わったとか。


基本的な遊び方をざっくり説明するとーー

* 盤を挟んで2人が座る

* 盤上には白と黒それぞれ15個の石を置く

* プレイヤーはサイコロを振る

* 出た“目”だけ石を動かし、相手の陣地に先に全部の石を入れたほうが勝ち

となります。


「盤双六」ではサイコロの“目”が勝敗を大きく左右します。勝負のカギを「偶然」が握るとなれば、賭博にならないわけがない。盤双六とともに室内遊戯として人気を集めた将棋や囲碁が頭脳合戦として発達していったのに対し、ギャンブル性の高い盤双六は時代ごとの政権に禁止されながらも、時代とともに宮中から武家、さらには庶民にまで広がり、人々を夢中にさせました。


かの兼好法師もあの『徒然草』のなかで「囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重・五逆にもまされる悪事とぞ思ふ」(原文)というある僧侶の言葉を紹介しています。今風に超訳すると「囲碁・双六にうつつを抜かしている奴は殺人犯よりタチが悪い」という感じ? そんなに悪いのか! と思ってしまいますが、それほど双六には人を惑わす魔力があったのでしょう。



⚫︎ バクチの定番となったサイコロ賭博


時代が戦国時代に入っていくと、悠長に道具を広げて賭博を楽しむ余裕はなくなってくるわけで。でも、明日がどうなるかわからない不安な時だからこそ、なにもかもを忘れさせてくれる楽しみが欲しい!ってことで戦国時代以降、爆発的に人気を集まるようになったのが、サイコロ賭博であります。


盤双六では道具のひとつにすぎなかったサイコロが、それだけで独立してバクチの定番にまで上り詰めたのですからサイコロ大出世。戦場の陣中で楽しまれたサイコロ賭博は、単純なルールと短時間で勝負が決することがポイントで、そのわかりやすさから江戸時代に入ってもサイコロ賭博は武士、町人、農民などあらゆる層の博打好きを夢中にさせちゃいます。


サイコロ賭博にはさまざまなバリエーションの遊びがありましたが、代表的なものといえばアレ。ご存知「丁半賭博」。使うものは2つのサイコロとツボ。ルールは単純。


* ツボ振り役がサイコロ2つをツボに投げ入れ振る

* 盆に伏せます

* 参加者は、サイコロの出目の合計が偶数(丁)か奇数(半)になるかを予想

* 丁半どちらかに賭ける!!

と、いうもの。


丁半賭博は時代劇やヤクザ映画などでもよく見かけますが、ツボ振り役が上半身ハダカだったりするのは、「イカサマしてないよ!」というアピールなんだとか。

余談ですが、室町時代末期には、サイコロのなかに重りを入れてある目が出やすくするなどの工夫を施したイカサマサイコロが発明されていたんだとか。イカサマ賽の歴史は古い。

さて、サイコロ賭博のうち、ひとつのサイコロだけでできるものの代表が「チョボイチ」ってやつで。サイコロのどの目が出るかを予想するだけの超シンプルルール。胴元がサイコロを振り、予想が当たれば4〜5倍のバック、外れれば賭け金は没収されます。


また、ひとつのサイコロだけでやる博打として「大目小目(おおめこめ)」というのも人気があったそうな。これも単純なルールで、サイコロを振って出た目が「大目(4、5、6)」か「小目(1、2、3)」かを予想し、どちらかに賭けるというもの。


こうしてみると、すっごいわかりやすいルールなだけに中毒性もハンパなさそうです。どちらもイカサマし放題な気がしますけどねぇ。



⚫︎ 大奥女中たちも熱狂した「かるた賭博」


江戸時代「かるた」も賭博として大流行していたと聞くと、現代人にはいまいちピンとこない。「かるた」と言えば「いろはカルタ」や「小倉百人一首」のような女性や子どもが好きなカードゲーム、というイメージがありますしね。それらも江戸時代から人気だったそうですが、ギャンブルとしての「かるた」が江戸時代にはあったようで。


安土桃山時代、鉄砲やキリスト教などと一緒にポルトガル人によって日本にカードゲーム文化がやってきました。ちなみに「かるた」という言葉の語源は、カードゲームを意味するポルトガル語の「carta」なんだとか。


で、その後、海外から入ってきた「かるた」に日本独自のアレンジを加えた「うんすんカルタ」というものが誕生します。カードは5種類(聖杯・巴・貨幣・棍棒・剣)でそれぞれ15枚の計75枚。種類ごとに1〜9までの数札と七福神(うん)、唐人(すん)、龍などを描いた絵札があります。トランプに似てますね。


ルールは説明すると長くなるので省略しますが、この「うんすんカルタ」はあふれる南蛮趣味とゲームとしてのおもしろさから、まず上流階級で人気となり、その後、庶民に広まりました。大奥でもかるた賭博が密かに行われていたとかいないとか。双六同様、かるた賭博も幕府がなんども禁止令を出したのですが、当然、守られるわけもなく、熱狂しすぎた人々によってトラブルが起こることも多々あったそう。


そのトラブルの多さからか、教科書にも出てきた有名な「寛政の改革」でも、賭博用のかるたの製造と販売の一切を禁止するほど。これにより「うんすんカルタ」は表舞台から姿を消すのですが、「あー、かるた賭博やりたいぃぃ!!」という人々はあとを絶たず。そして、現代にも続く新たなカルタ賭博が誕生することになるのです。それがこちら ↓



⚫︎ 美しいデザインでヒットした「花札」


幕府の禁令から逃れるためにあれこれ工夫した努力の結晶が、この花札。当時、百人一首などの歌かるたは教育的にも良いものとして公許されていたため、禁制からの抜け道として一部のカス札に古歌を入れて歌かるたに偽装してみたところ、まあ、なんということでしょう。これまでの「うんすんカルタ」をイメージさせる南蛮趣味を一掃し、インテリジェンスあふれる花鳥風月をデザインした絵柄に劇的リニューアル。カードのサイズも従来の「うんすんカルタ」の1/4ほどとコンパクトに可愛らしく生まれ変わりました。


とはいえ、花札もやっぱりすぐに幕府から目をつけられ、幕末には禁止令が出されて、やがて販売も禁じられてしまうんですけどね。でも、明治時代に再び販売が許され、そこから波に乗った任天堂が、やがてあのSwitch・DS・Wiiを手がけることになるのはご存知のとおり。




⚫︎ 宝くじのルーツ「富くじ」

ギャンブルが下手クソという人でも気軽にやれる賭博が「宝くじ」ではないでしょうか。「1億円当たったら何に使おっかなぁ」という妄想は誰もが1度はしたことがあるに違いない。その「宝くじ」のルーツとも言えるのが江戸時代に誕生した「富くじ」であります。

賭博厳禁を標榜していた幕府ですが、富くじに限っては幕府公認で行われていました。いわゆる公営ギャンブルのはしりですな。けれど、誰でも富くじを行っていいわけではなく、幕府が許可した寺社に限定されました。「富くじの売り上げで寺社の修理費用をまかなう」という名目だったわけ。特に「江戸の三富」と呼ばれた谷中の感応寺(のち天王寺)、目黒不動、湯島天神の3カ所は“富くじのメッカ”として大勢の人々で、それはそれはにぎわったそうな。


参加者は、まず「富札」というクジを購入します。これには、抽選日や抽選番号、当選金額なんかが書かれています。抽選日当日、参加者は購入した富くじを握りしめ、開催場所である寺社に行きます。抽選番号が書かれた木札の入った箱が設置されており、興行主が手にしたキリを箱の穴から突き刺します。刺さった木札に書かれた番号が「アタリ」って流れ。


時代や場所によって当選金額は異なりますが、記録にある1等賞の最高金額は千両(8,000万から1億円くらい)とも。思ったよりけっこうすごい金額。これは人々が熱中するのもやむなしでしょう。でも、当選しても全額はもらえず3割ほどは手数料や寺社への奉納金などとして天引きされちゃうらしい。まるで所得税。


表のギャンブルがあれば、裏のギャンブルも必ず生まれるものでして。富くじは幕府公認ギャンブルだったが、その裏で「陰富(かげとみ)」という違法富くじも横行します。やがて手軽で配当率のよい陰富の人気が富くじを圧倒するようになり、富くじ人気は低迷。幕末には富くじ自体が全面的に幕府によって禁じられ、姿を消してしまうことに。




⚫︎ まだまだある! 江戸時代は賭博のデパート

子どもの遊びから賭博になったものもありました。たとえば「穴一(あないち)」というギャンブル。これまた意外なものを道具として使います。それがこれ。

って、お金じゃん。お金で遊んではいけません。ましてや賭博はいけません。されど、小銭を使った少額賭博は見つかってもそれほど厳罰にならなかったこと、時と場所を選ばないことなどから、江戸時代後期から幕末にかけてよく行われたそう。


で、「穴一」とはどんな賭博かというとルールはやっぱり単純明快。

* 地面に小銭が入るより“ちょっと”大きいくらいの穴を掘る

* 参加者は穴から少し離れた場所に立つ

* 交互に穴めがけて小銭を投げ入れる!

* 穴に入ったら勝ちで、入らなかった人の銭をもらえる


お正月には子どももお金(といっても一文銭)を使って穴一をしたそうですが、今なら社会問題まっしぐらです。ほかにもお金を使った賭博はいろいろあり、はじいたお金の表が出るか裏が出るかを賭ける「字かぬか」という賭博もあったんだとか。あれですね、コイントスに似てますね。


お次の「宝引(ほうびき)」も子どもに人気があったものの、賭博として目をつけられ幕府に何度も禁じられた遊びです。画像右、男性が細いひもをたくさん持っています。このなかの1本に橙(だいだい)が付いていて、それを引いたら大当たり。賞品としておもちゃやお菓子なんかがもらえました。お正月の風物詩として子どもたちにも大人気だった「宝引」ですが、参加料をとってアタリを引いた人が全額総取りするなど金品を賭けることもあり、江戸時代初期から幕府によって何度も禁じられたんだとか。(けど今でもお祭りの出店でまだ見かけますね)

「宝引」は特に女性に人気のギャンブルだったそうで、こちらの絵にも武家の奥女中たちが「宝引」に熱中するようすが描かれています。刺激が少ない奥奉公ですからねぇ。大目に見てほしいものですな。


さらに、「どっこいどっこい」というユニークなネーミングの賭博も、もとは子どもの遊びだったもの。これはいわゆるルーレットに似たギャンブルで、中心に竹ベラのついた円盤を回転させ、竹ベラの先がさしたところが「アタリ」。街頭で行われたそうですが、とにかくイカサマが多かったらしい。


ほかにも果物を使った賭博もありました。たとえば、柿のタネの数を予想し賭けたり、はたまたスイカの重さを予想して賭けたり……。とにかくどんなものでも賭けのネタになったようです。




⚫︎ 賭博のメイン舞台は寺院や武家屋敷


こんな風にいろんなものでいろんな賭博を楽しんでいた江戸時代の人々ですが、もちろん賭博は違法行為でした。賭博にハマれば働くなくなったり、人の道から外れたことに手を染めるようになったりしますからね。そのため、幕府は、開幕以来、何度も何度も「賭博、ダメ!絶対!!」とお触れを出したのですが、全然守られませんでした


ちなみにどんな刑罰が待っていたかというと、多いのが遠島。いわゆる「島流し」です。そのほか、江戸および近郊からの追放(江戸所払)だったり、100敲(たたき)の刑だったり、家財没収だったり、入墨(イレズミ)だったり。最悪の場合、死罪ということもありました。重い…。にもかかわらず止められないってをんだから、ギャンブルってばおそろしや。


重ねて述べますが、賭博は違法なわけですからおおっぴらにはできませんわな。では、賭場(とば)になったのはどんな場所か? これがまた予想の斜め上。なんと、寺社や武家屋敷、はたまた公家のお屋敷などが賭場として使われたのであります


じつは寺社や武家屋敷などは、賭博に目を光らせる町奉行の管轄外。つまり、政府の手が及ばぬ“「治外法権的なエリア」だったのです。寺社も武家屋敷も広大な敷地を要していたので、人目につきにくい場所もたくさんあったわけで。そこを利用してギャンブル好きの下っ端奉公人などが仲間を集めて賭博に興じる、なんてことが行われていたようです。


特に、この家斉の時代は享楽的なムードが蔓延しており、豪商と役人が賄賂で癒着するなど当たり前。それどころか互いに結託し合って不正賭博を主催、斡旋する有様で。役人の腐敗が最高潮に進んでいた時代でもありました。饅頭の下で小判が行き来し、まさに「お前も悪よのう」の世界。



さてさて、ここでようやく冒頭の、ある理由に立ち戻りますが、こうした腐敗政治の世に登場したのが次なる記事の主人公「大塩平八郎」であります。彼を語る上で、まずはこの不正賭博にまみれた現状をさらっとかないと、ってことがその理由でごぜえやした。


さあ次回は、不正を嫌い「大阪に大塩あり」とまで名を響かせた正義漢がいよいよ立ち上がりますぜ。はたして彼はこの腐り切ったゴッサムシティ、じゃなくて日の本ジャパンを救うことが出来るのか!? 乞うご期待!


ちなみに今回でこのブログも無事に1年継続を達成であります! よく頑張った私! 1年も続かないほうに賭けてた人らは残念でした〜w いえ〜いw


え、なになに? 勝った私に次は2年継続を賭けてダブルベットしますかって?

しませんよ。ギャンブル嫌いなので。



参考
https://edo-g.com/blog/2017/05/gambling.html

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。