vol.80「志士たちの前日譚」について


泰平の 眠りを覚ます 上喜撰
たった四杯で 夜も寝られず


さあ、ペリーが来てからの日本は大騒ぎ。しかも阿部正弘ッチが広く意見を募ったことで、諸大名だけでなく一般人までもが「どうする日本?」を考えるようになり、その中から後に有名になる人々が次々と行動を起こし始める。




⚫︎ 天然 突っ走り先生「吉田松陰」


長州藩に生まれ、幼い頃から秀才ぶりを発揮していた松蔭先生。日本の海防を強化するためには、西洋の技術や、広い知識を得る必要があると考え、全国行脚を決意。江幡という友人が東北へ兄の仇討ちのため旅立つと聞き、同行することにするが、出発日が近づいても長州藩からの許可がなかなか下りない。ので、脱藩して予定通り出発。


「だって江幡君の仇討ちのためなんだから日程ズラせないし、脱藩してきたよ!」

「お、、おぅ(でも脱藩って、、頭だいじょぶ?)」


とまあ、こんな熱血バカタイプなだけに、全国を巡ること九州から津軽まで、歩き回った距離は13000キロだとか。「やっぱ何事も自分の目と耳で見聞きするのが一番勉強になるなあ!」と帰って来たとこで、脱藩の罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受け、浪人となる


しかし、めげない松蔭先生。ペリー来航時には望遠鏡で黒船を観察したり、プチャーチン来航時にはロシア軍艦に乗り込もうとしたり(未遂だが)知的好奇心が止まらない。ついには、ペリー二度目の来航時、下田に停泊中の黒船へ、弟子の金子君と共に、無理やり小舟で乗り付けて、まんまと乗船に成功


「一緒にアメリカ連れてってください!

  僕たち世界を知りたいんです! なぁ金子君!!」

「はい先生!」

「乗ってきた小舟も流されました!

  もう帰れない! そうだよな金子君!!」

「はい先生!」

「帰ったら首を斬られてしまいます!

  斬られちゃうな金子君!!」

「はい先生!」

「だからこのまま密航するしか道はない! 

  ないよな金子君!!」

「はい先生!」


ペリー「、、、いや、せっかくの条約がこじれるんで、それはちょっと、、」


てなワケで陸に送り返され自首。伝馬町牢屋敷に投獄されるが、ペリー側から「あの命を顧みない好奇心と勇気は大したものデス(ある意味ね)」と褒められたおかげで、ギリ死刑は免れ、長州藩の野山獄へ移送され幽閉の身になる


さすがに懲りたかと思いきや「いえーい! 読書いっぱいできて幽閉楽しー! 読んだことみんなにも教えたい!!」と、1年600冊もの読書量で、大量に吸収した知識や自分の考えを他の囚人や見張りの役人にペラペラとしゃべり始める。そのうち、みなが先生の虜になって、牢屋を学校化させてしまう


野山獄を出てからは父の「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を受け継ぎ、のちに有名になる「久坂元帥」「高杉晋作」「伊藤博文」「山県有朋」などの才能を開花させてゆき、数々の偉人たちの産みの親となるのであった。だが、このままで終わらずに、別の意味で終わってゆくのが、突っ走り先生のスゴイところであるが、それはまた後の機会で。




⚫︎ 名前とは真逆の船酔い体質「勝海舟」


幼少時は、12th家慶の五男の遊び相手として、江戸城へ召されており、一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、五男が早世したためその望みは消える。そんなある日、野良犬に金玉を噛まれ死にかけたが「ここで死んだら犬死にぞ!」と父が枕元に刀を突き立てて応援?し、命を取り留め回復する。(けど以来、犬嫌いになる)


10代の頃から剣術家の「島田虎之助」に剣術と禅を学ぶと、師匠の代稽古を務めるほどに腕を上げ、「直心影流」の免許皆伝を許される。また、師匠の勧めで西洋兵学に志し、蘭学者「永井青崖(せいがい)」に弟子入りして、蘭学を勉強。この蘭学修行中に辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写した有名な話がある。1850年(嘉永3年)には、蘭学と兵法学の私塾「氷解塾」を開いている。


ペリー艦隊が来航し、阿部正弘ッチが意見書を募集したので、勝海舟も西洋式兵学校の設立と、幕府による正確な翻訳書刊行の必要性を含めた意見書を提出。これが阿部ッチの目に留まり、海軍士官養成のための教育機関「長崎海軍伝習所」へ入門。念願の役入りを果たす。


この先「島津斉彬」や「ジョン万次郎」や「福沢諭吉」らと知り合い、やがては「坂本龍馬」「木戸孝允」「西郷隆盛」らとも交流を持って、幕末のスター選手となってゆくのだが、今はまだ長崎の海で船酔いに苦しみまくっていた勝海舟であったとさ




⚫︎ 薩摩イノベーションCEO「島津斉彬」


志士とは言えないが「幕末の四賢公」の筆頭に数えられる斉彬の何がスゴイって、見よう見まねで何でも造っちゃうところである。薩摩に「集成館」という工場群を建てて、溶鉱炉や反射炉を作り、最新式の大砲から、西洋式の軍艦に、日本初の蒸気船まで、何でも自作でこさえてしまう


また、富国強兵に努め、優秀な人材を積極的に登用し、その際に「ジョン万次郎」「西郷隆盛」「大久保利通」らを発掘。そして、7年半という短い間に、薩摩藩を軍事大国へと押し上げることに成功したのである。


斉彬は人材を登用する上で「10人が10人とも好むような者は、役に立たぬ」と考え「人材は必ず一癖ある者の中に選ぶべし」を理念としていた。この言葉どおり、斉彬が抜てきした西郷隆盛は、低い身分をも省みずに藩にたびたび意見書を出して改革を訴えた人物。まさに「一癖ある者」である。


オランダ人医務官ポンペも、長崎海軍伝習所時代の勝海舟らと鹿児島を訪問し、斉彬に面会した感想として「おそらく斉彬は、日本でもっとも重要な人物であった。その将軍に及ぼす影響力から言っても、また自己の実力、指導力からしても、日本の革新的存在と見られていた」と、斉彬を極めて高く評価したそうな。


が、この後ここからが大事って時にポクッと死んでしまう。死因はコレラだったのか、暗殺だったのか、果たしてその真相や、いかに?




⚫︎ 最強の姉に鍛え上げらた「坂本龍馬」


土佐藩の非常に裕福な家庭で育った龍馬君は、幼少時は泣き虫で弱虫のひ弱な少年であった。母を10歳の時に病気で亡くし、以後、姉の「乙女」が母代わりに龍馬を教育。ちなみに姉の乙女は、身長176cm、体重110kgを超える当時としては尋常ならざる体躯を持ち、剣術にも秀でていたため、龍馬の剣術師範も務めたと伝説的に語られる。


名前とは裏腹に、姉の乙女は龍馬が大好きだった「足相撲」も負け知らず。強い脚力で常に龍馬を負かしては、悔しがって泣く龍馬に「それでも男か!」と高笑い。当時、女性は下着を着用していないため、白熱して下半身が丸出しになっても、龍馬が負けるまでやめようとせず、他の兄弟や父親が止めるまで龍馬をコテンパンにしていたとか。しかし龍馬は終生、乙女への感謝と恋慕を失わず、現存する龍馬直筆の乙女宛の手紙は16通残っているそうな。龍馬マゾでシスコンw


武術で小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は武術修行のため1年間の江戸自費遊学に出る。その直後の6月3日、ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖に来航。龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。


同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である「佐久間象山」の私塾に入学。ところが、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間は、ごく短いものだった。


安政3年(1856年)7月、龍馬は再度の江戸剣術修行のため江戸にて「大石弥太郎」や、親戚の「武市半平太」らと共に、築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。ここでの交友関係が、後に大きく幕府を揺るがす存在へと繋がってゆくのだが、それはまだ少し先の話。だが、着々と幕末の志士たちの運命は動き始めていたのであった。。




ってことで、4名ほどピックアップしてみましたが、なんと言っても松蔭先生がブッち切りのクレイジーさで笑えましたね。↑ では割愛しましたが、クレイジーでありながらも他人を敬い、生徒と対等な学びを行うことで、生きた教育を実践したからこそ、彼の魅力は永遠なのでしょう。ちなみに、現在も政治の世界で男女問わず「〇〇君」と呼び合うのは、相手を敬うことを忘れない松蔭先生が、ルーツなのだとか。他にも松蔭語録はたくさん残っており、、


そんな中でも、最高にビリビリ来ちゃうのは、やはり間違いなくコレ ↓ であろう。松蔭先生のこの先の結末を知っているが故に、心に刺さりまくるのである。


狂愚まことに愛すべし、才良まことにおそるべし

(狂うほどの情熱を持って常識から外れる者は「行動」を起こしている愛すべき存在。一方、頭だけで考えて理屈を言うことは、何も行動しなくなるので恐ろしい)


諸君、狂いたまえ 。




参考
https://m.youtube.com/watch?v=7CayBVgDZ_8https://ja.m.wikipedia.org/wiki/吉田松陰https://ja.m.wikipedia.org/wiki/勝海舟
https://www.touken-world.jp/tips/13328/

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/坂本龍馬

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/坂本乙女

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。