vol.100 「これまでの久坂玄瑞」について


海外ドラマ途中回の冒頭おさらいシーンみたいなノリで「これまでの久坂玄瑞は」と、ダイジェストで要点だけ理解するのに最適なWEB記事を見つけまして。あまりにも分かりやすく読んでて面白い記事だったので、ふんだんに転載させていただきますけど営利目的ではないので、どうかお許しを。


なお、当ブログでは下関戦争の手前までの紹介としますので、リンク先の元記事を読んでもらった方が、その先までより詳しいです。↓


BUSHOO! JAPAN(武将ジャパン)様
久坂玄瑞は幕末一のモテ男だった~松陰の遺志を継ぎ夭折した25年の生涯に注目https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2024/07/18/111258




⚫︎ 若くして天涯孤独の苦労人


幕末で最もモテたのは誰か? と問われたら、久坂玄瑞の名が優勝候補に挙がるらしい。なんでも、身長は180cm超え、誰もが聞き惚れるような美声の持ち主、しかも色白のイケメン、と三拍子揃った男で、かつ金払いも気前が良かったために、京では久坂ファンがたくさんいたのだとか。


2015年大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロインとしてもおなじみ、吉田松陰の三番目の妹「文(美和子)」も、若き日の久坂に恋をした一人で、久坂と結婚して心の底から愛したそうな。これだけ聞くと、なんだかイケ好かないモテモテ野郎に思えてくるが、若き日はなかなかの苦労人だったようで。


まだ15歳だったころ、わずか1年の間に母、兄、父に相次いで先立たれ、貧しいながらも幸せだった暮らしが終了。ひとりぼっちになってしまう。久坂は家を継ぐため、玄瑞と改名し、剃髪する。まだ中学生くらいの少年が、一家を全員失い、家を継がねばならない――想像するだけでも、厳しく哀しい状況である。


天涯孤独の久坂の面倒をみてくれたのは、兄の友人たち。久坂は哀しみを紛らわせるように、一身に学問に打ち込むようになったという。父と兄の三回忌のあと、17歳の久坂は九州を遊歴し、交流した人々らと「共に横暴なアメリカに立ち向かおう!」と流行りの尊王攘夷で盛り上がる。そして帰国後、吉田松陰という話題の人物に手紙を書いてみることにした。




⚫︎ 吉田松陰とのお手紙バトル


内容は、黒船来航以来の世相を嘆き、絶対に攘夷をしちゃるんだ、と語る――そんな熱血青春トーク。これに対して、松陰は返事の手紙を書き、「貴殿の意見は軽薄で、浅い。心の底から言うちょらん。ただ世相に対して怒って、注目を集めたい、チャラい人なら誰でも思いつきそうなもんじゃ。わしゃ、こねえな奴が一番嫌い。ともかく嫌い。大嫌いじゃ。もっと自分の立場から、誠実に、利害や打算を無視して考えんさい」と、久坂を無慈悲なまでにコテンパンにしてしまう。


早熟な秀才として知られた久坂は、当然ながらカチンと来て「何様だこんにゃろう!」と怒る。一方の松陰は、久坂をボコボコにけなしながらも「これはなかなか才能のある若者だ」と、ピンと来るものを感じていた。もし、ここで逃げたら、所詮その程度の男。逆に、激怒して食いついてきたら、これは素質があると考え、松陰なりの試験を与えたのである。


それ以来、二人は手紙を通して激しい論戦を繰り広げる。久坂は猛然と反駁し「米英仏の巨大な戦艦と大砲、鉄砲には我が国は太刀打ちできない。だからといって座して国が亡びるのを待つのは如何なものであろうか。あなたの不遜な言説では私は屈しない。もしあなたがこのような罵詈、妄言、不遜をなす男ならば、先に宮部殿があなたを称賛したのも、私があなたを豪傑だと思ったのも誤りであったようだ。私は手紙に対して、憤激のあまり拳を手紙に撃ちつけてしまった」と書いた。


松陰は、すぐに返事はせずに約1カ月の間をおいて筆を執った。「今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けにゃならん。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すれば良いことじゃ。貴殿は一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。貴殿の滔々と語る言説はただの空論じゃ。ひとつとして貴殿の実践に基づくものはなかろうが。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめんさい」と返書した。


しかし、久坂玄は三度、反論の筆を執り「外国人との交易はどちらを利しているのか。人心は現状を保つことに汲々としているが、武器はいつ備えるのか。士気はいつ高まるのか。危急存亡について誰が考えているのか」と食い下がった。


これに対して松陰の3度目の返信は、それまでとはうってかわって、「貴殿が外国の使いを斬ろうとするのを空論と思っていたのは間違いじゃった。そこまで言うなら実際に米使を斬るように努めてほしい。私は貴殿の才略を傍観させていただこう。私もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることを悟ってやめた。貴殿は私と同じにならぬよう、言葉どおり断固としてやり遂げてほしいものじゃ。もし、そうでないと、私は貴殿の大言壮語を一層非難するであろう」と書いた。


そう言われて久坂はハッとする。確かに自分は、当事者だったらどうするかという想定が本気でできていない。松陰は久坂に実践を求めたが、久坂に米使を斬る手だては実際なかった。ここに両者の議論に決着がついた。久坂はこの人にはかなわないと感じ入り、松下村塾に入門するのであった。




⚫︎ 高杉晋作とのライバル関係


10才も歳下ながら、才知溢れる久坂にすっかり惚れ込んでしまった吉田松陰。そんな最中の安政4年(1857年)、久坂より1才年上の高杉晋作が松下村塾に入門してくる。彼の家は久坂とは異なり、家禄200石、代々藩主側近を輩出してきたエリート一家。お坊ちゃまの出自であるせいか、高杉家からは「あねえなようわからん連中と関わってはいけん」と、松下村塾通いをあまりよく思われていなかったとか。


身分を問わない隊員で構成された「奇兵隊」を組織した高杉は、ともすれば上下関係にこだわらない性格と思われがちであるが実際はそうではない。生涯、上級武士というプライドを持ち続けており、学問や知識が不足しているにもかかわらず、態度が大きく、自己解釈をしてしまう、そんな高杉の問題点を、松陰は見抜いていた。


そこで松陰は、高杉の前で久坂を褒める作戦を採った。久坂と高杉は幼少期に、同じ吉松淳三・主催の寺子屋に通っていたことがあり、そのころから互いに意識はしていたし、家格の点でいえば久坂ははるかに下。「なんでこねえな奴に、わしが負けるんじゃ!」と、ライバル心をメラメラと燃やした高杉は、猛勉強に励んだ。久坂も負けじと、努力する。


二人のライバル心を燃やした結果、両者ともに力をつけ、やがて二人は塾生の中でも【龍虎】と呼ばれる双璧になったのであった。龍虎二人の性格は対照的。苦労人で人格者で優等生気質の久坂、対するは、気が強くプライドが高いエリートで暴れん坊の高杉。そんなライバル同士が、後の長州藩を引っ張っていくようになるのだから実に興味深い。




⚫︎ 吉田松陰を伝説化させる


井伊直弼の安政の大獄により、松蔭センセーが、梅田雲浜(うんぴん)との交際と、幕府中傷文書の作成の嫌疑をかけられ江戸に呼び出される。ところが、訊問の場で松陰は、老中・間部詮勝暗殺計画を自白し、幕府を驚かせる。「たいした容疑ではなかったのに、なんだかすごい者が出てきてしまった」老中暗殺を計画して、しかもそれを白状して生存できるはずもなく、かくして、吉田松陰は斬首されてしまう。享年30。


しかし、松蔭の首が処刑場に落ちた瞬間から、彼の短い生涯は伝説によって彩られ始める。もしも誰かが松陰の生涯を輝かせ、語り継ぎ、言葉を書き残し、伝説としなかったら――小さな家に過ぎない「松下村塾」が世界遺産になることもなかったことであろう。その松陰伝説化のプロデューサーが、他ならぬ久坂であった。


松陰は久坂の手によって吉田松陰は【熱心だけど無謀な若者】から【情熱あふれる崇高な殉教者】と伝説化したのである。久坂のこうした行為は、孤独な身の上である自分を受け入れてくれた義兄への、思慕や敬愛の念が根底にあったのかもしれない。


松陰の死後も、久坂は杉家の援助を受け、その潤沢な資金で、尊皇攘夷活動に東奔西走する。弁舌さわやかなイケメンである久坂は、説得力抜群。女性と遊ぶようなことがなかった師の松陰とは異なり、プレイボーイとしてもならしたようだ。彼のみならず、長州藩士たちは気前がよく、粋な遊び方で、京都人のハートをがっちり掴んだとか。

(ちなみに、最もモテないワースト1は、貧乏で不器用で無粋な会津藩士だったらしい。町を守ってあげてんのにカワイソス)


のちに長州藩士が窮地に陥ったときも、京都の市民たちはエールを送り続けたほど。久坂が美声で漢詩を吟じながら歩くと、、

「キャーッ、久坂はんやわあ!」「ほんまにええ男~!」

「こっちを向いておくれやす~~~!!」

と、京都色街の女性たちは熱狂したそうな。

むろん、久坂が交流したのは色街の女だけでなく

・坂本竜馬 ・吉田寅太郎 ・武市半平太

かような幕末著名人とも接触。単に交流するわけではなく、松陰の偉大さを説くことも欠かさなかったため、かくして吉田松陰の名は、久坂によって他藩にまで広まっていくのであった。文久元年頃から久坂と各藩の志士たちと交流が活発となり、特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、久坂は、尊王攘夷運動・反幕運動の中心人物となりつつあった。




⚫︎長井雅楽(うた)を失脚させ、藩論を書き換える


幕末長州藩について知っておきたいことに、彼らの朝廷に対する距離感がある。長州藩毛利家は、平城天皇の皇子である阿保皇子(一品)を先祖としており、家紋も縦に「一品」と読める。他のどの大名家よりも自分たちが最も皇室や朝廷に近い――それが彼らのアイデンティティでもあったのだ。「我らこそ、幕府と朝廷の間を取り持つ役目にゃあ最適じゃ」そう考えた長州藩は、文久元年(1861年)「長井雅楽(うた)」が献策した『航海遠路策』を提出する。


内容を要約すると、

① 朝廷は鎖国攘夷政策を改めて、そのことをふまえて幕府に命令を下す。

② 公武合体、一丸となって富国強兵を促進。

③ その上で、海外雄飛を目指そう。

というもの。


「それいいね! 現実的なド正論だね!」と幕府にも孝明天皇にも評判は上々で、実際に公武合体の動きで和宮ちゃんの降嫁が実現する。孝明天皇も、妹のためにも幕府と手をとって歩んでゆこうと思っている雰囲気が漂ってくる。


しかし、久坂ら松陰の門下生にすれば「松陰センセーは幕府の開国に反対して、幕府によって殺されてしもうたんじゃ。こねえな策が受け入れられたら、先生の死が無意味になってしまう!」と、だいぶ納得がいかないご様子。特に久坂は以下のように反対している。


「今の通商は亡国への道である。売るものがなく、買うばかりの一方的な貿易で年々多くの国幣を失っている。物価は高騰し、国民は塗炭の苦しみの中にある。貿易を盛んにする前に、国産の開発が大いになされなければならん。最終的には我が国は海外へ出ていかなければならないのはわかっている。松陰センセーの考えもそうだった。だが、それが幕府を助け天朝を抑えることになってはならない。いずれは万里の外へ航海に乗り出す策を立てねばならないのは当然だ。しかし、今回対馬を占領されており、これだけの凌辱を受けながら、その罪も正さず、頭を垂れて尻尾を振って、航海に乗り出しても武威の高まることはない!」


久坂は長井雅楽に何度も議論を挑み、また藩主への具申をしたが、藩論は覆ることはなかった。このような中、久坂は全国の「草莽の志士糾合」に賭けざるを得なくなる。文久2年(1862年)正月14日、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え、久坂との打ち合わせのため萩へ来訪した。馬関の豪商、白石宅をアジトにして、薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねた。松門の同志は血盟を交わし、桂小五郎は、繰り返し藩主親子、藩の重臣たちに、長井雅楽弾劾を具申し続けた。


その甲斐あって、さらには「坂下門外の変」で安藤信正ら公武合体推進派が失脚したこともあって、長州藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、ついに長井雅楽の失脚に成功。気の毒なことに長井を切腹にまで追い込んだ。もちろん長井はこれを不服としたが、藩論が二分され、内乱が起きることを憂いて切腹を受け入れたという。ちなみに、長井は高杉晋作の父「高杉小忠太」とは友人同士であり、切腹の前日、小忠太へ身の潔白を訴え、遺児の庇護を依頼する長文の手紙を出し、その末尾に以下の辞世の歌を残したそうな。


『 ぬれ衣の かかるうき身は 数ならで 唯思はるる 国の行く末 』


長井雅楽が亡くなったあと、多くの人々は「惜しい人物を殺した」と言い、反対派の中にも「あれほどの人物を何故、自分たちは死に追いやったのだろうか」と述べる者もいたと言う。

岩倉具視 「長井より偉い者はない。あれは木戸や大久保より偉いぞよ」
伊藤博文 「長州で豪傑と言えば長井雅樂の右に出る者はいない」




● 公武合体の融和ムードをひっくり返す


やがて、長井雅楽に代わり、久坂の書いた『廻瀾條議』と『解腕痴言』が長州藩の藩論となる。ところが、このころ長州藩にとっては甚だおもしろくないことが起こっていた。文久2年(1862年)、島津久光が兵を率いて上洛。西郷隆盛が「無謀」だと反対した計画だったが、幕末でこれほどインパクトを与える行動は他にない。


続く「文久の改革」により、元一橋派の一橋慶喜松平春嶽も政界に復帰。久光の幕政改革案によって設置された京都守護職として、会津藩主・松平容保が上洛し、生真面目で誠実な容保のことを、孝明天皇はことのほか気に入った。が、これは長州藩にとっては大変おもしろくないこと。朝廷にとってのナンバーワンは自分たちだったのに、薩摩と会津が割り込んできたように思えたのである。


「こうなったら、さらなる過激な攘夷を行って自己アピールするしかない!」と、藩をあげて勅命を奉じて攘夷をすること、すなわち「奉勅攘夷」をモットーとした暴走状態に長州藩志士らは陥ってゆく。


久坂は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化。そして幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。これに対し、将軍・徳川家茂は「翌年上京し返答する」と勅旨を受け取った。


江戸に着いた久坂は高杉晋作と合流。高杉は外国人襲撃を画策していたが、久坂は「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、高杉と斬るか斬られるかの激論となったものの、結局は久坂も受け入れ、高杉と久坂を筆頭とした長州藩志士11名で、品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した


朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府が因循しているため、久坂は京へ戻るやいなや、関白に建白書を提出。攘夷期限の確定を求めた。また、京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸をも画策する。このあたりの朝廷内のパワーバランスと仕組みが一番よく分からないところではあるが、ともかくこれらが功を奏し、朝廷の指導権は長州が握ることとなったのである


そして、家モッチーが上洛すると、しつこく攘夷を誓うように圧をかけ、具体的日程を口にするまで帰さない軟禁状態に置く。その結果『5/10は攘夷決行日』という約束がFIXするに至るのである。




ふー。これまでの久坂さんの人生をサクッと振り返っておくつもりが、えらく長くなってしまいもうした。久坂さん人生、熱くて濃いです。松蔭センセーとのくだりが長かったせい、もありますが、それにしても「コイツのせいで幕末がこじれたのか感」も、なかなか。この久坂玄瑞なる男が有能でなかったら、いかに今の幕臣らが無能ぞろいだったとて「こんなにも手こずらされることもなかったろうに」と思えてきました。


つまりは、なにかと邪魔しやがる長州藩、イコール「久坂玄瑞」だったようで。ひいては「吉田松陰のエキセントリックな遺志を継ぐ者」が、とことん立ち塞がってきた感じでしょうか。ある意味、吉田松陰恐るべし、ですわ。デスノートで言い換えるならば、吉田松陰が「L」で、高杉晋作が「メロ」久坂玄瑞が「ニア」ってところ。違うかww 


(何気に、祝100投稿目!うぇ〜い)



参考
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2024/07/18/111258/3https://ja.m.wikipedia.org/wiki/久坂玄瑞https://ja.m.wikipedia.org/wiki/長井雅楽

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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