vol.101「下関事件」について


サプラ〜イズ!!

ド派手に異国船を撃ち払うドッキリ企画、大成功〜!ww

なぜなら、5/10は攘夷記念日だもんね〜!うぇ〜い!(ハイタッチ)

と勝手に盛り上がるDQN長州。

ダメだ。もう話が通じる奴らじゃない。。

かくして「下関事件」は起きてしまったのである。


下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末の文久3年(1863年)と、元治元年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。歴史的には、元治元年の戦闘を「馬関戦争(ばかんせんそう)」と呼び、文久3年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多い。馬関は下関市の古い呼び名。今では文久3年のことを下関事件元治元年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別している。また両者を併せた総称として「下関戦争」が使われているが、その影響で「馬関戦争」が総称として使われることもある。ただ、文久3年のことを「下関事件」元治元年のことを「下関戦争」と呼んで区別している教科書もある。


ってことで、ここでは「下関事件」の呼び名で、まずは文久3年の出来事を扱おう。なお、地名も馬関ではなく下関で統一させていただく。さーて、いったいぜんたい何が起こったのだろうか。




● 攘夷ってこーゆーことっしょ!


孝明天皇の強い要望により将軍徳川家モッチーは、文久3年5月10日をもっての攘夷実行を約束した。が、幕府は「攘夷=軍事行動」とは考えていなかった。が、長州藩士らは「いや、攘夷=戦闘じゃろうが」と、さっそく行動に出る。


日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である「下関海峡」に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った


そして、攘夷期日の文久3年5月10日、見張り役が、田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船「ペンブローク号」を発見。総奉行の毛利元周(長府藩主)は「いやアレって軍艦じゃなくて商船よ?」と、躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張。翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったペンブローク号は慌てふためきながら周防灘へ逃走した。いきなり撃たれて、さぞかし「ホワーイ! ジャパニーズピープー!?」と思ったことであろう。


続いて、5月23日、横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦「キャンシャン号」が長府沖に停泊しているのを発見。長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで、各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。驚いたキャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず(そりゃそうだ)交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせた。ところが、藩兵はこれに銃撃を加え、書記官は負傷、水兵4人が即死した。「なんなんだよこいつら! 会話も出来ねーのかよ!?」と、キャンシャン号は錨をブッチ切って大急ぎで海峡を通りぬけ、損傷しつつも翌日長崎に到着した。


さらに、26日、オランダ外交代表ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックを乗せたオランダ東洋艦隊所属の「メデューサ号」が、長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり、鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があり、長崎奉行大久保忠恕の許可証も受領しており、幕府の水先案内人も乗艦していたため「攻撃はされまい」と油断していた。ところがところが、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始。癸亥丸が接近して砲戦となった。メデューサ号は1時間ほど交戦したが、17発を被弾し死者4名と船体に大きな被害を受け、周防灘へ逃走した。


、、、と、こんな調子で、問答無用の不意打ち砲撃を異国船に食らわせまくるDQN長州。背景や経緯は何であれ、これが武士のすることかね。。もうルールも礼儀も武士道もあったもんじゃない。もちろんこれら行為は、当時の国際法にバリバリ違反するものである。ここまでくると逆に「長州はヤバイ」というブランディング戦略としては、大成功なのかもしれないが。




● アメリカ軍艦による報復攻撃


6月1日、怒ったアメリカが、軍艦「ワイオミング号」で報復に来る(そりゃ来るわな)。不意を打たれた先の船と異なり、ワイオミング号は砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見し、壬戌丸に狙いを定めて砲撃を加えた。壬戌丸は逃走するが、遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈する。庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、ワイオミング号はこれを返り討ちにし、庚申丸を撃沈。癸亥丸も大破させた。ワイオミング号は報復の戦果をあげたとして、海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。この戦闘でのアメリカ側の死者は6人、負傷者4人。長州藩は死者8人・負傷者7人であった。もともと貧弱だった長州海軍はこれで壊滅状態になり、陸上の砲台も艦砲射撃で甚大な被害を受けた



● フランス艦隊による報復攻撃


6月5日、お次は怒ったフランスが、軍艦「セミラミス号」と「タンクレード号」で報復に来る(やっぱ来るわな)。セミラミス号は砲35門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。


、、、まあ、当然こーなるわけで。なんつーか、アレだ。ケンカ自慢の悪ガキたちが、竹原慎二に挑戦してボコボコにやられる図と同じだ。そもそも、旧式の大砲じゃ射程が短すぎて距離とられたら撃っても届かないのだから、不意打ち以外では当たるはずもなく。竹原にひょいひょいパンチ避けられて、ガツンと強烈カウンターを顔面に食らうだけの戦いである。アメリカもフランスも、ある程度ボコボコにしたら「これ以上やらせんなよ」って感じで帰るところが、大人の対応でカッコいい。なのに、勝負ついてるのに認めずフラフラしながら「まだじゃ〜ぼけ〜」とか言ってるDQN長州が、果てしなくダサい。ダサすぎる。




● これを静観していた高杉晋作さんの 談

https://yamaguchi-tourism.jp/feature/shinsaku


僕は24歳の時、運良く上海に行くことができました。上海に着くと、港にはヨーロッパ諸国の商船、軍艦など約数千隻が停泊しちょって、陸には城郭のような白壁の商館が立ち並び、それは華やかで活気にあふれちょりましたわ。じゃけど、市街を歩き回りよるうちに、上海には別の顔があることに気が付きました。現地の中国人が、西洋人にこき使われちょるんです。


イギリス領事館近くに架かるガーデンブリッジは、イギリス人が架けた橋ということじゃったんですが、イギリス人からは通行料を取らんで、中国人からは徴収しちょります。武士の規範ともいえる孔子を祀った孔子廟では、イギリスの兵隊が陣を敷き、銃を枕に昼寝をしちょったんです。清国は1851年から起こっちょったアヘン戦争後の内乱を自力で鎮圧することができんで、イギリスやフランスの軍隊に頼ったとはいえ、この状況はあんまりじゃないじゃろか。戦いに破れた国は、国の文化や誇りまでも踏みにじられてしまう。日本は決して清国の轍を踏んじゃあいけんとこの時、痛感したんです。


帰国した僕は、久坂をはじめ松下村塾の仲間に、上海で僕が感じた危機感を伝え、長州藩が攘夷の急先鋒となって外国に負けん強い国づくりを行ってゆくべく行動を起こしました。文久2年12月に決行した「品川の英国公使館焼き討ち」などはその一環です。久坂らは京都で攘夷の周旋活動を活発化し、文久3年3月には14代将軍・徳川家茂を上洛させて、朝廷に対して攘夷を実行すると約束させました。


じゃけど、僕はまだ釈然としちょりませんでした。久坂らが京都の尊皇攘夷派公卿たちと結びついたことで、政局面では長州藩がリードする形になりましたが、藩は未だに蒸気船の1隻も買わずにおりました。薩摩藩はすでに蒸気船を手に入れ、上海あたりで諸外国を相手に密貿易を始めているいうちょるのに、当時、我が長州藩はたった2隻の帆船軍艦しか所有しちょらん状況でした。これじゃあ長州は新しい時代に取り残されてしまうと焦りました。藩は、攘夷を本気で実現するためには何が必要なんか、わかっちょらんのです。ところが、藩の家老は「10年たったらお前の言うような時期が来るからそれまで待て」と言うので「それなら10年暇をもらいます」と、僕は山奥に引きこもりました。


5月10日、久坂や入江が、京都から連れてきた諸国の尊王攘夷派の志士たちと共に下関へと入り、関門海峡を通過する外国船に向けて砲撃を開始しました。我らの攘夷の「志」は本気であるっちゅうことを示したわけですが、6月には報復としてアメリカやフランスの軍艦が来襲し、下関にあった砲台はあっけなく破壊されてしもうたんです。じゃけど、僕はこれも当然の結果じゃろうと思っちょりました。西洋列強との軍備の差は歴然です。しかも、太平の世に慣れきっちょる武士たちが、古びた武器でいくら束になってかかっても敵うはずはありません。


この無様な敗戦によって、僕は藩主の毛利慶親・定広父子から呼び出されて、下関の防御体制についての意見を聞かれたんです。それで僕は正規の藩兵じゃあのうて、有志の士を募り、神出鬼没の働きをする奇兵、すなわち「奇兵隊」の創設を説いたんです。この危機を乗り越えるためには、身分の上下を問わず、志を持った民衆のパワーを利用せんといけん。藩主はこの意見を喜んで、僕に奇兵隊の創設を一任してくれました。さあて、ここからが長州男児の腕の見せどころですわ!


(前半はそこそこ冷静に分析できてたのに、最後は結局まだまだ過激攘夷の方向に向かう高杉さんに、ズコーッでありました)




⚫︎ 長州ファイブ、英国へ密航留学


下関海峡を通航する外国船を次々に砲撃し、攘夷を決行する一方で、長州藩はその2日後、5人の若い藩士を横浜港から密かに英国へ派遣した。それが世に言う「長州ファイブ(長州五傑)」である。メンバーは↑の画像の通り。彼らは国禁を破って命がけで密航し、初めてロンドン大学に留学を果たした日本人だった。


5人は、長州藩士の「周布政之助(すふ まさのすけ)の許可を得て、横浜港から英国のマセソン社所有の「チェルスウィック号」にてイギリスへ出船。混乱する幕末期に、未来の日本のため命をかけて「生きたる機械」となることを誓った若者5人のイギリス秘密留学を斡旋したのは「死の商人」で知られる「トーマス・グラバー」であるが、莫大な留学費用は(5人の留学費用は現在の価値で10億円以上) トーマス・グラバーが勤めるロスチャイルド家の系列会社マセソン商会の社長「ヒュー・マセソン」が大部分を負担したと言われている。


イギリスに着いた5人は、ウィリアム博士のもとで暮らし勉強に励んだ。強大な軍事力を有する欧米に打ち勝つためには、欧米に渡って最新の知識・技術を学ばねばならないと考えたのである。ところが、現地に到着すると、日本と英国との国力があまりにも違うことに気づき、攘夷は不可能であることを悟る。やがて彼らは、攘夷を捨てて開国主義へと転じてゆくのだが、、それはまた追って調べるとしよう。




⚫︎ その頃の江戸幕府さんの 談


長州のバカはもう知らん! 自業自得なんだから、目玉が飛び出るくらいの賠償金を請求されるが良いわっ。てゆーか、今こっちはイギリスの相手で忙しいのよ。生麦事件について莫大な賠償金払って、なんとか一段落ついたと思ったのも束の間。やっぱし「リチャードソンを殺した犯人もしくは責任者の久光の命を引き渡せ!」って、薩摩に軍艦で乗り込む気満々みたいでよ。内心「どーぞどーぞ」なんだけども、一応は止めないわけにもいかんからね。


でも、イギリス止まんなかったわ。なんか「幕府は通商条約を結んだにも関わらず、5/10に攘夷決定したから港封鎖するとか言い出すし、ふざけんなって怒ったら慌てて前言撤回するし、もうお前らの言葉は1mmも信用できねーよ、薩摩や長州の統制がとれない幕府なんてオワコンだよ、うちらが攘夷派の黙らせ方の見本みせてやっよ」てな感じで相手にされてないわ、もはや


で、軍艦と兵士いっぱい率いて薩摩に向かってちゃった。薩摩もそれは予想していて、イギリスを迎え撃つ準備万端なんだとか。あーあ、もう全面戦争じゃん。どーすんだよー。アヘン戦争に突入した清国の二の舞コース確定くせー。せっかく払った賠償金、無駄になるっぽいけど、もー知らねー。長州藩の下関みたくボコスコにやられてしまえっ!




てなわけで、開国か攘夷かで揺れる数々のトラブルを何とかギリギリ凌いできた苦労が、全部パー。イギリスとは引き続き戦争前夜状態なのに加えて、アメリカもフランスもオランダも怒り冷めやらぬようで下関報復パート2を検討中。なにせ下関海峡は長崎港に行くための重要な海路なため、ここを安心して通れなきゃ困るどころでないわけで。


せっかく開国させた日本との貿易を安定させるためにも、そして幕府にしっかり開国路線に舵を切り直させるためにも、ここはいっちょ薩摩と長州に実力の違いっもんを見せてやろーじゃねーかという動きが。とうとうヤバいことになっちまいました。幕府に止める力はありません。てゆーか、単純に止める気がなかったのかも。だって、生麦事件も下関事件も、幕府カンケーないし。てめえの尻はてめえで拭けよって。


これにて天下泰平の世は終わり、またもや戦乱の時代に突入であります。果たして誰が最後まで勝ち抜くのでしょうか。まったくもって見当もつきません。けども、私の勘では、西郷隆盛大久保利通がわりと終盤まで生き残るんだけど死んじゃって、長州ファイブの伊藤博文あたりが最終的な勝者になるんじゃないかな〜って。いや〜あくまで勘ですけどね〜(白々しい)



参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/下関戦争
https://yamaguchi-tourism.jp/feature/shinsaku
https://www.hagishi.com/oidemase/greatman/chosyufive/

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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