この「八月十八日の政変」って、なんでこの件だけ急にこんな言い回しなのだろうか。日付け入りの歴史的出来事名って珍しくて、他に思いつくのは「5.15事件」と「2.26事件」くらい。あとは「9.11アメリカ同時多発テロ」と「3.11東日本大震災」があるけど、近代だし。
まあ8/18に政変が起きたことを表すにはシンプルイズベストであるけれど、いざその内容と背景を詳しく説明せよと言われたら、どれだけの人がきちっと述べられるか疑問である。かく言う私も、当然ながらよく分かっていなかった。ので、何日もかけて調べ、たぶんこーゆーことだったのであろう、という説明を以下にまとめてみた。間違っていないと良いのだが。
⚫︎ 当初は10年後にまた鎖国するつもりだった
井伊直弼だって、そう考えていた。けど軍艦で脅されてんだから今はとりあえず従って、通商条約結ぶしかないわけ。拳振り上げたジャイアンに胸ぐら掴まれてんのに「帰れ!ブタゴリラ!」って言うアホはいないざんしょ。だから京都の孝明天皇さんを説得してる暇なんかなかったの。
で、和宮ちゃんを嫁にもらって公武合体フュージョンさせてもらう代わりに「10年くらいかけて攘夷=鎖国し直しますね」って約束したの。そうやって時間かけてるうちに、孝明天皇も「うわー外国すげー、こりゃかなわないし攘夷なんて無理なの分かったわー」て、考えを変えてくれることに期待してたのよ。
ところがよ、集団ヒステリー状態の武士たちがよ、なんかすげー攘夷じゃ攘夷じゃ!ってイキっててよ。学園長室と職員室のまわり取り囲んで「幕府生徒会にさっさと攘夷実行させましょーぜ!」「あいつらウチの朝廷学園ナメてますぜ!」とか騒ぐのよ。おかげで職員室にいる公家先生らも、わりと意見が割れてきちゃって。公武合体クラブを立ち上げた「岩倉具視先生」とかクビにされて追い出されちゃうわけ。
こうなると孝明学園長も「うむ、、生徒会長の家モッチー君ちょっと来なさい」てなり「日程を決めないと暴動が怖いスマン」て言い「はい、では5/10としましょう」て答え「お前いい奴だな」となる。これにて、鎖国アゲイン10年計画が消え、いきなりすぐに何かしら攘夷行動をとらねばならなくなってしまった。
そうした経緯が、まずある。
⚫︎ 困ったことになった幕府生徒会
生徒会長の家モッチーが約束した攘夷とは「通商条約の破棄と鎖港であり、そのためには条約締結国と交渉しなければならず、相手のあることなれば結果までは約束できないが、ともかく実現に努める」という内容。これが幕府生徒会の方針だった。
勅書によって、改めて攘夷実行を委ねられた幕府は、その裁量において、武力による強硬な攘夷は避け、交渉による平和裏な攘夷の方法を選んだのである。あったり前田のクラッカーである。
とは言え、実際には交渉成立の見込みは少ない。と言うか見込みゼロ。むしろ列強諸国が怒って武力に訴える可能性もあるから、幕府は諸藩に向けて海岸防御を厳重にし敵が撃ってくれば撃ち返すよう布達したが、日本側からの攻撃は禁じていた。
幕府はまず横浜鎖港の交渉を始めることとした。将軍名代「徳川慶篤(慶喜の実兄で水戸藩主)」および交渉の実務にあたる老中格「小笠原長行」は、3月に京都から江戸に戻っていた。だが、このとき幕府は前年に薩摩が引き起こした生麦事件の処理(賠償金支払い)という難問を抱えていた。
2月に、8隻のイギリス艦が横浜港に入り、関係は険悪化。この問題を解決しなくては鎖港交渉を持ち出すこともできないが、賠償金を支払えば国内的には攘夷の本気度が疑われるおそれもある。そうなると孝明学園長と生徒会の立場も危うくなるわけで。うーむ、どうしたものか。。
はじめ、徳川慶篤と「徳川茂徳(尾張藩主)」、江戸留守居のポンコツ老中らは、支払いに賛成であったが、東帰途上にある一橋慶喜パイセンが「武田耕雲斎」を遣わし、攘夷奉勅と支払い不可を伝えてくると、水戸・尾張は支払い拒絶に変わり、ポンコツ老中らは病と称して登城しなくなった。ったく、どいつもこいつも使えない奴ばかりで泣けてくる。
攘夷期限前日の5月9日に至って、ザラストオブ有能・小笠原長行は、やむなく独断で賠償金11万ポンド(約27万両)を支払う。そして翌日、列国の公使に横浜鎖港を通告し、どうにか攘夷に着手した形を整えた。が、当然ながら諸外国から「約束を破るのか!」と言葉で袋叩きにされる。
一橋慶喜パイセンは、攘夷実行の責任を回避するかのように横浜に向かった小笠原と入れ違いで、ようやく8日に帰府。14日に後見職辞任を表明した。慶喜って、ズルいしダサいし言うことがコロコロ変わる。さすがバカ斉昭の息子である。
⚫︎ 問題児グループ長州の活動がウザい
その一方、長州は幕命を無視して5月10日に、下関海峡を航行中のアメリカ商船に対して無通告で砲撃を加えることで攘夷を実行。23日にはフランス艦を、26日にはオランダ艦を砲撃する。しかし、これに続く藩はなく、長州が6月1日にアメリカから、5日にフランスから報復攻撃を受けても、近隣諸藩は傍観を決め込むのみであった。
また、長州と協力関係にあった土佐藩では、帰国した「山内容堂」が人事の交替に着手しており、6月8日には土佐勤王党の幹部3名が切腹に処せられ弾圧が始まった。
かくして孤立感を深めた長州の問題児たちは、朝議の主導権を握る急進派公家衆(教職員ら)と連携しながら、天皇(学園長)の委任に基づく幕府(生徒会)の攘夷実行指揮を解消し、天皇自らが指揮する武力による攘夷「攘夷親征」へ転換する道に突き進んでいく。
倒幕(生徒会廃止)すら念頭においた長州藩と親しい「三条実美」ら公卿たちは、過激な攘夷を後押しするような工作に手を貸した。彼らは天皇とは距離があり、孝明天皇自身の考えを知る機会は少なかった。しかし、たちの悪いことに彼らは勅(=学園長の言葉を記した学園報)を偽造できてしまう立場。
長州藩が「奉勅攘夷」を行うと
↓ 味方の公卿がそれに対して「褒勅」を出す
↓「天皇にも褒められたし攘夷もっとがんばるで!」
当然ながらこれは大問題である。孝明学園長は「長州藩に攘夷をしろとは言っていないし、それを褒めたおぼえもない」わけで。攘夷を希求しつつも過激な攘夷戦争を恐れ、あくまでも幕府を信任して幕府による攘夷実現を求める学園長は、長州や急進派公家のこうした動きに頭を悩ませていた。
6月25日、参内した「松平容保」に対し、情勢把握と攘夷実行の督励にあたらせるため関東下向を命じる勅命が下された。だがその翌日、天皇から容保に密勅が届けられる。「前日の勅命の趣旨はもっともなことながら、いま守護職の容保が下向するのを私は望んでいない。だが近頃の朝廷は過激派公家の主張が通り、私が何を言ってもどうにもならない。あれは真の勅命ではないと心得て、了承するもしないも遠慮なく返答してもらいたい。決して下向を強いるつもりはない」という。下向の勅命は、攘夷親征計画の妨げになる京都守護職の会津藩を追い払うための急進派の策謀だったのだ。
⚫︎ さすがに学園長も我慢の限界で
出した覚えのない学園報が勝手にばら撒かれとる。。心当たりはある。長州グループ藩尊王攘夷派の悪ガキどもと結託した公卿先生らだ。彼らが長州藩に利となる勅を勝手に出してやがる。。
学園長に我慢の限界が訪れたのは「大和行幸」計画を知ったあたり。大和行幸とは、天皇自ら、神武天皇陵、春日社(春日大社)、伊勢神宮に参拝して、攘夷祈願を行い「攘夷親征(攘夷のために天皇自ら戦う)」の機運を盛り上げる――。要は、天皇の権威で、幕府に攘夷への強いプレッシャーをかけようという計画。
しかし学園長は、そんなこと微塵も望んでない。むしろ朝廷と幕府が手を組む公武合体策を支持しており、長州藩の無茶振りで幕府と仲が悪くなるのは心外だった。天皇は、信頼できる側近の中川宮朝彦親王に「誰ぞ、武で君側の奸をのぞく者はおらんやろか……」と嘆き、憔悴のためろくに寝食も取れない状態となる。
その思いは、長州藩に敵意を抱く薩摩藩と、京都守護職の会津藩に伝わった。薩英戦争でイギリスの軍事力を目にした直後の「島津久光」は、攘夷がそれほど簡単ではないことを再認識。攘夷の前に、江戸幕府と朝廷が一体となった強い国づくりを進める「公武合体」が絶対に必要だと改めて痛感していた。
そこで8月13日、同じ考えを持つ会津藩主の松平容保に声をかけ、近頃の学園報は偽物であるから、ともに奸臣(かんしん:悪だくみをする家臣)を排除しようと提案。松平容保はすぐ応じ、ここに「薩会同盟」が成立。朝廷の中でも公武合体派であった中川宮朝彦親王が、それを孝明学園長に知らせると、学園長は8月17日の夕刻、「武力をもって国家の害を除くべし」という宸翰(しんかん:天皇による書)を中川宮朝彦親王に授けた。
⚫︎ ついに7人の公卿を追放する
翌8月18日早朝、中川宮朝彦親王は公家達を集め「天皇は、攘夷は時期尚早だとお考えだが、近頃長州藩に乗せられ、天皇のお言葉ではないのに、あたかも天皇のお言葉のようにふるまう者がいる。特に三条実美をはじめとする(急進的な攘夷派の)者どもは、これから取り調べを行うため、まず外出と他人との面会を禁ずる」と話す。
そして御所のすべての門を閉じ、薩摩藩・会津藩の兵士が固めた。公武合体派の薩摩・会津両藩が、長州藩を中心とする尊王攘夷派公家の動きを封殺したクーデターである。そして御所から、以下の勅旨が出される。
・大和行幸の延期
・国事参事、国事寄人の廃止
・三条実美以下攘夷派公卿20名の参内禁止
決起を知った三条実美ら尊攘激派公家や、長州藩兵が続々と集まってきて、会津・薩摩両藩の兵とにらみ合いになったが、事態収拾の会議が持たれ、長州の堺町門の警備担当を解き、京都からの退去を勧告することが決議された。
これにより長州藩は、都から撤退するほかなくなった。おまけに学園長は、この事件の後「18日以後に出された学園報こそ、自分の本当の意見である」と断言。これは尊王攘夷過激派との決別宣言ともとれるものであった。
19日、失脚した急進派公家のうち三条実美と、三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の7人は禁足を破り、長州勢1千余とともに長州へと下った(七卿落ち)
か〜っ、疲れた! ややこしいわ長いわで、ここまでまとめるのにかなり体力消耗した(コピペのくせに)。一応オリジナル感出すために、学園抗争シチュエーションに例えてみましたが、如何でしたでしょうか。余計ややこしいって? これでも「猿が辻の変(姉小路公知の暗殺事件)」は割愛して、なるべくシンプルにしたんですがね。
それにしても、このクーデター「八月十八日の政変」って呼ぶより「七卿落ち」で良くないか。その方が原因と結果をタイトルが表してて、内容も連想しやすいし。8/18って日付け、別にそんな大事じゃないし。覚える意味のない日付けをいちいち覚えさせないでほしい。
なんなら「薩合同盟 〜孝明天皇 怒りの七卿落とし〜」とかが良い。日活映画みたいで。
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/八月十八日の政変
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2023/12/24/112620#google_vignettehttps://bushoojapan.com/jphistory/baku/2024/07/18/111286
https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/hachigatsujuhachinichi-no-seihen/
https://bushoojapan.com/comic/nihonshimanga/2021/10/09/162709
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