最近、思う。そうか、幕末の出来事をいちいち全部とりあげてたら、いろいろありすぎて語る方も、聞く方も、訳わかんなくなるから、だからあえて省略しとるのか、と。
この「天誅組の変」も、それに続く「生野の変」も、言うなれば「まあ他にもいろいろごちゃついたことがありまして〜」の部分に含まれるようで。確かに、この件に関して詳しく知らなくとも問題にはならないっぽい。
じゃあスキップさせてもらおうか、とも思ったが、一度それをやっちまうと『飽木田サボル(vol.0参照)』がスーッと背後に忍び寄って来てしまうので、面倒ではあるが一応まとめておきましょか。本も買っちゃったことですし。
⚫︎ 大事件に必ず居合わせてる隠れキャラ
むかしむかし、幕末のころ。福岡藩に「平野国臣(くにおみ)」という志士がおったそうな。父親は神道夢想流杖術なる武術の達人で、1000人もの門弟を抱えており、国臣も幼少期から武術を学び、和歌や書、儒学、国学、雅楽などを身に付けた。文武両道の鏡とも言えるが、国学にどハマりし「日本本来の古制を尊ぶ思想」という尚古主義に傾倒。月代を剃らず総髪にし、烏帽子直垂や義経袴といった、ひと時代前のコスプレをするようになり「なんか変な格好をしたバリバリ尚古主義の変人が福岡にいるらしいよ」と有名になる。
有名になったおかげか、やがて国臣は各藩の重要人物と交流するようになる。その顔ぶれは、薩摩藩の「西郷隆盛」「大久保利通」をはじめ、長州藩の勤王豪商「白石正一郎」や、「梅田雲浜」「梁川星巌」などなど、名だたるメンバー。そして安政5年、井伊直弼の安政の大獄が始まると、国臣と懇意にしていた人物も処罰対象者として追われることに。
国臣は、懇意の僧「月照」を逃すため、西郷と尽力し、薩摩までたどり着く。しかし、薩摩藩は月照を「日向送り」(※薩摩と日向の国境で切り捨てる=つまり死刑)と決定。日向行きの船の上で、西郷と月照が突如ダイブ。慌てたのは国臣である。急いで2人を引き揚げ、蘇生を行ったものの息を吹き返したのは西郷だけであった。つまり国臣は、西郷隆盛の命の恩人であり「のちの明治維新も国臣の懸命な人工呼吸があったればこそ」とも言えるのである。
また、国臣は「桜田門外の変」についても一枚噛んでおり、薩摩にて暗殺計画を練る会合に参加。下関の白石家で一挙を知り、同志と祝杯をあげた。一方、それを知って驚愕したのは福岡藩。急いで国臣の捕縛を命じる。国臣は捕縛を逃れるために逃避行に出た。薩摩へ入国しようとするが叶わず、9月に肥後国高瀬の松村家に庇護され、久留米の勤王志士「真木和泉(後に長州勢とつるんで偽勅を出しまくった奴)」と国事を談じる。両者は意気投合して、翌年には国臣は真木の娘のお棹と恋仲になる。
その後「村田新八」「有馬新七」らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父・島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、結局、国臣は退去させられることになった。肥後の松村家に戻った国臣は「人斬り彦斎」の異名を持つ「河上彦斎」と交流。福岡藩の探索を察した国臣は、河上の手引きで天草へ移り『尊攘英断録』を著わした。その内容は「公武合体ではもはや時局に対応できず薩摩藩など大藩が天皇を奉じて討幕の兵を挙げるべし」といった過激なもの。これに真木和泉は大いに感銘し、国臣を訪ねた「清河八郎」なども島津久光に献じるよう勧めている。
その後、文久2年の「寺田屋騒動」では、薩摩藩過激派と連携して行動しようとするも失敗し、危険視された国臣は福岡藩の牢に入れられる。尊攘志士の間で令名高い国臣は、まずは丁重に扱われたが、寺田屋事件で急進派が一網打尽にされるや扱いが一変し、手荒く桝小屋獄の牢屋へ入れられてしまった。
以上が、これまでの平野国臣に関するプロローグである。幕末のわりと大事な登場人物と場面に、まるで『フォレスト・ガンプ』のように、ごとごとく関わっている不思議なキャラである。
⚫︎ もうひとりの隠れキャラ吉村虎太郎
架空のような名前だが、実在した人物の本名である。土佐藩の庄屋であったが、武士の農民支配を否定した土佐庄屋同盟の思想や、尊攘思想に傾倒して「土佐勤王党」に加盟。文久2年「武市半平太」の命で長州へ赴き「久坂玄瑞」に武市の手紙を渡す。それから九州へ渡って平野国臣と出会い、国臣から島津久光の率兵上京と、これに合わせた浪士たちによる挙兵計画(伏見義挙)を聞く。
虎太郎は急ぎ土佐へ戻り、土佐勤王党も脱藩して参加することを説くが、武市の考えは挙藩勤王であり、これを許さなかった。やむなく、虎太郎は少数の同志を説いて脱藩を決行。虎太郎の脱藩に触発される形で「坂本龍馬」らが続いて脱藩している。その後、寺田屋騒動で捕縛され、土佐で8ヶ月間、禁獄されるが、やがて政情が尊攘派に有利になって釈放となる。
文久3年8月13日、「三条実美」ら攘夷派公卿が画策して「大和行幸の詔」が発せられた。これは、孝明天皇が大和国の神武天皇陵等に参拝し、攘夷親征の兵を挙げ武力倒幕を行うというもの。以前から懇意の「真木保臣」によるこの献策を知った虎太郎は、大和行幸の先駆けとして大和国で倒幕の義兵を挙げることを計画。先の寺田屋騒動で挫折した武力倒幕を実行する再起の機会であった。8月14日、虎太郎ら同志39人が方広寺に集結し「中山忠光」を大将として京都を出立。彼らは天誅組と称されるようになる。
⚫︎ 運がなさすぎて笑える「天誅組の変」
一行は大坂から海路堺に向かい、河内国に入って「那須信五」ら同志と合流して大和へ進み、8月17日に五條代官所に打ち入って代官「鈴木正信」の首を斬り、討幕の兵を挙げた。天誅組は五条天領を「天朝直轄地」とすると布告。しかし翌日、京都で八月十八日の政変が起こり、政局は一変。大和行幸を計画した三条らの急進的尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた。大和行幸の詔は「偽勅」とされ、天誅組はその活動を正当化する根拠を失い、孤立してしまう。
ほんの1日、動くのが早かったようで(笑)。だが本人らは笑いごっちゃない。慌てて協議を行い、京の政変は天皇の意に反する会津や薩摩などの逆臣による策謀であり、一時的なものと見做し、倒幕の軍事行動を継続することとなった。
虎太郎は、古来尊王の志の厚いことで知られる十津川郷士に募兵を働きかける。京の政変をまだ知らなかった郷の幹部は、募兵に応じることに決め、十津川郷内59カ村から約1000人が集まった。天誅組は、五條襲撃直後から近隣諸藩に使者を送って兵糧の供出などを約束させていたが、京都での政変を知った高取藩は、態度を翻してこれを拒否したため、天誅組は高取城攻撃を決定する。高取城を奇襲して占拠し、籠城して討伐軍に抗戦する計画であった。
25日、中山忠光率いる本隊が高取城に向かい、虎太郎は別働隊を率いて大口峠に布陣して郡山藩に備えた。翌朝まで大口峠で警戒していたが討伐軍は姿を現さなかったため、吉村は高取方面に引き返した。しかし26日早朝、本隊は高取城に向けて行軍中に、兵数で劣る高取藩兵の砲銃撃を受けるとたちまち敗走してしまっていた(笑)。五條へ向けて敗走中の本隊に遭遇した虎太郎は、不甲斐ない敗戦を知ると激昂して忠光に詰め寄った。
虎太郎は、直ちに決死隊を編成して夜襲を試みることを決意。26日夜、24名の決死隊で夜陰に乗じて高取城下に忍び寄る。城下に放火し、混乱の中で城内に討ち入ろうという計画で、乾草を背に松明を持って夜中間道を進むが、途中で高取藩の斥候に発見され交戦する。虎太郎は高取藩軍監「浦野七兵衛」と槍で渡り合うが、味方の援護射撃が誤って内股(または下腹部)に当たり重傷を負ってしまう(笑)。決死隊はなすところなく五條に退却したが、本隊は既に天の辻まで退却していた(笑)。吉村らもそれを追って天の辻に到着するが、本隊は更に長殿村まで退却した後だった(笑笑)。
本隊の中山忠光は、紀州新宮に出て海路で四国や九州へ向かい再起を図ることを提案するが、天の辻に留まった虎太郎は自らが負傷していながらもこれに従わず、本隊と別行動を取って天の辻付近で追討軍を迎え撃つこととした。 9月に入り諸藩の追討軍が迫ると、虎太郎らの別働隊は天の辻を根拠として周辺でゲリラ戦を展開し、数では勝るが戦意に乏しい追討軍相手に善戦した。
再び合流した本隊とともに奮戦し、追討軍を撃退する局面もあったが、多勢の追討軍に抗しきれず各地で退却を余儀なくされた。また、統率力を失った主将・忠光の元から去る者も出始めて天誅組の士気は低下し(笑)、追討軍が迫ると十津川郷へ退却する。
天誅組は十津川に籠城し天険を頼りに決戦しようとするが、天誅組を逆賊とする詔が下った(笑)ことが伝わると、十津川郷士も離反、主将・中山忠光は天誅組の解散を決定した(笑)。殿軍の後続隊を率いて遅れて本隊に合流した虎太郎は、そこで初めて天誅組の解散を知らされた(笑)が、この時既に傷が悪化して歩行困難となっていた吉村もその決定に従うほかなかった。
一同は河内方面に向けて脱出すべく山中を彷徨うが、筵で作った即席の駕籠に乗った虎太郎は一行に遅れをとってしまう。9月24日、一行は鷲家口(奈良県東吉野村)付近に到達、血路を開くため「那須信吾」らが決死隊となって紀州・彦根藩兵に攻撃を仕掛ける。遅れて進んでいた虎太郎は、戦闘開始を知って本隊の後を追おうとするが、銃声に恐怖した人夫が、虎太郎の駕籠を放置して逃亡してしまった(笑)。
付き添っていた隊士が、付近の村で人夫を雇って再び駕籠を進め、鷲家口を迂回し木津川村の堂本家に潜伏した。追討軍は鷲家口周辺を探索し天誅組の残党狩りを行なっており、虎太郎の潜伏場所付近にも探索が及んできたためその場を離れる。27日朝、虎太郎は鷲家口村外れの炭小屋に潜伏していたところ、津藩兵に発見される。虎太郎は自刃しようとしたが、その前に一斉射撃を浴びせられて絶命(泣笑)。享年27。天誅組も壊滅した。
(吉村虎太郎、那須信五ら 退場)
⚫︎ 崩壊が早すぎて笑える「生野の変」
8.18の政変によって梯子を外されちゃった天誅組がかわいそう!助けよう!と、平野国臣や「河上弥市」ら尊皇攘夷派浪士たちが動き出す。都落ちした七卿の一人「澤宣嘉(さわのぶよし)」を奉じ、挙兵するも、この時点で大和の天誅組は壊滅しており(笑)、挙兵中止も議論されたが「天誅組の復讐をすべし!」との河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになった。
10月2日、国臣らが募兵を呼びかけると、かねてより生野では「農兵論」が唱えられていたこともあり、2000人もの農民が生野の町に集結。だが、天誅組の変の直後とあって幕府側の動きも早く、代官所留守から通報を受けるや豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、挙兵の翌日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動している。
諸藩の素早い動きに対して、浪士たちからは早くも解散が持ち上がった。強硬論の国臣、河上らに圧されて解散は思いとどまるが、13日夜に肝心の主将の澤宣嘉が解散派と共に本陣から脱出してしまい(笑)、集まった農民たちは動揺する。河上は、生野の町で闘死しようとするが、騙されたと怒った農民たちが「この偽浪士!」と罵って彼らに襲いかかり(笑)、河上ら13人の浪士は自刃して果てる。他の浪士も農民らに襲撃され、射殺された(泣笑)。
国臣は、兵を解散させると鳥取へ向かったが、捕らえられ京の六角獄舎へ送られた。そして、元治元年7月の「禁門の変」の際に、国臣は幕吏によって六角獄舎で殺害された。かくして、生野での挙兵はあっけなく失敗したが、この挙兵は天誅組の挙兵と共に明治維新の導火線となったと評価されている。
(平野国臣 退場)
いや〜面白かったww 笑っちゃ不謹慎とは思いつつも、現場での「なぬーー!?」な感じを想像すると、どうしても笑いがこみあげてくるお話で。もはや「天誅組」と言うより「われらテンパり中!組」ってタイトルのマンガ読んでる気分でした。
これは確かに知らなくても特に問題ないかもw むしろ知ると「禁門の変」までのせっかくの緊迫感が薄れちゃうな、これは。と、飛ばされがちなのにも納得。
でも「平野国臣」さんと「吉村虎太郎」さんのことは、しっかり覚えられましたので、調べて良かった良かった。てゆーか、もう思い出すたびクスクスッとなるので、忘れたくても忘れられない。
特に、虎太郎が駕籠ごと置いてけぼりにされた場面とかもうww
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