さて「8/18の政変」が、それまでの政局を一気にひっくり返したってのは理解しましたし、おかげで「天誅組の変」と「生野の変」がグッダグダな結末を迎えるハメになったことも(笑いながら)学びましたが、その他にどんな影響があったのか? 今回は、そのあたりを「アフターコロナ」的なタイトルに乗せて、まとめてみます(死語ですが)。
⚫︎ 薩英戦争の決着
「薩摩をナメてたら予想外の大被害を受けちゃいました〜てへペロッ」的に本国に報告したら、案の定ドヤされてしまったイギリス公使代理のニールさん。本国の議会も「つーか幕府から賠償金せしめたのに薩摩の町を焼くとか、やりすぎじゃない? そんで相手より自分らの方が死傷者いっぱい出すとか、バカなの? 世界から呆れ笑いされてんですけど!?」と、大ひんしゅくを買ってしまう。
やべ〜ニールピーンチ! こりゃこっからの戦後処理で挽回すっきゃね〜(汗)と思いながら薩摩との再交渉に臨むこと数回目。なんか薩摩が急に「わかった、生麦でイギリス人斬り殺したのは悪かった、賠償金25000ポンド払うから、その代わりに軍艦の購入を斡旋してほしいでごわす」とか言い出した。いいよいいよ、全然良いよ! よっしゃそれで仲直りパーティーしよ! もう生麦事件の犯人とかどーでもいーよ!
てことで急に仲良くなる両者。薩摩は25000ポンドを幕府から借りて支払い、幕府には返さずに密貿易で軍艦や最新の武器をどんどん購入。イギリスも、何も決められないヘナチョコ幕府より薩摩の方が実力も決断力もあって話早くていーわ、と薩摩をどんどん好きになる。まさに昨日の敵は今日の友。喧嘩の後に親友になっちゃうアオハルかよ、と。
⚫︎ 一方、長州は薩摩と会津を憎みまくる
そもそも長州藩毛利家は、平城天皇の皇子である阿保皇子が先祖とされており、どの大名よりも皇室朝廷に近い、別格の藩だというプライドがあった。のに、薩摩と会津がそこへ割り込んで来て、薩摩藩は、生麦事件からの薩英戦争を行ったことで、長州藩がリードしていた攘夷派として台頭。会津藩主・松平容保は、長州藩をさしおいて、孝明天皇の信頼を勝ち取っているのだから、面白くない。
そして、その目障りな薩摩と会津に8/18の政変を起こされ、京都から追い払われてしまった長州。天皇の命とあっては、従わざるを得ないが、納得できるわけもなく「わしらは孝明天皇の叡慮である攘夷を忠実に行っただけじゃ。功こそあれ、罪はない。悪いのは、陛下をたぶらかせた薩摩と会津じゃ!」と怒り心頭。
憎しみが極限に達するあまり、長州藩士の中には「薩賊」「会奸」と下駄に書いて踏みつけて歩いた者もいたとか。その程度で気持ちをおさめるならまだしも、薩英戦争での和睦後、イギリスと密貿易を行っていた薩摩船を砲撃&撃沈したり、「国父」島津久光の殺害予告を大坂にバラ撒いたり。
むろん薩摩としても船を沈められ、内心はらわた煮えくり返っていたが、密貿易が絡んでいたこともあって表沙汰にはできず、耐え忍ぶほかないわけで。長州と薩摩はみるみる犬猿の仲になってゆくのであった。(だからこそ、後の薩長同盟が悟空とピッコロが手を組むくらいセンセーショナルなビックリニュースとなるわけか)
⚫︎ その頃、壬生浪士組が「新撰組」に進化
会津藩預かりとなり、京の警備を務めていた壬生浪士組は、8/18政変時の働きが評価され「新撰組」という隊名を授かってバージョンアップ。ところが当の局長「芹沢鴨」の素行が悪く、力士と喧嘩になって一刀両断にしてみたり、酒に酔って店で暴れ回ったりと、その傍若無人な振る舞いには非難がゴーゴー。さすがに「松平容保」もこれを問題視し「近藤勇」一派に、芹沢の粛正を指示する。
深夜、まず「土方歳三」が忍び入り、芹沢鴨の就寝を確認。次いで刺客4~5人が入り込み、芹沢鴨の寝込みを襲う。不意の暗殺部隊を相手に、脇差を抜いて応戦する芹沢鴨。「沖田総司」に手傷を負わせるも、酩酊状態のうえに多人数相手とあって防戦一方となり、多くの手傷を被ったあげく、縁側伝いに隣の部屋まで逃げたところで絶命した。
(芹沢鴨 退場)
新撰組内では「芹沢鴨は長州藩士に殺された」として、同月18日に、盛大な葬儀を執り行う。以後、新撰組は不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、要人警護など、警察活動を任務として台頭してゆく。この新撰組の能力が脅威すぎて、攘夷派浪士は京都に潜伏するのも一苦労。うかうかしてると新撰組に見つかって、拷問されるか斬り殺されちゃうのだから、恐怖である。
⚫︎ ところで高杉晋作さんは何してるか言うと
身分を問わず農民や町人を主体とした「奇兵隊」を結成したのは良いのだけれど、藩士から成る正規部隊である「撰鋒隊」と、早速モメていた。両隊とも下関に駐屯していたが、撰鋒隊士は奇兵隊を「百姓兵」「烏合の衆」などと罵り、奇兵隊士は下関戦争の際に敗退した撰鋒隊を「腰抜け侍」と罵ったりするなど、両隊の感情的な対立が深刻化。結局、些細なきっかけから奇兵隊vs 撰鋒隊の大ゲンカ(教法寺事件)となり、死者を出してしまう。この責任を問われ、結成からわずか3ヶ月程で高杉晋作は奇兵隊総督を罷免された。
8/18政変で長州勢が京を追い出されたと聞き、居ても立っても居られず、文久4年(1864年)1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。が「桂小五郎」の説得で2月には帰郷したものの、脱藩の罪で野山獄に投獄されてしまう。のちに出所して謹慎処分となるが、今はまだ師匠である松蔭先生も入っていた野山獄にて、もの思いにふけっておったそうな。まぁ結果的には、これが「最終兵器を出番が来るまで温存しとけた」形になったわけで。
⚫︎ 岡田以蔵の逮捕から、土佐勤王党が終わる
8/18政変で土佐勤王党は衰勢した。そして翌年、元号も「元治」に変わった1864年の2月、人斬りとして恐れられた岡田以蔵は、商家への押し借りの科で犯罪者として幕吏に捕えられる。5月に焼印・入墨のうえ京洛追放処分になり、同時に土佐藩吏に捕われ、土佐へ搬送された。
土佐藩では「吉田東洋」暗殺、および京洛における一連の暗殺に関して、首領「武市半平太」を含む土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられていた。以蔵は女も耐えたような拷問に泣き喚き、武市に「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と酷評されている。間もなく以蔵は、拷問に屈して自分の罪状および天誅に関与した同志の名を自白し、その自白によって新たに逮捕される者が続出するなど、土佐勤王党の崩壊のきっかけになる。
元治元年(1864年)7月「清岡道之助」ら23人が武市の釈放を求めて北川村野根山に集まり決起したが、藩庁に鎮圧され、全員斬首された。岡田以蔵は、のちに慶応元年(1865年)閏5月11日、享年28歳で打ち首、獄門となる。同日に武市半平太も「主君に対する不敬行為」という罪目で切腹を命じられ、未だ誰も成し得なかったと言われてきた「三文字割腹の法」を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。
(岡田以蔵、武市半平太 退場)
⚫︎ 参与会議が始まるが、即崩壊
8/18政変により、尊攘派の一掃に成功した朝廷だったが、朝廷には政局を主導する能力がなく、甚だ人材に欠けていた。そこで有志大名らに上洛を命じ、混迷を極める政局の安定を図るため、有力諸侯の合議による「参与会議」体制が始まった。
参預会議の構成員は以下の通り
* 徳川慶喜(一橋徳川家当主、将軍後見職)
* 松平春嶽(越前藩前藩主、前政事総裁職)
* 山内容堂(土佐藩前藩主)
* 伊達宗城(宇和島藩前藩主)
* 松平容保(会津藩主、京都守護職)
* 島津久光(薩摩藩主島津茂久の父)
孝明天皇は熱心な攘夷論者であり、国政の諮問にあたる参預会議でも通商条約の破棄(破約攘夷)・海外貿易を許可した諸港の閉鎖(鎖港)が議題となった。しかし、参預諸侯は元来開国的な考えを持っており、そもそも攘夷は不可能であることを認識していたため、鎖港には反対であり、かえって天皇の失望を買う。
ところが、当初は横浜鎖港に難色を示していたはずの慶喜が、薩摩藩の台頭を警戒し、久光の主張には同調できないとして、ことさら横浜鎖港の実行を主張することになる。2月15日に行われた参預会議では、久光と慶喜がこの問題で激しく衝突。参預会議体制は早くも行き詰まった。
この成り行きを懸念した中川宮が、2月16日に参預諸侯を自邸に招いて酒席を設けたが、泥酔した慶喜が中川宮に対し久光、春嶽、宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴論を吐いたため、機嫌を損ねた久光は完全に参預会議を見限り、幕府への協調姿勢を諦める。
こうして、ほとんど何の実績もあげられぬまま、参預会議は瓦解した。2月25日いち早く容堂が京都を退去し、3月9日には慶喜が参預を辞職。続いて他の参預も相次いで辞任した。
はーい、アフター8/18、ざっとこんなところのようであります。確かにビフォア8/18と比ぶれば、なかなかの変わり様で。ようやく8/18の政変をなぜ日付入りでネーミングしたのかの意味も解せた感じがします。
ただ、過激攘夷派を一時的に抑え込んだのは良いけれど、やつらがこのまま大人しくしているはずもないし、絶対リベンジかましに来ますよね。ここで幕府と佐幕派大名らがガチッと一枚岩になって、孝明天皇にも「攘夷はもう諦めて開国しながら富国強兵してきましょう!」と言えたら良かったのに。。
慶喜も所詮この程度の器、カエルの子はカエルってわけで、なんせ、あのバカ斉昭の息子ですもんね。最後の巻き返しチャンスをみすみす消してしまうとは、さすがとしか言いようがない。
徳川幕府、完全終了のお知らせですな。。
日本の夜明けは近いぜよ。
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/新選組
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/教法寺事件https://ja.m.wikipedia.org/wiki/岡田以蔵
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