「五代友厚(ごだいともあつ)は、幕末維新史におけるキーマンの一人であるが、あまり取り上げられることが多くなかった人物と言えよう。しかし、NHK連続テレビ小説『あさが来た』の中で、ディーン・フジオカが五代を演じたことで、一躍脚光を浴びる存在となった。また、大河ドラマ『青天を衝け』では、ディーン・フジオカが再び五代を演じ話題になったことをご存じの方も多いのではないか。
一方で、五代についての理解度はいかがなものであろうか。五代の短い生涯においては、主として明治以降の活躍が取り上げられがちであるが、幕末維新期の五代の活躍も、筆紙に尽くし難いらしい。しかし残念ながら、五代はその時代に活躍したメンバーの中に、なかなかその名前が挙がらない。これは明治に入ってすぐに、政治家の道ではなく、財界人に転身したことによろう。五代がそのまま政治家を志し、もう少し長生きできれば、総理大臣も夢ではなかったと言われるほどの人物なのに。
ってことで、五代友厚が主役の映画『天外者』を観て、手っ取り早く楽して学ぼうとしたのだが、全然参考にならず何が何だか結局よう分からんかった。ので、優秀なるWEB記事様の文章を抜粋しながら理解を深めさせていただくことにする。
⚫︎ 五代の長崎時代と薩英戦争
五代にとって転機となったのは、安政4年(1857)であった。五代はこの年、郡方書役に任命されたが、特に重要なのは幕府が設置した海軍士官養成機関である長崎海軍伝習所への遊学であった。
五代は、幕臣以外にも門戸が開かれていた伝習所で、オランダ語や海軍技術を学び、世界に対する幅広い知識・認識を持つに至った。また、これ以降も長崎に滞在することが多く、「勝海舟」「榎本武揚」「佐野常民」「高杉晋作」らと交遊し、ネットワークを構築した。中でも「トーマス・グラバー」との出会いは特筆すべきであるが、この点は後に触れたい。
その後、五代は藩に重用され、文久2年(1862)に舟奉行副役に就任し、幕府艦千歳丸で太平天国の乱の真っただ中にあった上海に渡航し、薩摩藩のために汽船・武器を購入した。この時、高杉晋作と出会ったことは余りにも有名であろう。また、文久3年(1863)には、生麦事件によって派生した薩英戦争において、風雲急を告げる情勢を察して急遽長崎から帰藩し、天佑丸船長として参戦した。
五代は薩英戦争において、後に『薩摩スチューデント』としてロンドンに同行する「寺島宗則」とともに、英国海軍の捕虜となった。五代は自発的に捕虜となっており、その目的が攘夷から開国への藩論の転換を狙ったものと解釈されてきた。
しかし、五代自身が上海から戻ると、すぐに島津久光の命を受け長崎で上海貿易に従事し始めており、その必要性はうかがえない。五代は潔く釈明を控えているが、おそらく、かけがえのない藩船の拿捕の責任を取り、また、情報収集もかねて、あえて居残って捕虜となったものと理解したい。
五代らは横浜で解放されたが、簡単に捕虜になったことから、藩からイギリスとの密通の嫌疑を受け、また幕吏からも追われることとなり、江戸や武州熊谷での亡命生活を余儀なくされた。その後、寺島と別れて長崎に潜入し、ここでグラバーと再会したが、五代らはそれまでに、肝胆相照らす仲となっていたようだ。そして、パリ万博にもつながりをもつ、ロンドンへの密航留学生『薩摩スチューデント』の構想を練ることになるのだ。
⚫︎ 五代友厚の最先端な上申書
思い出の地、長崎に潜入した五代友厚は、長年構想を練っていた富国強兵のための海外貿易や留学生派遣についての思いをグラバーに熱く語り、その構想の青写真を共同で作成した。これが『五代才助上申書(『薩藩海軍史』中)』である。なお、この後の薩摩スチューデントにかかわる一切の面倒は、このグラバーが見ることになる。
この上申書には細かな収支計画が付されており、当時としては極めて斬新である。これは、グラバーの助言によるところも大きかったであろうが、五代自身の緻密な調査や、商才に負うところも見逃してはならない。そして、その後の薩摩藩の富国強兵・殖産興業策が、この上申書に沿って進められた事実は、さらに興味深い。五代がこれ以降、薩摩藩の近代化を推進することになるのだ。
五代は第1弾として、佐賀などから余剰米を買い漁り、上海で売り捌いて膨大な利益を上げ、さらに茶・生糸・椎茸・昆布・干鮑なども上海で売れば、その利潤は計り知れないと提案する。
第2弾として、その利益で製糖機械を輸入し、あわせて技術者も外国から雇用する。そして、砂糖を大量に精製し、それを輸出する。
第3弾として、そこから上がる莫大な利益によって、蒸気軍艦、大砲、銃といった軍事品、さらには貨幣製造機、農作機械、紡績機械なども輸入すべきであると上申したのだ。
なお、五代はこれら3弾を実行する前提として、留学生の派遣を切言した。そして、こうした買い付けは、留学生に同行する視察員が行うと主張した。
その留学生派遣計画であるが、第1段階として、通訳1名を含む17名を150日ほどイギリス・フランスに派遣すると述べており、これは留学というよりは視察団といったレベルであろう。なお、家老職などの上級家臣9名には軍務・地理・風俗を視察し、その他通訳を除く7名は、分担して農耕機械、砲台築城、大砲小銃製造、病院学校等の設置などに関して、調査することを提案する。上級家臣には、攘夷を唱える壮士から3名を選出するとしており、イギリス・フランスを実見させて開国派に転身を図ろうとしたのだ。五代らしいプランである。
第2段階として、藩校の造士館から才気ある年少者50~60人、多少年長の20人ほどを選抜し、西洋諸国に派遣して陸海軍事技術はもちろんのこと、砲術、天文、地理、製薬などを研究させると提案する。期間は明示されていないが、おそらく、数年単位での留学が期待されていたであろう。
そして、帰国後、熟練者を教師として藩内各地に学校を設立すべきであると提言した。実際の薩摩スチューデントはこの折衷案となり、その規模も財政事情から縮小されたものの、基本構想は、五代の上申書がそのまま活かされたことになる。
しかし、この当時の日本人は海外渡航が認められておらず、密航留学になってしまい、万が一、発覚すれば死罪になりかねない危険と隣り合わせであった。
、、と。WEB記事様のまんま貼り付けですが、割愛するとこがないからすごい。この時点でもう龍馬に勝ってる。特にこの上申書の内容が具体的ですごい。なんて有能な奴なんだ。もしも、この頭脳が幕府側にあったら歴史は変わっていたに違いない。
⚫︎ 薩摩スチューデント
実際に選ばれた薩摩スチューデントは、薩英戦争によって海軍力の圧倒的な差を痛感したことを契機に、元治元年6月に欧米列強に対抗できる軍事技術・諸科学および英蘭学の教育機関として設置された開成所から多数選出された。留学生は、特定の家柄や年齢からではなく幅広く選抜されており、思想的には敢えて攘夷思想が強い上級家臣を含んだ。
留学生15名の中には、駐英公使・初代文部大臣となる「森有礼」、駐仏公使・外務大輔となる「鮫島尚信」、駐米公使・農商務大輔となる「吉田清成」、駐蘭公使・元老院議官となる「中村博愛」、開拓権少書記官となり現在のサッポロビールの前身・開拓使札幌麦酒醸造所を設置した「村橋久成」などが含まれる。変わり種としては、最年少の13歳で薩摩スチューデントに加わり、アメリカに永住してワイン王となった「長澤鼎」がいる。個性豊かな薩摩スチューデントは、近代日本の建設に必要不可欠な人材となったのだ。
薩摩スチューデントの使節には、4つの使命が島津久光から課せられた。その4つとは、
①薩摩藩をはじめとする大名領にある港を外国に開き、そこで自由に交易できるようにイギリス政府に協力を求めること
②富国策を実現するために外国市場を調査し、薩摩藩として必要な製造用機械などを購入すること
③強兵策を実現するために、必要な軍艦・武器などを調査・購入すること
④将来に向けて、必要な西洋知識を受容するために留学生を同行させ、現地で諸々の手配をして監督することであった。
五代友厚は②③にあたる製造用機械・軍需品の買い付けや商社設立などに奔走した。
⚫︎ 五代友厚とモンブラン
五代友厚は渡欧中、ロンドンのみに留まらず、全権の新納久脩、通訳の堀孝之とともにヨーロッパ各国を回り、精力的に視察を行いながら、紡績機械や武器の買い付けをするなどして、使命を果たしていた。中でも、五代のヨーロッパでの最大の功績は、やはり薩摩藩とベルギーとの間で結ばれた仮の通商条約に匹敵する、ベルギー商社の設立であろう。
もちろん五代であっても、さすがに自身の才覚だけでは、そううまくは運ばなかったであろうが、そこに登場するのが「シャルル・ド・モンブラン伯爵」である。彼は事実上の二重国籍を持ち、フランス伯爵であると同時に、ベルギー男爵でもあった。
元治元年(1864)、モンブランは横浜鎖港談判のために渡欧した外国奉行「池田長発」に対し、積極的にアプローチして使節団の便宜を図り、フランス政府要人との会談を斡旋した。この時、モンブランは池田に対し、幕府に対抗する諸侯を征伐できるように、軍事的にフランスが援助することを仲介したいと申し入れた。池田は乗り気になり、帰国したら幕閣の同意を得ると約束したものの、幕府はそれを斥け、フランス公使ロッシュを通じてフランスと直接交渉を始めてしまった。
その事情を知らないモンブランは、慶応元年(1865)に横浜製鉄所の建設準備および軍制調査のために派遣された外国奉行「柴田剛中」に対し、ベルギーとの通商条約を結ぶ仲介をする提案を行ったものの、柴田は我関せずの態度を示して全く埒があかなかった。モンブランは激怒して、これ以降、反幕府的な真逆な態度を示すことになる。
こうしたモンブランの反幕的志向は、ロンドンに居る薩摩藩使節・五代に接触を図るため、使者を派遣することにつながった。五代らはモンブランの招待を大歓迎し、大陸視察時にベルギーで会うことを約束した。
モンブランは五代らを大歓迎し、イングルムンステルにある自分の城に泊めて歓待した。
その後、パリでも交流を重ね、関係が親密化した結果、モンブランの取り計らいでベルギー皇太子ドックーデーブラパン(ブラバン公)や外務大臣に面会が叶い、一国の公式使節に準ずる待遇を受けた。五代の成功は、モンブランに依るところがいかに大きいかがうかがえよう。
モンブラン主導の下、モンブランを介してベルギーと交渉を重ねた結果、慶応元年8月26日に至り、ベルギー政府の証人2名の前で、新納久脩と五代友厚は『ベルギー商社約定書』に調印した。
⚫︎ 遣欧使節「柴田剛中」の密航留学生への対応
慶応元年(1865)閏5月、幕府は横浜製鉄所の建設準備および軍制調査のため、外国奉行「柴田剛中(以下シバター)を正使とする総勢10名の使節団をフランス・イギリスに派遣した。
シバターらは、イングランド銀行を視察した時、長州ファイブと薩摩スチューデントの新納久脩・五代友厚・堀孝之の記帳を発見して驚愕した。「田辺太一」ら随行員は、幕府の許可なく渡欧した密航留学生を召喚し、事情を質した上で取り締まることをシバターに要請し「さもないと幕府は日本政府として西欧から認められなくなる!」と迫った。
しかし、シバターは藪蛇になるとして、その提案を拒否したため、幕府要路と密航留学生の歴史的なロンドンでの接触の機会はなくなった。田辺は、こうした事なかれ主義を訝しみ、大いに不満を感じていた。なお、こうしたシバターの消極的で曖昧な態度は、パリ万博問題でも引き継がれる。
一方で、シバターはイギリス外相に幕府の許可なく渡航した留学生を、海軍学校に入学させないように要請するなど、密航留学生たちの修学の妨害を実行した。これは、帰国後にまったく手を打たなかったことが問題視されることを恐れたためであったが、ロンドンでの密航留学生との接触を極端に嫌い、随行員にも接触を避けるよう徹底した指示を出した。
こうした行為に対し、五代はシバターの態度を俗物と切り捨て、シバターは帰国後、薩摩スチューデントへの対応について、どう申し開きすべきかのみに苦心惨憺であると嘲笑った。五代は、この程度の人物しか派遣できない幕府の実態を痛烈に批判しており、幕府を完全に見捨てた態度をとったのだ。
⚫︎ 五代友厚の憂慮とその結果
一方で、五代友厚は密航留学が幕府使節団・シバターに探知された事実を深刻に憂慮していた。シバターが帰国後に、幕府から薩摩藩に対して尋問があるのではないかと警戒し、五代はあらかじめ想定問答集を作成し、慶応元年11月8日に鹿児島に居る家老桂久武に送付している。五代らしい、用意周到さである。
五代のきめ細やかな配慮の背景には、フランスの実業家モンブランとの間で、薩摩藩とベルギーの貿易商社設立の契約を推し進めるにあたり、何らかの妨害が幕府から入るのではないかといった、悪影響への不安があった。このベルギー商社の設立は、産業貿易担当として渡欧した五代にとって、最大の使命であり業績であるため、それを実現することに五代は注力したのだ。
五代の問答集の中で、薩摩スチューデントの派遣目的は、「夷情探索」「海軍技術の導入」「機械・物産の購入」の3点であることを強調し、海外渡航は国禁にもかかわらず、国家興廃に関わる時節なので、止むを得なかったと釈明することを求めている。
幕府の尋問に対して、薩摩藩が留学生派遣を否定すれば、その情報が直ちに横浜から欧米諸国に伝わり、新聞に掲載されることは間違いなく、そうなれば、それ以降は薩摩藩は西欧では相手にされなくなるとの世相を伝え、藩政府の善処を要望した。
また、五代は、薩摩スチューデントは既にヨーロッパ各地の新聞紙上で取り上げられるほど有名であることを伝える。そして、特にフランスでは島津久光がナポレオンと比較され、日本をリードするのは久光しかいないと表現されており、名誉なことこの上ないと説明している。
その後の展開では、五代の心配にもかかわらず、幕府からの尋問はまったくなかった。日本人の海外渡航を認める機運が、既にこの段階では幕閣内に醸成されていたことも大きな要因であったことは間違いない。しかし、それ以上に政治的な要因が存在していたのだ。
シバターの帰国は、慶応2年(1866)1月であり『小松・木戸覚書』(いわゆる薩長同盟)が結ばれた僅か5日後であった。第二次長州征伐をめぐって政局が混乱しており、幕府は薩摩藩を味方に引き入れようとしていたが不首尾に終わり、薩摩藩の抗幕姿勢には敏感にならざるを得なかった。この状況下で、薩摩藩を刺激するような言動は厳に慎むべきであったのだ。
このように、この時期に江戸・京都・ロンドンで繰り広げられていた政治的動向、つまり『小松・木戸覚書』の成立や、幕府と薩摩藩の対立など、実は点として存在していたのではなく、それぞれに影響を及ぼし、連動していたのだ。まさにグローバルな世界の中で、幕末政治史は展開していたことになる。
⚫︎ 近代日本人・五代友厚の誕生
五代は、留学生以上に西洋に衝撃を受け、政治的思考をめぐらした。彼は生来の開明派ではあったが、ロンドン到着と同時に、今後の日本について大きな憂いを感じていた。
五代は、日本人を傲慢で地球が広いことを知らず、国内の動揺によって、むなしく年月を費やしている井の中の蛙であると手厳しく突き放す。そして、今は北にロシア、西にイギリス・フランス、東にアメリカが存在し、最後にはその沓(くつ)を取ることになると警鐘を鳴らしたが、これは欧米による植民地化を強く憂いたことに他ならない。
また、五代は「その時になって憤慨し、倒れるまで戦って敗れてしまっては、まったく無益なことであり、速やかに、これまで綿々と続いてきた国家の欠陥を明らかにし、無知蒙昧さを自覚し、通商を行って富国強兵を図ることに尽力しなければならない」と訴えた。
その前提となる具体的な方策として、公家・大名をはじめ、諸藩の家老クラスから選抜し、そこに過激攘夷派の巨魁も加えた視察団を西欧に派遣。そして、彼らの十分な観察を踏まえた上で、国策を論じて決定し、挙国一致で実現することを五代は提言している。
こうして富国強兵を実現し、国勢が奮い立てば、10数年後にはアジアで覇権を握れるとまで断言する。五代はこうした思索から、留学生の派遣は時期尚早であったと反省の弁を述べ、薩摩藩要路の西欧視察が先決であったことを繰り返し嘆き、その早期実現を希望した。
五代は、想像以上に進歩した西欧文明に接し、日本の抜き差しならぬ後進性に、めまいすら覚えたのであろう。しかし、その絶望感に拘泥することなく、日本の指導者、この段階では支配者層の、啓蒙啓発を実地で行い、富国強兵のための国策を立案して、挙国一致で邁進することに活路を見出そうとしていた。
五代は日本出発の前に、幕府から外交権を朝廷に移行し、一諸侯となった徳川家も含め、朝廷の下での国家体制の実現を目論んでいた。そして、藩は自由貿易を独自に行える権限を持つ、地方分権制を念頭に置いていた。
しかし、五代は「それでは欧米に対抗できる国家を形成できない」と判断し、藩を超えた国家レベルで西欧諸国に対峙することを念頭に置いている。つまり「天皇を戴く中央政権の下に挙国一致体制を構築し、藩権限は抑えるべきではないか」という考えに至ったのだ。
このような五代の志向性は、版籍奉還、その先の廃藩置県を漠然としながらも見据えており、明治国家を先取りしたものであった。確かに、王政復古を志向していた志士は少なからず存在したが、みな藩の否定には至っていない。五代は、近世日本社会を脱した、近代日本人としての国家観と言えるレベルに、すでに達していたのだ。
はい、今回はここまで。いや〜五代友厚すごいね。ほんと坂本龍馬なんて五代パイセンの足元にも及ばないザコキャラだってことが、よーく理解できましたわ。
参考
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66374https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66375https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66386
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