vol.126「これまでの渋沢栄一」について


2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一。名前や功績は知られるものの、他の幕末志士と比べると地味な印象は否めない。しかし、渋沢こそ日本近代史において重要な人物であり、生涯を知ることでその流れを知ることができると言っても過言ではない。らしい。


渋沢は農民に生まれ、尊王志士に成長し、一橋家(一橋慶喜)に仕官して武士となり、慶喜が将軍になることによって幕臣となった。明治維新後、静岡藩(徳川家)の家臣となり、明治新政府(民部省・大蔵省)に出仕して「官」の一員となり、しかし、「官」を辞して「民」として実業家の道を歩み、日本の富国強兵・殖産興業に尽力した。んだとか。


日本の近世から近代の変化は、幕藩体制(封建国家)から欧米的近代国家(立憲国家)への、アジアの小国から世界の強国への大転換であり、しかも四民平等の世の中となり、米から金に経済の中心が変わるなど、国民生活も激変した。みたい。


渋沢の生涯は、まさにその疾風怒濤の流れをすべて体現した唯一の人物、と言っても決して大げさではなく、渋沢を知ることによって、日本の近代のスタートやその後の在り方を学ぶことが可能であり、現代に生きる日本人に様々な示唆を与えてくれる傑出した存在、それが渋沢栄一なのだ。そうだ。


てことで、渋沢栄一のことは全然知らないので、素直に調べたことをメモってそのまんま覚えておこう。




⚫︎ 生い立ちと渋沢家・家族


渋沢栄一は、天保11年(1840)2月13日、安部信発を領主とする岡部藩(2万250石)武蔵国榛沢郡血洗島(現在の埼玉県深谷市)の豪農であり、非常に勤勉家で厳格な父・渋沢市郎右衛門、慈悲に富んだ母・えいの間に誕生した。


父の市郎右衛門は、家業として麦作や養蚕の他に、他家から藍葉を買入れ、かつ自家でも作り、それを「藍玉」に製造して信州、上州、武州秩父郡の紺屋に販売した。主に信州が得意先であったが、上州伊勢崎や近隣の本庄などへも進出していた。


質屋・金融も兼業しており、こうした農工商・金融を営む豪農に生まれたことは、大実業家・渋沢の誕生に寄与したことは言うまでもない。また、母のえいは慈悲深い女性であり、ハンセン病の罹患者も分け隔てなく世話をしたらしい。その影響を大いに受けた渋沢は、社会福祉や医療事業に尽力することで母の生きざまを継承している。


なお、市郎右衛門は領主・岡部藩主安部家に対する多額の献金を怠らなかったため、苗字帯刀を許され、名主見習役に昇進している。しかし、あくまでも農民であったことに留意すべきであろう。渋沢は豪農の家に生まれてはいるが、身分はあくまでも農民であり、武士への憧れは、いつしか社会に対する反骨精神を掻き立て、渋沢を尊王志士へと成長させる。


嘉永6年(1853)、幕末の動乱を告げるペリー来航のこの年、渋沢は13歳であった。残念ながら、当時の渋沢の心情を直接伝える史料は存在しないが、『渋沢栄一伝記資料』綱文によると、大いに刺激を受けた結果、攘夷の念が芽生え始めたと後年語っている。


安政元年(1854)以降、14歳ごろまでは連日、読書・剣術・習字等の稽古三昧の日々であったが、家業を手伝い始めて近隣の村々を廻り、藍菓の買い付けも1人で行うまでに成長した。安政4年(1857)、17歳ころから信州・上州・武州秩父にある得意先廻りを1人で担当し始め、家業に対する熱意も沸いてきた。


このころの有名なエピソードとして、当時の特産地・阿波の藍に負けないものを作りたいとの思いから、近隣村々から藍菓を買い集め、藍の出来に応じて生産者の番付を作成した。そして、彼らを招待して番付に従って席順を定め、一番良い藍を作った人を上席に据えて饗応した。生産者の意識を高め、一層良い藍を作ることを奨励したもので、競争原理の導入である。17歳ころと言えば、今の高校生くらいの年齢であり、なかなかできる発想ではない。


安政3年(1856)、渋沢が16歳の時、画期となる事件が起こる。岡部藩は血洗島村に御用金1500両を要求し、既にこの段階で累積2000両以上を献金している渋沢の生家には、その三分の一にあたる500両を割り当てた。今の金額にして、最低でも1000万円以上にはなろうか。


父の名代として岡部陣屋に出頭した渋沢は、大胆にも代官に対して、一旦帰宅し父に報告の上、改めて回答する旨を申し述べた。代官は渋沢を侮辱し、直ぐにこの場で受諾するように強要したが、渋沢はこうした代官の理不尽な態度に憤り、その根源は幕政の在り方と考えて、社会矛盾を実感する契機となったと回想している。頑固の強情で物怖じしない性格が、この段階で既に垣間見える


これ以降、渋沢は後期水戸学に傾倒し、尊王攘夷を唱える従兄で学問の師匠ある「尾高惇忠」の影響も受け、従兄の尾高長七郎、渋沢喜作らと天下国家を憂えて、議論を繰り返すようになった。





⚫︎ 尊王志士・渋沢の誕生


文久元年(1861)、尊王志士としての活動を始めた渋沢栄一は、江戸に出向いて下谷練塀小路の儒者である海保漁村の塾やお玉が池北辰一刀流の千葉道場・玄武館に出入りを始めた。そこで渋沢は天下の有志と交流し、同志を獲得していった。そして、幕府を揺るがす大騒動を起こし、幕政の腐敗を洗濯して国力を回復することを計画した。とは言え、渋沢は志士活動を始めたことを父市郎右衛門に内緒にしており、この時は父との約束通り、約2か月後に帰郷している。


文久2年(1862)1月15日、水戸浪士や宇都宮藩の儒者「大橋訥庵(渋沢と面識があったか不明)」が計画した「坂下門外の変(老中安藤信正暗殺未遂事件)」が勃発した。渋沢の従兄弟で尊王志士となっていた「尾高長七郎」は、この事件に連座していた。


実は、長七郎はそれ以前に長州藩士の「多賀谷勇」と謀議し、上野寛永寺の輪王寺宮公現法親王を奉じて日光山に挙兵し、幕府を開国から攘夷に転換させることを画策していたのだ。長七郎は水戸藩を巻き込もうと考え、水戸まで出向いて、後に徳川慶喜の側近となる「原市之進」に協力を求めたが謝絶され、文久元年11月8日、宇都宮城下で大橋と密会して安藤襲撃に方向転換した。


長七郎は上州佐位郡の国領村に潜伏していたが、文久2年1月下旬、捕吏の探索が頗る厳しくなったため、渋沢は長七郎に切迫した情勢を伝えるとともに、京都に逃避することを強く勧めて同意を得た。よって、長七郎は信州経由で上京し、その後、即時攘夷を標榜する長州藩が席巻する中央政局の動静を、渋沢らに報告する役割を果たすことになる。


文久3年(1863)4月ころ、渋沢は再び江戸に出て海保塾および千葉塾に正式に入門し、これ以降の4ヶ月間、時々帰郷して攘夷について仲間と議論し、また「尾高惇忠」とともに武器類を買い集めて実家の土蔵に隠匿した。そして8月ころ、渋沢は惇忠、渋沢喜作と3人で幕政の腐敗を洗濯した上で、国力を挽回するため、攘夷実行の計画を密議した。


その内容は驚くべきもので、高崎城を乗っ取り、武器弾薬を奪略して横浜外国人居留地を焼き打ちし、外国人を残らず殺害するというものであった。渋沢らはこの無謀な計画を11月23日(冬至)に実行することを取り決め、その同志は総勢69名に上った。


10月29日夜、京都情勢の探索から帰郷していた長七郎も加え、下手計村の惇忠宅の2階で、渋沢・尾高兄弟・渋沢喜作・中村三平の5人で攘夷実行計画の最終判断のための会談を行った。


長七郎は八月十八日政変(即時攘夷を唱える長州藩や三条実美ら廷臣を追放)の勃発など、即時攘夷派が逼塞せざるを得ない京都情勢を説明し、計画の中止を主張した。渋沢は決行を主張して、大激論となったが時期尚早と判断し、最終的には中止と決定した。渋沢にとっては、断腸の思いであったことは想像に難くない。





⚫︎ 一橋家仕官の実相


元治元年(1864)2月初旬、渋沢栄一は尾高長七郎からの書簡を受け取った。何とその手紙は小伝馬町牢屋から出されたものであり、中村三平・福田義助とともに捕縛されたことを報じ、悪いことに幕政を批判し、攘夷実行の計画を記した渋沢の書簡を懐中にしたままであったことを知らせてきた。


長七郎が警戒を促したため、渋沢らは苦心焦慮して善後策を検討した。その最中の2月8日、渋沢らは「平岡円四郎」が一橋家へ推挙してくれたため、仕官することが叶った。平岡にはそもそも、渋沢らを慶喜の側近に取り立てたいという野心があったが、渋沢の窮地を救う体を取って、その目的を果たしたのだ。


渋沢は一橋家に仕官するにあたり、正式な仕官前に慶喜への拝謁を平岡に希望したが、前例がないと拒否された。渋沢は前例を持ち出すのであれば、農民を直に召抱える前例もないと、売り言葉に買い言葉で答え平岡を閉口させた。


渋沢は仕官辞退を言い張ったため、とうとう平岡が折れて、馬で遠出をする慶喜を待ち伏せして拝謁するという無茶なプラン提示した。渋沢は「自分の身体は其ころから肥満して居り、殊に背も低いから、駈あるく事は極めて難義であつた」(雨夜譚)とその時の苦労を語っている。この時、実際に言葉を交わしたかどうかは分からないが、事実上の拝謁を果たしたのだ。


渋沢は奥口番・御用談所下役出役(俸禄4石2人扶持、在京月手当金4両1分)で出仕し、4月中旬に御徒士に昇進して、ようやく正式に内御目見を許され、慶喜に意見を述べている。


渋沢は幕府の命運は危うい状態にあり、徳川宗家(将軍家)のためを思われるのであれば、一橋家の勢力を拡大して宗家を擁護すべきであり、そのためには「広く天下有為の士を招致すること第一の急務なり」(渋沢栄一伝稿本)と、人材の登用を勧説した。





⚫︎ 一橋家仕官と薩摩藩との関係


渋沢を推挙した平岡円四郎は、渋沢の政治力に目を付けており、その能力を非常に高く評価していた。そのため、一橋家に仕官した当初から、渋沢は御用談所に勤務し、一橋慶喜のために探索・周旋活動を行う非常に重要な政治的ポジションを与えられた。渋沢は常に朝廷・幕府・諸藩の関係者と接触を持ち、機密情報にも精通するなど大いに面目を施した。


そんな中、重大な任務が課せられた。平岡の密命を受けて大坂に下り、2月25日から4月7日までの間、薩摩藩士の摂海防禦御台場築造御用掛「折田要蔵」の門下生となり、スパイ活動に従事したのだ。


その間、渋沢は折田を通じて、薩摩藩のキーパーソンの面々、例えば奈良原繁・川村純義・三島通庸・海江田信義・内田政風・高崎五六らと懇意となっており、渋沢の情報は非常に貴重なものであった。


なお、沖永良部島での流刑を終えたばかりで、いきなり中央政局に復帰を果たし、渋沢と同様に探索・周旋活動を行っていた西郷隆盛とも、渋沢はこの時期に会っている。渋沢は禁門の変に向けた慌ただしい政治状況の下で、できる限り他藩の周旋担当者と接触を繰り返しており、西郷もその中の重要な1人であった。





⚫︎ 関東下向と天狗党の乱


元治元年5月、渋沢栄一は渋沢喜作とともに、人選御用(一橋家家臣の取立)のため関東に下向した。当初、千葉道場の門下生などの旧知の勧誘を行ったものの、多くが天狗党の乱に加勢するため出払っており、うまくいかなかった。


天狗党の乱とは、水戸藩で実権を握る保守派の諸生党と対立し、過激な攘夷行動に走る天狗党が幕府に攘夷の実行を促すため、元治元年3月に筑波山で挙兵した事件である。流血の党争を続けたが、天狗党は幕府の追討を受けて敗走し、一橋慶喜を頼って西上する。


なお、江戸到着時に尾高長七郎の救済に尽力するも不首尾となり、約5年間も投獄されたままであった。明治元年(1868年)4月9日、ようやく長七郎は赦免されて出獄したものの体調を崩しており、故郷に戻って療養した甲斐もなく、11月18日に逝去、享年31歳の若さであった。


さて、元治元年2月、平岡円四郎は側用人番頭を兼務し、5月に一橋家家老並、6月2日に慶喜の請願により太夫・近江守に叙任した。しかし、6月16日に在京水戸藩士江幡広光・林忠五郎らによって暗殺されてしまう


渋沢は大いに落胆悲憤したものの、黒川嘉兵衛が代って一橋家の主席用人として、平岡同様に渋沢を処遇してくれたため、渋沢もまた、発奮して職務に精励し始めた。


12月になると、天狗党の乱の残党は武田耕雲斎藤田小四郎(東湖の息子)に率いられ、慶喜を頼って西上を開始した。幕府の方針は、賊として討伐することに決したが、水戸出身の慶喜が天狗党と合体するのではと驚くほど幕府に警戒されていた。慶喜はその嫌疑を察し、禁裏守衛総督として、むしろ率先して諸藩兵を率いて大津へ出陣した。


渋沢も一緒に出陣し、常に黒川に随従して陣中の書記役を担当した。武田らは慶喜と争う気は毛頭なく、救解の訴願が無謀の策であることを悟り、12月17日に至って加賀藩に降伏を申し出たため、慶喜の命令で加賀藩は武田らを敦賀に禁錮した。


翌慶応元年(1865)、若年寄田沼意尊が幕命を奉じて上京し、2月4日から23日にかけて武田、藤田以下350人余を斬首に、450余人を流罪・追放に処した。苛酷に過ぎる処断となったが、渋沢は「小四郎氏を助けたいと、蔭ながら頻りに心配は致して見たが、実際上何等力の施しやうもなくして、恨を呑んで傍観したので、終に小四郎氏と幽明相隔つることに成った」(東湖会講演集)と述懐し、面識のあった首領の藤田を見す見す殺してしまったことを悔やんでいる。


天狗党の乱の残党の西上から慶喜に嫌疑がかかったことで、中央政局における一橋家の微妙で危うい立ち位置が明らかになった。渋沢も諸藩の手練れの周旋家に伍しながら、嫌疑を受ける慶喜のサポートに奔走した。


その結果、慶応元年1月15日、渋沢は謹厳に職務に務めたとして上司の深く信任するところとなり、小十人並(俸禄17石5人扶持、在京月手当金13両2分)に昇進し、御目見以上となり御用談所調方出役を兼務した。あっという間の大出世であった





⚫︎ 慶喜の将軍就任と渋沢の動向


渋沢栄一は、一橋家の中で経済官僚として順調に歩み始めていたが、時勢に翻弄されることになる。慶応2年(1866)6月7日、幕府艦隊による周防大島への砲撃から第2次長州征伐(幕長戦争)が開戦となった。


幕府軍は1年以上に及ぶ大坂滞陣に辟易しており、病気も蔓延して士気が停滞し、また薩摩藩を始めとする諸藩の出兵拒否にも遭っていた。幕府は散兵戦術に長け、薩摩藩の名義借りで購入した近代兵器を使いこなした長州軍に大敗を喫することになる。


戦争の最中の7月20日、将軍家モッチーが脚気衝心によって大坂城内で急逝した。家モッチーの遺言は、将軍候補として田安徳川家の7代当主田安亀之助(静岡藩初代藩主家達)であったが、まだ4歳であるため、和宮などが反対した。


もう、誰の目にも後継候補は一橋慶喜しかいなかったが、7月27日に慶喜は徳川宗家の家督相続を承諾したものの、実は手に入れたい将軍職は固辞し続けた。8月8日、慶喜は参内して松平春嶽らの反対を退け、自らの長州への出陣の勅許を奏請し聴許され、孝明天皇によって戦争の継続が沙汰された。


しかし、九州方面での敗報が届くと掌を反し、8月13日に慶喜は関白二条斉敬に征長出陣中止の勅命を内請し、孝明天皇は当初難色を示したが16日に勅許した。慶喜はこれ以降、諸大名を召集し天下公論で国事を決める姿勢に転じた。


8月11日、渋沢は従軍を命ぜられ、勘定組頭に御使役を兼任し御用人手附を拝命した。この時、渋沢は万が一に備え、手書および懐剣を夫人に贈って暗に永久の別れを告げた。


なお、7、8月ころになると、慶喜が将軍継嗣と取り沙汰されるに至り、渋沢は喜作とともに黒川嘉兵衛に代わって用心筆頭になった原市之進に対し、その不可である理由を切論した。


具体的には

「今の徳川家は死に体であり、慶喜が孤軍奮闘してもどうすることもできず、あるいはかえって滅亡を早めてしまうかも知れない。ここは将軍継嗣を辞退して、慶喜は幼君の補佐役に徹し、引き続き禁裏御守衛総督として尽力するのが得策である。そのため、兵力・財力が必須となるので畿内あたりで50万石ないし100万石の領地加増を計画すべきである」

と訴えた。

しかし、原から慶喜に直訴することを勧められ、それが叶わず、失望して鬱積状態となった。


9月7日、慶喜の宗家相続を踏まえて渋沢は幕臣となり、陸軍奉行支配調役に転身した。しかし、大所帯の幕府機構の中では渋沢の存在など芥子粒のようなもので、御目見え以下に格下げされ、直接慶喜に意見の具申はできなくなってしまった。


その後、書院番士大沢源次郎を新選組とともに出動して逮捕し、武勇を称揚されたが、勘定方を外されたため、11月に至り致仕(引退)を決意した。12月5日に至り、とうとう慶喜は将軍に就任したが、幕府・慶喜の最大の庇護者である孝明天皇が天然痘によって25日に薨去される不運に見舞われた。幕府瓦解は秒読み段階に入ったのだ





⚫︎ 渋沢の渡仏とヨーロッパでの動向


慶応2年11月14日、15代将軍徳川慶喜は実弟「昭武」をパリ万国博覧会使節としてフランスに派遣し、かつ5年間留学させることを決定した。渡仏の目的は、江戸幕府を代表してパリ万博に出席し、その後に欧州各国を訪問することによって幕府の存在を国際的にアピールすることにあった。


さらに、昭武を将来の指導者とするため、長期留学も計画されていた。28日、水戸藩家老へ昭武のフランス派遣を申し渡し、かつ御三卿の一つの清水家の相続を沙汰した。


昭武の随行員は事務全般を司る幕府官僚と身辺警護の水戸藩士となるが、両者の折り合いが悪くなることは自明であり、潤滑油的な存在が必須であった。慶喜はこうしたことに打って付けであり、しかもこのところ不平不満が多く、政務に精彩がない渋沢を起用することを決断した。慶喜の内命として随行の打診をうけた渋沢は、まさに明日への希望を感じて快諾した。


慶応3年(1867)1月11日、徳川昭武に従い横浜より乗船してフランスに向け出航し、御勘定格陸軍附調役として随行、約1年半の渡欧中は庶務・経理等を担当することになる。


昭武同行者は外国奉行・向山一履、博役・山高倍離、医師・高松凌雲、田辺太一、杉浦譲といった幕臣、昭武督護役の水戸藩士7名、伝習生、商人で万博に参加した清水卯三郎を含め総勢33名であった。上海・香港・サイゴン・シンガポール・セイロン・スエズ・カイロ・アレキサンドリア・マルセイユ・リヨンなどを経て、3月7日にパリに到着した。


パリ万博に参加後、渋沢は昭武に随行してヨーロッパ各地、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを歴訪し、11月22日にパリに帰着した。


ようやく昭武の各国訪問は終了し、これより勉学に打ち込むことになったが、渋沢の公私の事務の負荷はまったく寸隙なしの状態が続いた。新生活が始まってほどなく、明治元年(1868)1月、幕府瓦解の報が続々ともたらされ、一行は皆愕然とさせられた。





長かった。。けども確かに幕末の流れにピタッとリンクしていて、おさらいにはなった。この後の彼の真の活躍っぷりは、また別記事にて。




参考
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64521
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64524

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64525

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64529

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

こちらは一般社団法人「江戸町人文化芸術研究所」の公式WEBサイト「エドラボ」です。江戸時代に花開いた町人文化と芸術について学び、研究し、保存と承継をミッションに活動しています。