「しこうかいぎ」って響きがなかなかカッコいい。四天王みたいで。でも全然機能しなかったらしいじゃん。なんか前も「さんよかいぎ」とか言うのやったけどケンカ別れしてましたよね。懲りないねえw
⚫︎ 将軍になった慶喜がやな感じに覚醒
第二次長州征討の最中、14代将軍・家モッチーが大坂城で急死した後、後継者と見なされた徳川慶喜は、徳川宗家の継承のみ承諾したが、将軍襲職は固辞した。周囲から推され、それを断り切れずに就任する形式をとろうとしたためと言われる(既にうざい)。5ヶ月後の12月5日、ようやく慶喜は征夷大将軍に就任する。しかし、同月に孝明天皇が突然崩御。慶喜は治世序盤にして大きな後ろ盾を失うこととなった。
新将軍・慶喜にとっての大きな課題は、前将軍急死に伴って停戦したとはいえ未だ表向きは朝敵であった長州藩への処分問題と、諸外国と約束したものの孝明天皇の強い反対によって実現しなかった兵庫港の開港問題であった。
慶喜は、第二次長州征伐に失敗するなど、権威が失墜していた幕府を、幕府を中心とした朝廷との公武合体によって権威を回復し、政治の主導権を握りたいと考えていた。
兵庫開港問題については、業を煮やした諸外国が慶応元年(1865年)9月13日、イギリス公使ハリー・パークスの呼びかけにより、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が紀淡海峡を突破して兵庫沖に停泊し、開港を迫る事件が起きていた。
幕府が新たに結んだロンドン覚書では開港が5年延期され、西暦1868年1月1日(和暦では慶応3年12月7日)をもって兵庫開港の期日としていたため、慶喜の将軍就任時点では、あと1年しか残されていなかった。
フランス公使レオン・ロッシュは、早速2月6日に大坂城で慶喜と会見し、兵庫開港の履行を求めている。これを受け3月5日、慶喜は朝廷に兵庫開港の勅許を奏請したが、容れる所とならず、22日に再度上表。これも不許可とされる。
諸外国からは開港半年前(6月7日)までに国内にその旨を告知することが求められており、何としても5月中の勅許が必要であったため、慶喜は諦めることなく三度上表文を提出する。
その一方、慶喜は各国公使を大坂城にて公式に引見し「将軍の責任をもって兵庫開港を断行する!」と宣言。背景には、これまで強く反対してきた孝明天皇が昨年暮れに急逝し、「攘夷派の根強い朝廷を押し切る算段がついた」から、との見方が強い。
これにより、薩摩藩など幕府権威の低下を図る勢力を牽制し、幕府が日本を代表する政府であること、外交の主導権が厳然として幕府にあることを明示した恰好となった。すなわち兵庫開港は外交問題でありながら、国内の政局問題と強く連動していたのである。
イギリス公使ハリー・パークスも大坂城を訪ね、慶喜と謁見。さらに、他の列強代表とも会見が予定され、開港準備を着実に進めていく慶喜。慶喜の尽力によって、幕府に復権の兆しが見えると、倒幕を企む諸藩は「早く倒幕を実行しないと、幕府が再び強い力を持つようになっちゃう!」と警戒を強めた。
⚫︎ 四侯会議での攻防
そこで、慶喜から実権を奪うために、薩摩藩主・島津忠義の父「島津久光っちゃん」が中心となり、前・越前藩主「松平春嶽」、前・土佐藩主「山内容堂」、前・宇和島藩主「伊達宗城(むねなり)」の有力大名4名が「四候会議」を開くことに。
「再び国政に参画する時宜を失う訳にはいきもはん!」と決意を見せる久光っちゃん。この四侯会議によって、難航する両問題を解決に導くことができれば、勢力挽回につながると期待してのこと。
慶応3年 5月14日、慶喜は四侯を引見して国事を議するが、長州問題と兵庫開港問題のどちらを優先するかが、まず対立点となった。
久光っちゃんは、長州寛典論(藩主・毛利敬親が世子・広封へ家督を譲り、十万石削封を撤回、父子の官位を旧に復す)を唱え、兵庫問題よりも先にこれを決定すべきであると主張し、宗城が同調した。しかし慶喜は、長州寛典は幕府の非を認めることになる上、会議が薩摩主導の流れになってしまうことを恐れ、これに反対。
兵庫開港の期日が迫ってきていることを理由に、あくまでこちらを優先すべきと立場を崩さず、3年半前の「参預会議」と同様、慶喜と久光っちゃんの対立で会議は頓挫してしまう(ただし参預会議の際には、久光が長州即時懲罰を主張し、慶喜が横浜鎖港を主張するという全く逆の展開であった)。
結局、妥協が見られぬままこの日は、慶喜の提案により諸侯との記念写真を撮影しただけで散会となり、四侯側が慶喜から上手くあしらわれた恰好となった。
5月23日、タイムリミットの迫った慶喜は、決死の覚悟をもって朝議に臨んだ。本来朝命によって召集されたはずの四侯も全員が列席すべき立場であったが、すでに半ば諦め気味の雰囲気が漂い、結局春嶽、宗城の2人が参席したのみである。慶喜の意気込みにもかかわらず朝廷側の抵抗も激しく、「先帝の御遺志」を盾に兵庫開港許可を拒んだ。
板挟みにあった二条摂政は、結論の先延ばしを図る。しかし、夜半の休憩中にも慶喜は春嶽に「今回ばかりは議決するまで何昼夜かかっても退去しない覚悟である。さもなくば必ず(大久保・西郷らの)工作が再開されてしまう」と述べ、驚異的な粘りを見せた。
翌日未明に至り、あまりの会議の長さに散会しようとした二条に対して、大納言・鷹司輔政が「天皇も将軍も良しとする勅許をこの会議で決められないようでは天下は乱れ、朝廷も今日限りである」と発言。父の輔煕にたしなめられるが、これを機に朝臣らも二条の優柔不断を責める流れとなり、ついに明け方、摂政が折れ、兵庫開港および長州寛典論を奏請し、明治天皇の勅許を得ることが決定した。
慶喜が主導して徹夜の朝議で勅許を勝ち取ったことは、一連の政局における慶喜の完全勝利と四侯会議側の敗北を意味した。薩摩藩の目論見は完全に潰され、しかも皮肉なことに、この会議によってかえって慶喜の政治家としての有能さが示される結果になった。
⚫︎ 会議崩壊の影響
薩摩藩の西郷、大久保らは四侯会議の失敗を受け、戦略の変更を余儀なくされる。こうして追い詰められてしまった薩摩藩では、反対に「もはや武力討幕しか、薩摩藩の主導権を保持する道はない」という意見が優勢となり、慶応3年(1867年)5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、西郷、小松帯刀らは土佐藩の討幕派の重鎮・乾(板垣)退助、谷干城らと「薩土討幕の密約」を締結。5月25日、薩摩藩邸で重臣会議が開かれ、武力討幕に舵を切ることが確認された。
すなわち、もはや列侯会議で幕府(および慶喜)を牽制するのは不可能であるとして、島津斉彬以来維持してきた公議路線を放棄し、武力倒幕路線を指向することとなる。軍役奉行・伊地知正治はこの倒幕の方針を久光っちゃんに伝え、これに久光っちゃんも半ば同意した。(久光っちゃんは武力による倒幕は諸外国の介入を招く恐れがあると懸念をもっていた)
薩摩藩は秘かに岩倉具視と結び、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之らの協力を得て「討幕の密勅」降命に向け、工作することとなる。
なお、薩土討幕の密約の際、乾(板垣)退助が、江戸築地の土佐藩邸(中屋敷)に独断で匿っていた水戸浪士・中村勇吉、相楽総三、里見某らを、彼らの安全確保のため薩摩藩邸への収容を依願し、西郷は即諾。この水戸浪士たちが、のちに庄内藩などを挑発し、戊辰戦争の前哨戦「江戸薩摩藩邸の焼討事件」へと発展することとなる。
一方、四侯会議の途中から欠席するなど薩摩と距離を置き始めた山内容堂は、むしろこの後、徳川家擁護の姿勢へ傾斜を深めていく。同年6月、坂本龍馬から大政奉還等の進言を得た土佐藩の「後藤象二郎」は、容堂にこれを進言する。徳川家存続の妙策と考えた容堂は、慶喜に大政奉還を建白した。その結果、薩摩側の討幕の密勅工作の機先を制し、10月14日に大政奉還が実行されることとなる。
。。こととなる、が多くて文章的にイラっとくるが、それだけこの四侯会議の破綻が様々なことの分岐点になったと言うことであろう。急に慶喜が有能さを発揮しよって、久光っちゃんはさぞかし悔しかったろうのう。
このラスボス慶喜をどげんかして倒さなければ、新しい国ば作れんぞ。
さあ、どげんする西郷どん。チェストー!
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/四侯会議
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