この大政奉還らへんがホント何がどうなってたのか、よう分かりませんまま45年くらい生きております。薩摩が幕府を見限って長州と薩長同盟を結んだあたりはまあ分かるのだが、薩土密約と薩土盟約って何さ。密約と盟約は何か違うわけ? 一緒なわけ?
てか「土佐ボス山内容堂」さんは幕府擁護派になったんだっけ? んで「エージェント中岡慎太郎」はバリバリ討幕派だっけか? ほな「坂本龍馬」はどっち派なん? ここへ来て急に登場してきた「乾(板垣)退助」は?
てことで大政奉還に行く前に、頭こんがらがってるので、そこんとこ一回整理してみましょうかね。
⚫︎ 薩土密約
薩土密約は、江戸時代後期(幕末)の慶応3年5月21日(1867年6月23日)に、京都の「小松帯刀」の寓居にて、薩摩藩と土佐藩の実力者の間で交わされた、武力討幕のための軍事同盟。「薩土同盟」とも呼ばれるが、性質の異なる「薩土盟約」も「薩土同盟」と呼ばれるため区別して「薩土討幕の密約」ともいう。
土佐藩士が来たる「鳥羽・伏見の戦い」に際し、参戦する根拠となった密約であり、これを起因として始まった「戊辰戦争」においても、官軍側の勝利に貢献することになる土佐藩の参戦を確約した軍事同盟である。
背景としては、慶応3年5月、江戸にいた土佐藩の乾(板垣)退助が、在京のエージェント中岡慎太郎より、四侯会議の不発を嘆く手紙を受け、急ぎ旅装を整えて上洛。同日、京都の料亭でエージェント中岡と会見し、武力討幕を密談したことに始まる。
翌日、T助(退助)は、山内YO堂に拝謁を請うが許可されず、エージェント中岡が薩摩藩の西郷どんとT助を会見させようと奔走。この中岡の仲介により、同日夕方、西郷どん&小松帯刀らと会談し、T助は「戦となれば、藩論の如何に関わらず、必ず30日以内に土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する!するったらする!」とその決意を語り、薩土討幕の密約(薩土密約)を締結した。
翌日、T助はこれを土佐ボス山内YO堂に稟申し、同時に勤王派水戸浪士を江戸藩邸に隠匿している事を告白。土佐藩の起居を促した。YO堂はその勢いに圧される形で、この軍事密約を承認し、T助に軍制改革を命じる。土佐藩は、T助を筆頭として軍制改革・近代式練兵を行うことを決定。薩摩藩側も重臣会議を開き、藩論を「武力討幕」に統一することが確認された。
できる男エージェント中岡は、T助の武力討幕の決意をしたためた書簡を、土佐勤王党の同志あてに送り、土佐勤王党員ら300余名の支持を得ることになった。(これがのちの迅衝隊の主力メンバーとなる)一方、幕府側は、近藤勇ら新撰組隊士を幕臣として召抱え、勤皇派の取締りを強化している。
なるほど、つまり、T助が熱く討幕路線に燃え上がって、それをエージェント中岡が西郷どんへと仲介し「密約したんでもうその方向でいっすよね!」な空気にボスYO堂が「お、おう」みたいな感じってことか。
⚫︎ 薩土盟約
薩土盟約は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年(1867年)6月下旬から同年9月上旬まで結ばれていた、薩摩藩と土佐藩の間の政治的提携。幕府崩壊寸前の時期に政局を主導する15代将軍徳川慶喜と、討幕路線の薩摩藩が対立する中で、土佐藩が大政奉還・王政復古を通じて、平和的手段で公議政体へ移行すべく提起した連携案に薩摩藩が同調したもの。
中岡慎太郎、乾(板垣)T助らによって薩藩とは討幕の密約を結んだものの、山内YO堂は徳川宗家への強い恩顧意識があり、心中の揺れ動きの幅が大きく、討幕への意欲が不安定であった。そのため、幕府の力を段階的に削ぐための方策として、6月22日、薩摩の小松帯刀、大久保、西郷らと会談し、大政奉還の策を進めるために薩土盟約を締結する。
すなわち議会政治の採用による新政の開始への手段として大政奉還による王政復古を採択し、武力倒幕を原則回避する方針となったのである。
強固なる武力討幕を目指すT助へは当初、この薩土盟約の存在が伏せられ、また、穏健に将軍家を維持する方策を模索していた、寺村道成、後藤象二郎へは反対に薩土討幕の密約の存在が伏せられていたという。
ふむふむ、さすがYO堂さんは冷静だね。戦をしないで済むなら、それに越したことはないわけで。大戦争回避のためのムーブ、素晴らしいことじゃないっすか。逆にT助って過激でヤバい奴だったんだ、と初めて知った。
ちなみに、武力倒幕路線を決意していた西郷・小松・大久保ら薩摩藩在京幹部がこの時期に、即時挙兵とは反対の平和路線をとる薩土盟約を結んだ理由については、様々な説が出されているらしい。↓
A.戦略的理由による原因
1. 大政奉還建白を徳川慶喜が拒否することを見越して、そこに倒幕の大義名分を求めるため。
2. 土佐の提案に賛成することで再び山内容堂を政局に引きずり出すため。
3. 政局が武力倒幕論と平和倒幕論(大政奉還)のどちらに転んでもいいように二股をかけるため。
4. 薩摩藩内の武力倒幕反対派への妥協のため。
B.武力倒幕派の立場上の制約
1. 実現困難な武力倒幕論は、現実味のある公議政体論と異なる権力構想を打ち出せなかったため。
2. 王政復古後の政権構想を持っていなかった薩摩が、来るべき政権の構想を提示した土佐提案に活路を見出したため。
3. この時点(慶応3年6月)ではまだ薩長の武力倒幕路線が正式な方針として確定しておらず、藩内に異論が多かったため。
なお、この中でA-1説が最有力と見なされており、後に西郷どんが「大政奉還建白は必ず幕府の拒否にあうだろうから、それを大義名分として幕府と対決する」と明言していることからも裏付けられている。すなわち薩摩側は、はじめから大政奉還建白が拒否されることを見越して、大義名分を得るための手段ととらえており、むしろ幕府へ与える軍事的プレッシャーの一助として土佐藩の兵力に期待して連携したのである。
西郷どんやらしいわ〜。けど、こうゆー詰め将棋みたいな政治バトルは好き。まさに慶喜 VS 西郷&大久保の頭脳戦ですな。
⚫︎ しかし盟約は破綻する
盟約締結後、すぐさま土佐藩の兵力を率いて帰京する予定の後藤であったが、実際には主に2つの大きな理由によって大幅に遅れ、盟約破綻の原因となった。その理由とは、土佐ボスYO堂の「出兵無用論」と「イカルス号事件」の処理による遅滞である。
7月8日に高知に到着した後藤・真辺・寺村らは、翌9日YO堂に面会して薩摩藩との盟約について説明した。YO堂は盟約の主旨である王政復古・大政奉還の方針に関しては大いに賛成した。しかし、そのための手段として兵力を用いることに関しては「脅迫以外の何者でもなく不本意である」として、同意しなかった。この容堂の出兵無用論が、後に薩土盟約破綻の最大の原因となる。
またイカルス号事件とは、7月6日長崎でイギリス船籍のイカルス号乗員の水兵が殺害された事件で、下手人が土佐出身の海援隊士であるとの容疑がかかっていた。英国公使パークスは知らせを聞くと激怒し、自ら高知へ赴いて土佐藩が犯人を隠匿しないように圧力をかけようとしたほどである。
幕府は対応に困り、土佐藩在京幹部に急ぎ帰国してパークスの応接をするよう命じたため、佐々木と由比が薩摩藩船三邦丸を借用して帰国することとなり、坂本龍馬も随行した。8月6日に土佐に到着したパークスに対して、後藤が交渉を命じられ、下手人が土佐人である証拠はないと主張して譲らず、パークスを激怒させたが、8月8日には交渉が妥結。パークスは高知を去った。(実際、誤解だったらしい)
こうして事件が一段落した後の8月20日、藩主山内豊範は家臣を城に召し、最近倒幕論を唱える者がいるようだがもってのほかであり、自らの下知(指令)を待つべきであると宣言。同日夕刻YO堂・豊範は重臣を召集して、大政奉還の建白について後藤と寺村が上京して従事すること、土佐藩兵の上京は見合わせることを正式に通達した。
9月3日の会談で、西郷どんはYO堂が出兵の決断を下したかどうかを尋ねたが、土佐メンらはYO堂の出兵無用論を伝えたため、西郷はその場では返答せず、改めて京都で両藩協議を行うこととした。
9月7日、後藤が西郷・小松をそれぞれ訪問したが、その際薩摩側から「先日の合意に反し、挙兵を急ぐことになった」と返答され、後藤が懸命に説得するも西郷らが翻意することはなかった。土佐側は事態の急変に驚愕する。9日には後藤・福岡が小松・西郷・大久保と再び会談し、正式に薩土両藩の盟約は解消された。
薩摩が土佐との盟約解消に踏み切った理由としては、一般的には後藤の大幅な遅滞と、約束していた兵力を引率してこなかったことに求められることが多い。しかし、決定的理由とは言い難く、盟約解消の理由はむしろ薩摩藩側の事情にあったと考えるのが自然である。
これについては、当時武力倒幕を行うための好機が到来したことと、大政奉還が実現しそうな気配が高まり、それによって倒幕挙兵が不可能となってしまうことをおそれたため、という説をはじめ、他にもいろいろ諸説あって、いまだ確定しているとは言い難い。
薩土両藩が最終的に盟約を解消した9月9日の前日(9月8日)に、薩摩藩は長州藩・芸州藩との間で三藩連合による共同出兵計画を策定しており、土佐にはそれが知らされていなかった。大久保はこの出兵案を携行して山口へ赴き、9月18日に毛利敬親・広封父子に拝謁。翌日昼には長州藩と、同日夜には芸州藩とそれぞれ派兵協定を結んでいる。
9月25日頃には薩摩藩兵を乗せた軍船が三田尻に寄港し、長州藩兵と合同して大坂湾へと出港する手筈であり、倒幕派の計画では、9月中にこれらの上京兵力を背景に「政変」を起こし(この時点ではまだ倒幕ではない)、王政復古を実現して最終的な倒幕に持ち込む予定であった。
一方、土佐藩は薩摩との盟約解消後も予定していた大政奉還の建白書をめざし、薩摩藩の協力を求め続けていた。9月23日には西郷どんに対し、翌日に建白書を老中へ提出予定であることを通告する。西郷どんは上記の武力「政変」の実現を念頭に、土佐藩へ提出をしばらく待つように要請するが、計画を知らない土佐側は当惑する。
同日、大久保が帰京し、27日に後藤は大久保に建白書提出について相談。このように土佐側は建白提出による孤立化を回避するためあくまで薩摩藩の協力を求めようとしていた。ついに10月2日、小松が土佐藩へ建白書を提出しても差し支えないと伝え、これを受けて土佐藩は翌10月3日、山内YO堂署名の建白書を、老中に提出した。
さて、これらの動きを受けてラスボス慶喜がどう出るか見ものですな。乾(板垣)T助さんはこの間、一回お休みのご様子。しかし、その鬱憤は戊辰戦争の開始と共に爆発することになるのだが、それはちょっと先のお話。
とりあえず、薩土討幕の密約と、薩土盟約の違いやその背景は分かりました。と同時に、討幕と倒幕の文字もちゃんと使い分けられてることを知り、この先ブログ書く上で気をつけなきゃいけないことが増えて、ちょっとゲンナリしたのでありました、とさ。
あ〜〜幕末しんど〜。
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/薩土密約
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/薩土盟約
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