vol.130「大政奉還」について

ラスボス慶喜が思わぬ政治力を発揮し、四侯会議を軽く蹴散らした結果、薩摩藩は武力討幕を決意。そこへ戦争を回避したい土佐藩から折衷案的な「大政奉還」の建白書が幕府に届く。それを見た慶喜は、、?




⚫︎ 慶喜の思考(想像)


、、は? 大政奉還? 政を朝廷に返せってか? なにそれふざけてんの? いやいやいや、これまで250年以上もこの国をまとめ守ってきた徳川将軍家に対して、失礼すぎじゃね? こんなん受け入れらるわけねーし。なんなのバカなの? え、逆にワンチャン受け入れてくれるかもとか思った?


YO堂の奴、薩長にビビって弱腰になりすぎじゃね。あいつどっちつかずでフラフラしてかっら薩長につけこまれんだよ。オメーが四国でギロッと薩長に睨み利かさねーでどーすんだよ。こんなバカな建白書はな、こーやってビリビリに破いて突き返してやればいーん、、


ん? 待てよ? YO堂がこの建白を持って来たってことは、薩長も承認済みのはずだよな。あのコウモリYO堂が薩長に伺いも立てずに動くわけないもんな。ってことは薩長もワンチャン大政奉還OKの可能性に賭けてんの? う〜んそれは考えにきーし、なんかおかしいぞこれ、、


却下されるに決まってる提案をわざわざしてきたということは、ははーん、さては罠だな。ずる賢い薩長のこった、俺がこれを拒んだことを大義名分として正式に天皇から討幕の勅許をもらおうって腹か。そしたら幕府の権威は地に堕ちて恭順する藩も減り、兵の数の利を失わせることができるってか。


あぶねーあぶねー、怒りに任せてビリビリに破いちゃうとこだったわ。ほんなら返事は、前向きに検討中ですとか言っときながら、しばらく寝かせときゃいーか。そんで時間稼ぎしてるうちにフランスから武器いっぱい買って、今度こそ長州ぶっ潰して、それから薩摩も、、


いや待てよ? まさか俺が時間稼ぎすることも奴らお見通しってか? うん間違いない、絶対それも予想してるに決まってる。時間を稼がれたくない薩長としては俺が返事をしてもしなくても、今このタイミングで体制をひっくり返したいはずだもんな。


なーんせ孝明天皇には死なれ、神戸開港を断行した俺に対して、世間がええじゃないかええじゃないかと討幕ムードで盛り上がってっからなー。俺を引きずり降ろすなら今こそ絶好のチャンスであって、時が経ったらまた俺が盛り返しちゃうかもだし。


けど問題はその方法よ。政治ゲームでは俺に敵わないのは四侯会議で嫌ってほど味わせてやったかんな。となると武力しかないはず。でも武力行使には大義が必要。だが俺は罠にかからない。罠にかからないなら奴らどーする? 強引に大義名分をつくるしか、、


そうか、討幕の勅許をでっち上げちまえばいーんだ。孝明天皇が亡くなって、幼い帝の今なら朝廷のアホどもを脅して丸め込んじまえばニセの勅許なんて簡単に作れるわ。それを持って堂々と戦えばいーだけか。初戦さえ勝ったら流れは向こうのもんだし、負けても幕府を勅許に逆らう朝敵扱いできるって寸法か。


てことは、おそらく今まさにニセ勅許づくりの真っ最中だなさては。おいおい慶喜ピーンチ!じゃんかよ。チッ、マジあのええじゃないかブームうぜー。戦って幕府が勝ったら余計に討幕ブームに燃え上がるんだろどーせ。誰だよアレ流行らせたやつ!


やべー、もうちょっと詰みかけてんじゃん。だーどうしよ? どうする慶喜? 家康さまだったらここでどーする? あー今ここに渋沢がいたら相談できるのにぃ〜早く帰ってこいよ〜栄一! 俺以外にも有能な奴いねーと回るもんも回ら 、、


は! それだ! 有能な奴がいないのは朝廷だって同じこと。大政奉還で政を返してやったところで、朝廷が急に諸藩をまとめて国を回せるわけねーんだから、どーせ徳川に頼らざるを得ないっしょ。だし結局、実権を握るのは俺のまんまじゃんか


それなら今あえて大政奉還にパッと応じちゃったら面白くね? そしたら幕府が消えちゃうわけだから薩長は討幕したくてもできなくなんじゃんw それでいて俺と徳川家は新政府の中で天皇の右腕として君臨し続けるってわけ。さすが俺ちゃん、ナイスアイデア!


おっと、こうなりゃ全は急げだぜ。薩長がニセ勅許つくっちゃう前にサクッと大政奉還して先越したろ。奴ら予想外だろな〜、なぬー!大政奉還しただとぉおー!?てなるだろな〜w うける〜w




⚫︎ ホントに作ってた「討幕の密勅」


討幕の密勅とは、江戸時代最末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、薩摩藩と長州藩に秘密裡に下された、徳川慶喜討伐の詔書、または綸旨である。


日付は、薩摩藩に下されたものが10月13日付、長州藩に下されたものが同月14日付であり、いずれも廷臣である中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の署名がある。薩摩藩宛は正親町三条が、長州藩宛は中御門が書いたと言われるが、岩倉具視の側近玉松操が起草しており、岩倉が主導的な役割を果たした。


10月13日、まず薩摩の大久保利通が長州の広沢真臣を伴って岩倉を訪ね、朝敵となっていた長州藩主父子の官位復旧の沙汰書を受けた。翌14日、正親町三条邸にて大久保と広沢に密勅が手渡され、薩摩の小松清廉、西郷隆盛、大久保と長州の広沢、福田侠平、品川弥二郎が署名した請書を提出した。この密勅と同時に、薩長両藩には会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬の誅戮を命ずる勅書も次の如く出されている。


一方、徳川慶喜は10月14日に大政奉還を上奏し、翌15日に朝廷に受理された。このため討幕はその名目を失い、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日に薩長両藩に対し下された。


律令制が完全に崩壊して久しい江戸時代にあっても、天皇が「詔書」を発するには、律令に定められた以下の手続きを経る必要があったが、この討幕の密勅は御画可、御璽を欠き、太政官の主要構成員の署名がなされていない。即ち、密勅は正式な詔書ではない






⚫︎ 電撃解散的に大政奉還が実現


大政奉還は京都の二条城でおこなわれた。江戸幕府の本拠地は、もちろん江戸であるが、なぜ江戸城ではなく、二条城で大政奉還がおこなわれたのか。その大きな理由は「慶喜が切羽詰まっていたから」と言われている。当時、慶喜は京都におり、“いつ倒幕されるかわからない”状況にあった。江戸に戻っている余裕はない、そうした中での大政奉還だったのである。


実際、同じ京都で、朝廷から討幕の許可をもらおうと、薩摩藩と長州藩も秘密裏に動いていた。討幕許可が出されたのは10月14日。大政奉還上表と同じ日。まさにギリギリ間に合った大政奉還だったのであった。この慶喜の見事な機転により、薩長による討幕の名目は失われた。さらに、薩摩藩らの最大の関心事であった将軍職辞任には一切触れておらず、なお慶喜は武家の棟梁としての地位を失っていなかった


実際に朝廷は外交に関しては全く為す術が無く、10月23日に外交については引き続き幕府が中心となって行なうことを認める通知を出した。11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告、28日のロシアとの改税約書締結を行ったのは幕府であった。


朝廷は慶喜に当分の間引き続き庶政を委任し、諸大名に上京を命じたものの、形勢を観望するため上京を辞退する大名が相次ぎ、将軍職を巡る慶喜の進退に関し何ら主体的な意思決定ができぬまま事態は推移した。11月中に上京した有力大名は薩摩・芸州・尾張・越前の各藩のみで、土佐藩の山内容堂が入京したのがようやく12月8日(1868年1月2日)であった。王政復古が勃発するのは翌12月9日(1868年1月3日)である。この間、土佐藩は坂本龍馬を越前藩に派遣するなど公議政体構想の実現に向けた努力を続けていた。


予想外の大政奉還の動きに倒幕派は混乱し、小松帯刀や吉井友実、岩倉具視のように大政奉還を行った慶喜を評価するものも存在した。このため混乱を避けるため武力蜂起の計画を立てていた薩摩藩はしばらく様子見をすることとなる。10月21日には諸侯会議収拾までの間、諸政を幕府に委任するかどうかという諮問が朝廷から行われているが、薩摩藩もこれに賛成している。


しかし大久保利通・西郷隆盛ら薩摩藩の武力倒幕派は慶喜への警戒を解かず、最終的には武力による幕府打倒で藩論を統一し、11月29日には藩主・島津茂久の率兵上洛、12月9日(1868年1月3日)の王政復古へと向かっていくことになるのであった。




と、いうことらしい。慶喜がナイスな機転で討幕派の戦略をヒラリとかわす様が、なかなか爽快ですね。さぞかし討幕派は、詰め将棋で描いていた作戦を見事にすり抜けられて「なぬぅ!?」だったことかと。


このまま西郷どんが大人しく新体制に従ってくれりゃあ、本人も多くの人々も死なずに済んだろうに、やっぱこのままじゃ収まらんのですわね。。



参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/討幕の密勅
https://terakoya.ameba.jp/a000001579/

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大政奉還

一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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