vol.139「鳥羽・伏見の戦い」について(後編)


錦の御旗の登場により、旧幕府勢力が賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺。




淀藩の裏切り

1月5日午後、淀城下は鳥羽街道方面から後退してきた旧幕府軍部隊と伏見街道方面から後退してきた旧幕府軍部隊が合流し、過密状態であった。旧幕府軍は淀城を拠点にして新政府軍を迎え撃つべく、淀藩に旧幕府軍部隊を入城させるよう求め、滝川具挙が代表となって淀藩と交渉を行なった。淀藩の稲葉家は譜代であり、藩主稲葉正邦は当時老中であったため、当然入城が認められるものと期待されていた。


しかし、藩主が江戸在府のため不在である中、稲葉家の家臣達は、稲葉正邦の義兄で尾張藩の前藩主である徳川慶勝からの中立の要求や、新政府軍からの圧力もあり、開門を拒絶した。そこで旧幕府軍は淀からも撤退し、淀小橋、淀大橋を焼いた後、八幡、橋本方面へ後退した。橋が焼け落ちたため新政府軍は舟で宇治川を渡河し淀に入った。淀藩は新政府軍に対して開城し、淀は新政府軍によって占領された。



近江方面の動き

一方、旧幕府軍では伊勢方面から京都に向けて援軍として騎兵1個中隊と砲兵1個大隊が発進していたが、3日夜になって大津に潜入していた偵察から既に大津には新政府軍が入っているとの報告が入った。これは大村藩兵50名のことであったが、旧幕府軍の援軍は大津に新政府軍が結集していると誤認して大津から京都を目指す事を断念し、石部宿から伊賀街道を経由して大坂に向かうことになった。


4日になると、朝廷から改めて命令を受けた佐土原藩・岡山藩・徳島藩の兵が大津に入り、彦根藩もこれに合流した。これによって5藩合わせて700名となり、6日は更に鳥取藩兵と参謀役の木梨精一郎(長州藩)を大津に派遣するも、新政府軍側が危惧したこの方面からの旧幕府軍の侵攻は発生しなかった。


近江方面の戦況について、大久保は5日付の蓑田伝兵衛宛の書状で、井伊直弼などを輩出した譜代の大藩である彦根藩の旧幕府からの離反に皮肉を込めつつも、彦根藩が味方に付いたことで背後(近江側)の不安がなくなり、旧幕府軍の支配下にあった大坂から京都への物資の流入が止まったとしても、近江から京都への兵糧米の確保が可能になったと記している。


また、東久世通禧も後になって大村藩が素早く大津を押さえたことで、旧幕府軍からの京都侵攻とこの戦いで未だに態度を決しかねていた諸藩部隊の新政府からの離反を防いだこと、同藩が大津にある彦根藩の米蔵にある米の新政府への借上げを交渉したことなどをあげて、大村藩の功労が格別であったことを述べている。



橋本の戦い

5日夜、勅使四条隆平は西国街道上の山崎関門(梶原台場)へ赴き、山崎一帯の津藩兵を指揮する藤堂采女を説得して寝返らせ、これらの津藩兵を官軍とした。


6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。旧幕府軍は木津川と男山に挟まれた科手、山上に石清水八幡宮のある男山、その東側の山麓にある八幡に、桶や俵に砂を詰め畳を立てかけた胸壁を作って野戦陣地を構築し、やや後方の橋本にも砲台を築いていた。幕府陸軍歩兵小隊4個、砲2門、京都見廻組、遊撃隊、会津兵、桑名兵らが守備に当たった。


早朝、淀大橋が焼け落ちていたため新政府軍の多くは木津川を舟で渡河し、一部の部隊は徒渉した。渡河中の新政府軍への攻撃はなく、少数の監視兵との戦闘があったのみで新政府軍は容易に木津川左岸に展開した。


午前8時、新政府軍は右翼隊、中央隊、左翼隊の三方面に分かれて攻撃前進した。八幡に展開していた旧幕府軍の右翼の抵抗は軽微で新政府軍が攻撃すると町に火を放って退却した。しかし科手、および正面の男山の陣地を守る旧幕府軍の抵抗は頑強で新政府軍の右翼および中央の攻撃は進展しなかった。


しかし、新政府軍の左翼隊が前進すると旧幕府軍が包囲され、また新政府軍の砲弾が旧幕府軍の陣地内の民家に命中して爆発炎上すると動揺が生じた。旧幕府軍は後退して橋本の砲台に入ると、そこで体勢を立て直し、多数の砲で砲撃して新政府軍との間で激しい砲戦となった。 しかし、午前11時頃、橋本から淀川を挟んで対岸にあたる山崎の一帯を守備していた津藩兵が高浜砲台(高浜船番所)から旧幕府軍へ砲撃を加えた。


先述の通り津兵は勅使四条隆平の説得によって新政府軍に寝返っており、四条隆平は津兵の砲撃を監視して朝廷に報告した。旧幕府軍は津藩を味方と思っており、思いもかけない淀川対岸からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなった。楠葉台場からは右岸へ向けて反撃の砲撃が行われたが、左岸にも新政府軍が現れた。陸路からの攻めに弱かった楠葉台場も放棄された。


この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷を負い、後に死亡した。竹中重固、滝川具挙、会津藩家老の田中土佐ら指揮官は枚方に陣を敷いて新政府軍を迎え撃とうとしたが敗走する旧幕府軍部隊を引き止めることはできず、更に守口まで後退した。そして慶喜からの撤退命令によって大坂へ退き、大坂城に入城した。



慶喜一行の大阪城脱出

慶喜には初めから戦意がなく、将校・兵士らが北進のあとも、一度も大阪城を出ず、この数日、風邪をひいていて寝巻のまま、ほとんど布団の中にいた。鳥羽・伏見の戦いが開戦した報しらせを聴くと、慶喜は万事休すと決心し、ことさらに内にこもっていた。


4日、開戦の報せにともなって、帰京する福井藩士・中根雪江へ託し、慶喜は直書を尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、紀州藩主・徳川茂承、宇和島藩主・伊達宗城、熊本藩主・細川護久らへ連名で送って、


「奏聞(天皇へ申し上げること。慶喜の先供として入京したと伝えること)の次第はあっても、輦轂れんこくの下(天皇のおひざ元)で武器・防具は動かさぬよう、かねて兵隊らへ申し諭しておいたのに、相手からすでに発砲されてしまったからにはこの後の形勢は心配である。くれぐれも鳳輦ほうれん(天皇ののりもの。間接表現でうやまった天皇のこと)を守護していただくよう、厚くお頼み申す」


と書いた。

やがて錦旗が掲げられたのを聴くと、慶喜はますます驚いて


「あわれ、自分は朝廷に対し歯向かう意思などつゆばかりも持っていないのに、賊名を負うにいたったのは悲しい事だ。最初に、たとえ家臣の刃にたおれても命のかぎり会桑(会津藩、桑名藩)をさとし帰国させておけば、ことここに至ることはなかったろうに。部下がわが命令をきかない腹立たしさで、『いかようにとも勝手にせよ』と言い放ってしまったことこそ一期の不覚だ」


と悔恨の念に堪えず、いたく憂鬱になった。


6日、慶喜は大阪城で会津藩士・神保修理に「事ここに至っては、もはやどうしようもありません。速やかにご東帰なさり、落ち着いて善後策をめぐらされるべきです」との建言を受け、若年寄・永井尚志もこの議論に賛同した。


初めに大阪城へ戻ったとき、たとえ暴発しつつある藩屏に刺し殺されようとも会津藩・桑名藩へ諭して各々帰国させ、その後みずからは再び朝命の通り御所へ参内し『今は一己の平大名にすぎないため、願わくば前々通りお召し使い下されるべきです。朝廷の御為には粉骨砕身つかまつります』と天皇家(朝廷)へ懇願すればよかったと後悔していた慶喜は、元日、討薩に勢いづく会桑二藩を諭し得ず『なんじらのなさんとするところをなせ』『いかようにとも勝手にせよ』と言い放ってしまい、つづけて鳥羽・伏見の戦いが発生した事を一期の失策と考えていた。


慶喜はこの後悔のさなか、神保による建言を聴いたため、寧ろその説を利用して、徳川宗家の居城・江戸城へ帰って堅固に天皇家(朝廷)へ恭順謹慎しようと決心したが、心に秘めてそうは人には語らなかった。


試しに諸有司・諸隊長らを大阪城・大広間に招集し、「この上はどうすべきか」と尋ねると、いずれも血気にはやる輩のみで、みな異口同音に「少しでも早くご出馬遊ばされるべきです」というのみだった。慶喜は彼らを良きほどにあしらい置いて、老中・板倉勝静と若年寄・永井尚志を別室に招き、恭順の真意は漏らさずに、ただ東帰の事について告げた。


板倉・永井両人が「ともかくも一旦ご東帰の方がよろしいかと」と言ったため、慶喜はいよいよそうしようと決心し、再び大広間へ出て形勢をみると、依然として藩屏が慶喜へ出馬をしきりに迫ってきた。このため慶喜は「では、これから打ち立つぞ。みなの者、用意せよ」と命じると、一同は喜び踊っておのおのの持ち場へ退いていった。


この隙に、慶喜は老中・板倉勝静、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬ら4、5人の者を従え、ひそかに大阪城の後門から抜け出た。城門では衛兵に咎められるかもしれないといたく気を遣っていたが、「ご小姓でござる」と偽って通ったので衛兵も騙され、別に怪しみもしなかったのは、慶喜自身が後年、回想録『昔夢会筆記』で語るところ「誠に幸運だった」という。



⚫︎ 大阪湾から船で江戸へ


1868(明治元)年1月6日夜、こうして慶喜らは大坂湾天保山で直ちに乗り込むつもりで船を探したが、以前は泊まっていたはず徳川宗家の軍艦・開陽丸が、今は薩摩藩の軍艦を追跡しているため、いなかった。


そこでアメリカ合衆国の艦艇に東帰を依頼しようとしたが、あまりに突然なので、まずフランス公使に紹介してもらうのがよいだろうと旗本・山口直毅をお使いにレオン・ロッシュのもとへ遣わすと、ロッシュは快く承諾して紹介状をくれた。


慶喜一行がロッシュの紹介状を携えアメリカ合衆国の艦艇に赴くと、フランス公使の紹介があったためか極めて優遇してくれ、酒・肴を出しもてなしてくれた。このときイギリス軍艦がきて、しきりに開陽丸の周囲を乗り回し、艦内を偵察するかのごとくだったため、軍艦頭並(副艦長)・澤太郎左衛門が「イギリス艦艇は、高貴な人がこちらにおわすらしいのを疑って、探りを入れているのに違いありません。しばらく隠れておられ給わりますよう」というので、慶喜らはしばらく船室に閉じこもっていた。


慶喜は東帰する開陽丸船中でも、紀州沖あたりで板倉勝静へ「予は、さきに会津藩・桑名藩の二藩や旗本などがどれほど騒ぎたっても、泰然として動かず、一歩も天皇の下を去るべきではなかった。だが大勢に抗する事ができず、『なんじらのなさんと欲するところをなせ』と放任し、遂に鳥羽・伏見の変を引き起こしたのは、くれぐれも失策だった。予は江戸へ着いたら、飽くまで天皇家へ恭順謹慎し朝廷からの裁きを待つ決心なので、なんじらもその心づもりであるべきだ」と語りきかせた。


板倉は「仰せの事もその通りでございますが、関東役人の見込みのほども承らなければ、まだ、にわかにはお請け致すのも難しい事でございます」と論じたてたものの、慶喜は断然として一向に恭順を主張したという。


1月8日の夜、開陽丸が大阪湾を出発、紀州大島をへて5、6里のころ、北西からの風が起きて刻一刻と猛烈になり、船は風に流された。船は普段の航路をとれなくなったため、蒸気をとめると由良に寄港しようとしたが、風任せに沖合へ流された。


暴風雨がやっとおさまった10日の暁ころ、一行の船は八丈島の北、5、6里の沖に漂っていた。船中の人々はだからといって安心もできず、その日の夕方にはなんとか事なきを得て浦賀湾に入りえた。慶喜は金200両をあたえ船員をねぎらった。11日には艦艇が品川沖に入った。慶喜は12日未明を待って、浜御殿に上陸し、午前11時頃には騎馬で江戸城の西丸に入った。


幕臣・勝海舟の日記によると、「11日開陽丸が品川沖に錨を下すと、使い(の船)が有り、あかつきころに(上様、慶喜公一向は)浜の海軍所に至った。そこで私は始めて伏見の顛末を聴いた。会津候(松平容保公)、桑名候(松平定敬公)ともに、上様のお供のなかにいらっしゃった。私は詳しいことを問おうとしたが、一同の顔色は土のごとくで、互いに目配せをするばかりで口を開く者はいなかった。わずかに板倉閣老(ご老中・板倉勝静翁)から鳥羽・伏見の戦いの概略を聞くことができた」と、ひどく沈んだ様子の、江戸上陸時の慶喜一行の状況だった。


慶喜はひとまず14日歩兵頭に駿府(現静岡市)警備、15日には土井利与(古河藩主)に神奈川(現横浜市)警備を命じ、17日には目付を箱根・碓氷の関所に配し、20日には松本藩・高崎藩に碓氷関警備を命令。さらに親幕府派の松平春嶽・山内容堂らに書翰を送って周旋を依頼するなど、さしあたっての応急処置を施している。


鳥羽・伏見敗戦にともなって新政府による徳川征伐軍の襲来が予想されるこの時点で、徳川家の取り得る方策は徹底恭順か、抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つの選択肢があった。


勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順や、軍艦頭の榎本武揚らは主戦論を主張した。小栗の作戦は、敵軍を箱根以東に誘い込んだところで、戦力的に勝る徳川海軍が駿河湾に出動して敵の退路を断ち、フランス式軍事演習で鍛えられた徳川陸軍で一挙に敵を粉砕、海軍をさらに兵庫・大阪方面に派遣して近畿を奪還するというものであったが、恭順の意思を固めつつあった慶喜の容れるところとならず、小栗は正月15日に罷免されてしまう。19日には在江戸諸藩主を召し、恭順の意を伝えて協力を要請、翌日には和宮親子内親王にも同様の要請をしている(後述)。


続く23日、恭順派を中心として配置した徳川家人事の変更が行われた。このうち庶政を取り仕切る会計総裁・大久保一翁と軍事を司る陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官となり、恭順策を実行に移していくことになった。


この時期、フランス公使レオン・ロッシュがたびたび登城して慶喜に抗戦を提案しているが、慶喜はそれも退けている。27日、慶喜は徳川茂承(紀州藩主)らに隠居・恭順を朝廷に奏上することを告げた。ここに至って徳川家の公式方針は恭順に確定したが、それに不満を持つ幕臣たちは独自行動をとることとなる。




一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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