壮絶なことになってきやがった。。
⚫︎ 神戸事件
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦、間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮(現・西宮市)の警備を命じた。備前藩では1月5日までに2,000人の兵を出立させ、このうち家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる480人(800人説もある)は大砲を伴って陸路を進んだ。
この際、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港に伴い、大名行列と外国人の衝突を避けるために徳川幕府によって作られた迂回路「徳川道」を通らず、西国街道を進んだことが事件の引き金の一つとなってしまう。
1月11日13時過ぎ、備前藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が行列を横切ろうとした。これは日本側から見ると武家諸法度に定められた「供割(ともわり)」と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長・滝善三郎正信が槍を持って制止に入った。しかし、言葉が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し、滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった。
これに対していったん民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲、銃撃戦に発展した。この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接する居留地予定地を実況見分していた欧米諸国公使たちに銃口を向け、数度一斉射撃を加えることに発展する。
弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした。銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか、殺意はあったが訓練不足により命中しなかったのかに関して欧米人の証言も一致していない。なお、備前藩兵の後続軍は前方での騒動に気付き、西国街道の迂回路である徳川道を通過し、事件と関わっていない。
イギリス公使ハリー・パークスは激怒し、折しも神戸開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達、アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなった。備前側では、家老日置が藩兵隊に射撃中止・撤退を命令、お互いに死者も無く負傷者もほとんど無かった。
神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、外国人居留地防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕した。この時点では、朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、伊藤博文が折衝に当たるも決裂するに至る。
1月15日、急遽、朝廷は開国和親を宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明、東久世通禧を代表として交渉を開始した。諸外国側の要求は、日本在留外国人の身柄の安全保証と当該事件の日本側責任者の厳重処罰、すなわち滝の処刑というものであった。この事件における外国人側被害に対して処罰が重すぎるのではないかとの声もあり、また、日本側としては滝の行為は、少なくとも「供割」への対処は武士として当然のものでもあったが、列強の強い要求の前に抗うことが出来ず、伊藤や五代友厚を通じた伊達宗城の期限ギリギリまでの助命嘆願もフランスのレオン・ロッシュをはじめとする公使投票の前に否決される。
結局、2月2日、備前藩は諸外国側の要求を受け入れ、2月9日、永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹させるのと同時に備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで、一応の決着を見たのである。
神戸事件は、大政奉還後に政権移譲を進めていた朝廷にとって初めての外交事件である。結果として諸国列強に押し切られる形で滝善三郎という1人の命を代償として問題を解決する形にはなったが、これ以降、明治政府が対外政策に当たる正当な政府であるということを諸外国に示した。また、朝廷がこのときまで唱えていた「攘夷」(外国を討ち払う)政策を「開国和親」へと一気に方針転換させた事件でもあった。
ただし、この「開国和親」表明は外交団に対するものであり、新政府内にも未だ攘夷を支持する者もいることから、国内に対してはその事実を明確にはしなかった。国内に対する正式な表明は翌年5月28日に行われた新政府の上局会議における決定によるものである。
この問題の行方によっては、薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされたことは日本史の流れにおいても重大な出来事であった。実際に神戸の大部分が一時外国軍などによって占拠されており、日本が外国の植民地になる可能性は大きかった。
この神戸事件の影響を受けて慶応4年1月14日に、土佐藩士の本山茂任が土佐藩へ運ぶ途中の「錦の御旗」を同じく三宮神社前で同じくフランス兵に奪われるという前代未聞の錦旗紛失事件が起きている。当時、神戸の大半は諸外国軍によって占領されていた事情を知らずに新政府の威信でもある錦旗を持って通過しようとしたところ、占拠中の武装フランス兵に誰何を受けて、蕃語と意思疎通を行えないままにフランス兵に錦旗を櫃ごと奪われるという大失態が起きたが、土佐藩士中島信行や長州藩士伊藤博文らが仲介しフランス公使へ陳情、ようやく錦旗を取り返しを行い、無事に土佐迅衝隊に届けた。
⚫︎ 堺事件
箕浦元章(猪之吉)率いる土佐藩六番隊は、鳥羽・伏見の戦い直後の慶応4年1月9日八つ時(午後2時)に京を出立、淀城に向かった。新政府軍総裁仁和寺宮彰仁親王警護の土佐藩兵先鋒と交代するためであったが、同日夜に淀城に到着した時は、仁和寺宮と警護兵は既に城を立ち大坂に向かった後だった。
軍監・林茂平(亀吉)の判断で六番隊は翌10日夜明けに淀城を立ち、淀川を下って、同日夜大坂で仁和寺宮隊と合流した。この時点で仁和寺宮の警護は薩摩藩兵に代わっており、六番隊は当初の目的を失ってしまった。
1月11日、六番隊の新たな任務が堺町内の警護に決まった。当時の堺は大坂町奉行の支配下にあったが、1月の大坂開城で大坂町奉行は事実上崩壊し、旧堺奉行所に駐在していた同心たちも逃亡してしまっていた。六番隊は即日出発し、その日のうちに堺に入った。
1月16日、箕浦の下に神戸事件の情報が入った。事件は箕浦を怒らせるに十分であった。箕浦はもともと儒学者で、その日のうちに箕浦は在京阪の土佐藩兵力を検討している。
神戸事件以外に箕浦を苛立たせていた出来事があった。1月17日、大坂の林軍監より「中国四国征討総督四条隆謌の姫路進発のため、堺の土佐藩兵の一部を大坂へ帰還させよ」との命令が出たのである。これでは任務を遂行できないとみた箕浦は、林に増援を求める書状を送り、さらに自ら大坂の軍監府に赴いた。箕浦の要求が通り、京から西村佐平次率いる八番隊が到着したのは2月8日である。
ロッシュを訪問していた極東艦隊司令長官ギュスターヴ・オイエ(フランス語版)は、2月10日の離日に際し、部下に浅瀬の測量を命じている。前年12月15日に大坂天保山沖でアメリカ海軍提督を乗せたボートが転覆し、提督らが溺死した事故を踏まえての指示であった。
要は「アメリカの二の舞いにならないよう、どこが深くてどこが浅いのか、波の様子はどうか、調べておこう」ということである。測量をするのに、一般の水兵の力はあまり必要ない。暇になってしまった彼らは、大坂の町に繰り出して遊ぶことにした。
言葉も通じないのに、恐るべき行動力というか。かなりテンションが上ってしまっていたらしく、フランス水兵たちは日が暮れても船に帰ろうとしない。ただでさえ外国人慣れしていない日本人が、警戒し始めるのも仕方のないことであり、住民たちは当時堺の警備を担当していた土佐藩士の警備隊に「偉人たちがうろついていて怖いので、何とかしてください」と訴えた。
通報を受けた警備隊は、フランス水兵たちに接触し、船に帰るよう促す。しかし、当然のことながら言葉が通じないため仕方がないので捕縛して連れて行こうとした。事の経緯が飲み込めないフランス水兵は、これまた当然のごとく抵抗。そこで土佐藩の隊旗を奪うという無礼に出てしまった。
言葉が通じないとはいえ、軍や国の旗を奪うというのは、相当失礼な行為である。しかもそれだけではなく、フランス水兵たちが逃げようとしたため、警備隊はやむなく発砲。そして起こった銃撃戦の結果、フランス水兵に多数の死傷者が出る。海に突き落とされて、溺死した者もいた。
遺体は16日に引き渡しを終え、死亡した仏水兵は11名で、いずれも20代の若者であった。殺害された11名は、神戸居留地外人墓地において駐日仏公使レオン・ロッシュ、駐日イギリス公使ハリー・パークスのほか、オランダ公使ら在阪外交官立会いのもとに埋葬された。
ロッシュは悲哀を込めた弔文を読み上げたが、それには「補償は一層公正であり、少しも厳しくないことはないであろう。私はフランスと皇帝の名において諸君に誓う。諸君の死の報復は、今後われわれ、わが戦友、わが市民が、諸君の犠牲になったような残虐から免れると希望できる方法で行われるであろう」という、復讐を誓った一文が込められていた。
事件発生の報は翌2月16日の朝には京に届いた。山内容堂は、2月19日早朝、たまたま京の土佐藩邸に滞在していた英公使館員アルジャーノン・ミットフォードに、藩士処罰の意向を仏公使に伝えるように依頼した。この伝言は淀川を下り、夕刻には大坂へ戻ったミットフォードにより、兵庫に滞在する仏公使ロッシュに伝えられた。
ロッシュは、同じく2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。5箇条の内容は、『堺市史第三巻 本編第三』777頁によると、以下の通りであった。
1. 下手人たる土佐藩隊長以下隊員を、暴行の場所に於いて、日仏両国の検使立会の上、斬刑に処すること
2. 賠償として、土佐藩主(山内豊範)は15万ドルを支払うこと
3. 外国事務に対応可能な親王がフランス軍艦に出向いて、謝罪の意思を表すこと
4. 土佐藩主も自らフランス側に出向いて謝罪すること
5. 土佐藩士が兵器を携えて開港場に出入りすることを厳禁すること
当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあった。一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。
時は折しも戊辰戦争の真っ最中。明治新政府の軍はほとんど関東へ行っており、話をこじらせるわけにはいかない。もし砲撃でもされたら、堺や大坂の町が焼け野原になってしまう。そうなれば、佐幕派や世間が「官軍って大したことないな」と評価を下げる危険性がある。
2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされる。
土佐藩は警備隊長箕浦、西村以下全員を吟味し、隊士29名が発砲を認めた。一方朝廷の岩倉具視、三条実美らは、フランスの要求には無理難題が多く、隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰する事を懸念し、処罰される者の数を減らすように要求。結局、政府代表の外国事務局輔東久世通禧、外国事務局掛小松帯刀、外国事務局判事五代友厚らがフランス側と交渉し、隊士全員を処罰せず隊長以下20人を処罰すること。処刑の時間および場所などをまとめた。
まず、隊長の箕浦、西村ら4名の指揮官は責任を取って死刑が決定。残る隊士16名を事件に関わった者として選ぶこととなり、大坂白髪町(現・大阪府大阪市西区北堀江)にある土佐稲荷神社でクジを引いて決めた。2月23日、大阪裁判所の宣告により摂津国堺材木寺町(現・大阪府堺市堺区材木町東)の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。
ここで土佐藩士たちは、最後の最後でフランス相手に意地を見せつける。なんと腹を切った後、自らの腸(はらわた)を掴みだして恫喝したというのである。元々、土佐藩士たちは職務に忠実な人々であった。彼らの横行を糺しただけ、という無念さが拭えなかったのであろう。
立ち会っていたフランス軍艦長であるアベル・ベルガス・デュプティ=トゥアールも、さすがにショックが大きかったようで、フランス側の死者と同じ11名の土佐藩士が切腹したところで、外国局判事五代友厚(才助)に中止を要請し、結果として9人が助命された。彼の日記には「このような処刑では、戒めではなく侍の英雄視につながってしまうから中止させた」とも「帰路で他の藩士に襲われることを懸念した」とも書かれている。
2月24日、外国事務局総督山階宮晃親王は、大阪鎮台外国事務兼務伊達宗城を伴ってフランス支那日本艦隊旗艦「ヴェニス」に行き、ロッシュと会見。明治天皇からの謝意と宮中への招待を述べた。そのとき、宗城とロッシュとの間に生存者9名についての話し合いがもたれ、仏側は自軍の死者と処刑者の数が同じことで満足し、9名の助命を了承した。
ロッシュは30日御所に参内(はじめパークスも一緒に参内する予定であったが、直前に京都市内縄手通りで堺事件に憤激した攘夷志士三枝蓊、朱雀操に襲撃されて取りやめとなり、翌3月1日に延期となった。)天皇からの謝意を受けた。こうして政府間の問題解決は終了することになる。また9人については29日に東久世通禧、伊達宗城、鍋島直大の連名で「・・・死一等ヲ免シ、其藩ヘ下シ置カレ候条、流罪申付クベキ事」という書面が土佐藩に30日付で下され、こうして残された9名の処置が決定した。
9名は熊本藩、広島藩に預かりとなっていた。処刑を免れた橋詰愛平ら9人は、土佐の渡川(四万十川)以西の入田へ配流と決まるが、皆口々に「我々は国のために刀を抜いた者だ。仏人の訴えで縛に就き、死罪を免ぜられ無罪となり帰国したのに、このうえ流罪とは納得できない」と不平を述べた。藩側は改めて朝廷の沙汰書を示し「ご処置は気の毒だが、枉げて承知してほしい。流罪といっても長期ではない」などと説得してようやく了解を得た。こうして、袴帯刀を許され駕籠を用いるという破格の処遇で入田へ向かった。庄屋宇賀佑之進預けとなり、その後明治新政府の恩赦により帰郷した。遭難したフランス人の碑は神戸市立外国人墓地に建てられた。
さすがサムライ。ハラキリ恐るべし。
こんなん見せつけられたらそりゃ侵略する気も失せますわな。。
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/神戸事件
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/堺事件https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2025/02/14/94738#google_vignette
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