ああ、クリスマスですか。戊辰戦争もこれくらい寒くなってからであれば東北有利だったのに残念ですね。とりあえず前回、斎藤一らによる「如来堂の戦い(ボロ負け)」は紹介しましたので、それ以降をパラパラめくってゆきましょう。
また、同時に「幕末維新ニュース」様の速報も入り次第、随時お知らせしてまいります。
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9/5 臨時ニュース
米沢藩 新政府軍に降伏
東北の米沢藩が、新政府軍に降伏の意を示し、奥羽越列藩同盟から離脱しました。米沢藩は、仙台藩とともに奥羽越列藩同盟の盟主を務めています。しかし、藩主・上杉斉憲の正室は土佐・山内家の出身で、土佐藩は以前から降伏を勧めていました。
新政府軍参謀で土佐の「板垣退助」らは、先月から米沢藩に使者を派遣するなどし、藩主の命は奪わない、領地の保全も検討するなど6つの条件を提示。これをうけ、きょう米沢藩は土佐藩を通じ、新政府に降伏の意思を伝え、奥羽越列藩同盟を離脱しました。
ところで、もう一つの盟主、仙台藩には昨日までに旧幕府艦隊を率いる「榎本武揚」が入り、藩主の「伊達慶邦」と会っています。
榎本には旧幕府のフランス軍事顧問団だった「ブリュネ」らも同行していて「奥羽越列藩同盟の将兵5万に西洋式の訓練を受けさせ、戦略を立てて戦えば新政府軍に勝てる」と慶邦に説きましたが、色よい返事はなかったということです。5月に30藩余りで結成された同盟ですが、離脱や敗戦で今や半分近くにまで減っています。
しっかりしろよ仙台! ずっとダセエぞ!
9/6 籠城14日目
佐川官兵衛、ゲリラ戦で糧道確保に奮闘
長命寺での敗北後、佐川官兵衛は城に帰らず、敵の宿舎を急襲して撃退させ、武器弾薬・食料を奪って籠城中の会津軍に送った。ここで確保した補給線がこの後の籠城戦に大きく影響し、約1ヶ月におよぶ籠城を可能にしたと言われている。
しかし、野菜は常に不足しており、玄米中心の食生活が病を引き起こす原因となっていたので、城の女性たちは隙をうかがい、命がけで自宅に野菜を取りに帰ったり、農家の元へ買い出しに行って調達していた。
野菜って大事なのね。
9/7 籠城15日目
誤報が生んだ悲劇、町野・南摩一族の自刃
砲兵一番組頭の「南摩弥三右衛門(なんまやそうえもん)」の母「勝子」は、家に幼子がいたので迷惑がかかると思い、籠城ではなく避難を選んだ。使用人の計らいでどうにか坂下まで辿り着いたところで、姉の「きと子(町野源之助の母)」家族と偶然出会う。
町野家の偵察の男から「城が落ち敵が迫っている」と誤報が伝えられると、もはやこれまでと自決を決心。勝子は弥三右衛門が籠城していると聞いていたので嫁の「ふさ子」には自刃を許さず、幼孫2人を連れて城に入るよう去らせた。
翌日、残った両家の8人は裏山へ登り、勝子は幼子2人を刺して自刃。町野家のきと子、源之助の姉、嫁やよ子、孫2人も自刃した。
(なお、町野源之助は会津戦争を生きながらえると名を「町野主水(もんど)」と変え、戦後の会津の名誉回復、旧藩士の救済、放置された戦死者の埋葬、慰霊、荒廃した会津の復興に尽力したという)
孫を刺し殺す気持ち、想像すらできない。。
9/7 臨時ニュース
新元号は「明治」の見込み あす発表
朝廷は、あす、これまでの「慶応」にかわる新しい元号を決め、発表する予定です。新元号は2つから3つの候補が用意されていて、古来の慣例に従い、形式的に天皇がくじを引いて決める体裁をとりますが、新政府関係者によりますと、新元号は「明治」で決まる見込みです。
あわせて新政府は、今年慶応4年の元旦に遡って「明治」とし、天皇が在位中は、途中で元号を変えないと定める方針です。新政府はあす改元の詔を出し、内外に新元号「明治」を発表する予定です。
ようやくこっからコロコロ変わらなくなるのね。
9/8 籠城16日目
明治と改元。飯寺村の戦いで多数の長岡藩士が戦死
この日、明治改元の詔が発せられる。
八十里越の難関を超えて若松に入った「山本帯刀」ら長岡藩兵は、未明より新寺村に敵が集まっているところを濃霧を利用して攻撃しようとした。ところが、慣れない土地で敵味方を見誤り、いつしか濃霧の中で自らが孤立してしまった。
次々に銃撃されて山本隊はほぼ壊滅。隊長の山本ほか30名余りが生け捕りにされた。敵将は帯刀を惜しんで降伏を勧めたが、まったく聞き入れないので翌日処刑された。
山本帯刀は、長岡藩の家老で、聡明にして果断、河井継之助の良き理解者であった。やがて戦争責任を負わされ、名門山本家は断絶するが、大正5年に元長岡藩主牧野家の願いで、山本家は復活する。その時、山本家を継いだのが後の大日本帝国海軍大将「山本五十六」である。
なんと。すごい知られてなさそげなトリビア。
9/9 籠城17日目
幕臣・大鳥圭介らが仙台に向け会津を発つ
大鳥圭介を総督、土方歳三を副将に結成した大鳥軍は、結城、宇都宮、日光など関東で戦い、会津藩を応援するも連戦連敗。母成峠の戦いでは、土方と防衛に出たが、会津藩は国境10数カ所に兵力を分散してしまったため、大鳥らの奮戦も虚しく突破された。
塩川に退却後、桑名藩主「松平定敬」に同行して米沢に応援を求めたが、追い返されてしまう。すでに米沢藩は降伏していたので、大鳥は仙台藩の援助を得るため会津を発つが、仙台藩も恭順の旗を掲げた。奥羽越列藩同盟の崩壊で新政国家の設立も夢と消えた。
どんどん降伏していきやがる〜
9/10 籠城18日目
佐川隊、河原田隊が反撃戦を展開。寝返り藩には制裁を!
前日9日、南山の農民たちが日向口から進軍した新政府軍に占拠されていた田島陣屋を奪還。これを期に佐川隊と河原田隊は、南山に戻り新政府軍との戦いを継続する。官兵衛は特に寝返った藩にはとことん容赦なかった。地の利を生かした戦いで田島・下郷から敵を一掃した。伊南川方面でも戦闘を優位にすすめ、越後方面に後退させた。
10日、津川から侵攻してきた新政府軍を迎撃。長時間激しく戦ったが抑えることができず、会津軍は熊倉まで後退した。これらの攻防は25日頃まで続き、村々で多くの農民が戦いに参加したという。
がんばれ寝坊助官兵衛!
9/12 籠城20日目
この日、撃ち込まれた砲弾の数1208発
様々な手記から籠城中の砲撃の凄まじさを窺い知ることができる。例えば「月見櫓にいた老人が敵軍の発した砲弾数を黒い点を打って数えていて、1208発あった」と後に山本八重が語っている。1時間に約50発も撃ち込まれていたことになる。
難攻不落の鶴ヶ城も空からの攻撃には対処できない。敵の榴弾は病室でも女性たちの部屋でも容赦なく爆発していた。特に大砲は凄まじく、生身が一瞬で消えたという。
女たちは窮地には自害する覚悟であったので死を恐れていなかったが、そんな気丈な彼女たちが最も心配したのが厠(トイレ)の時で、「厠に入っている時に敵の砲弾を受けたら婦人として最も恥ずべき醜態をさらさねばならない」と話していたそうだ。
トイレはパパッと済まさねば!
9/13 臨時ニュース
奥羽越列藩同盟 福島で会議
奥羽越列藩同盟の仙台藩と会津藩、庄内藩、旧幕府の要人らは、きょう会津の北にある福島藩に集まり今後の方針を話し合いました。加盟藩が半分に減った奥羽越列藩同盟では、仙台藩と並び盟主だった米沢藩が5日に降伏しています。
きょうの会議には仙台、会津、庄内の幹部や旧幕府の老中・板倉勝静、陸軍奉行・大鳥圭介らが出席し、「新政府軍と戦う」という仙台藩の意志を確認し、団結して会津の救援に向かうことを決めています。
しかし、仙台藩は縁戚の土佐藩から降伏工作を受けていて、藩主・伊達慶邦は苦渋の決断ながら新政府軍に降伏することを、きょう決めています。この決断を、福島会議の出席者は、まだ知らされていません。
同じくきょう、会津には新政府に降伏した米沢藩からの特使が訪れ、戦争継続か謝罪かを問う書状をもたらしました。会津藩内にも降伏をめぐり議論が生じましたが、強硬派の家老・佐川官兵衛が戦争継続を主張しています。
そんな中、あすには、新政府軍による会津鶴ヶ城の総攻撃が始まろうとしています。
おーい同盟っ! 助けろやっ!!
いや〜会津すごい粘りますな。あっさり負けないから逆にじわじわなぶり殺しの目に遭ってますが。それでも屈しない強さに敵も焦ってきてますね。あしたから総攻撃ですってさ。
しかし思うんですけど、これアメリカ南北戦争がまだ終わってなければこんなにも大量の武器が日本に入ってきてなかったわけで、そしたら会津もっと善戦してたんちゃうかと。そもそも、鳥羽伏見の戦いで幕府負けなかったんちゃうかと。いや、その前に第二次長州征討で薩長ボコボコにして終わってたのでは?
(で、討幕派を粛正して尊攘派も鎮めて慶喜が開国して貿易景気でみんなハッピーな新生グローバル徳川幕府になってたのでは?)
つくづく会津ついてなすぎ。泣
参考
https://blogs.mbc.co.jp/mbcnews/category/cat_ishin/page/9/
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