いやはや江戸創設期は、知らない人がゴロゴロ出てきて面白い。何だよ「三甚内」って。3人の甚内さんのことらしいが、誰よ甚内さんて。聞いたこともないわい。ってことで軽く検索してみたら、予想以上に興味深いトリオの話が出てきたので、メモっておこう。
● 日本橋富沢町の由来になった元忍者の古着商「鳶沢甚内(とびさわ じんない)」
江戸の初期は江戸城天下普請の一大建設ブームで、大名諸藩の若い労働者が地方から押し寄せていた。その一方、関ヶ原の合戦や大阪冬・夏の陣で主家を失った浪人、家を焼かれ田畑を失った農民、諸国のあぶれ者たちが仕事を求めて大量に流れ込んでいた。その中には落城した小田原北条や、甲斐武田の旧臣を名乗る野盗の群れが暗躍していた。
「鳶沢甚内」は相模国小田原城を本拠として関東地方に覇を唱えていた北条氏に仕えた忍者であったと言われている。しかし、その出自や活動実績について詳しいことは判っていない。(まぁ、隠密をもって旨とする忍者だから大っぴらな記録など残していなくて当たり前であるが)ともかく、天正18年(1590)に小田原城が陥落すると職にあぶれてしまう。
その後、仕官できなかった甚内は、かつて共に仕えていた「風魔小太郎(ふうま こたろう)」の部下として盗賊稼業を始める。
「へへっ……忍び込むのは得意なんでね」
手に職はつけておくものだ……と思っていたが、同じことを思っていた忍者崩れがたくさんいたようで、時代が下るにつれて同業者間の競合が激しくなっていった。人間、競合相手がいると切磋琢磨して自分を高めるよりも、手っ取り早く相手を引きずり下ろすことを考えるもので、風魔小太郎を密告する者が現れた。
かくして慶長8年(1603)に風魔小太郎は捕縛・処刑されてしまうが、鳶沢甚内はたまたまアジトに不在、運よく逃れることが出来た。しかし、それもつかの間、盗賊頭となった鳶沢陣内も捕えられ、徳川家康の元へ引っ立てられることに。
江戸の治安の乱れに手を焼いていた家康は「お前らが野盗の取締に手を貸したら罪を問わないから協力せよ」と伝えた。甚内は「それなら古着商の権利と土地を頂きたい。そうすれば盗品が見つけられるし、手下も生業に就けて盗みをしなくなる」と請願した。家康は「面白い」と、これを了承した。
幕府から拝領した古着商の地区を「鳶沢町」と名付け、甚内は町名主と古着商惣代に任命された。これが後に日本橋「富沢町」と改称して、繊維問屋の町として今も栄えている。江戸時代の庶民の普段着は古着が当たり前であった。麻、綿、絹といった天然繊維を糸にして織物にする過程もすべて手織りのため、衣類は高級品であった。
江戸のお武家様は出世や役付の度に、それに見合った着物を仕立て登城する。呉服屋や太物店で新品の反物を買い、仕立屋に持ち込んで着物に仕立てる。そして、お金に困るか、古くなると古着仲買人へ売る。その古着を店頭で庶民が買い、その古着は何回か売り買い毎に傷み、手頃な安価になっていく。大人が修繕して使い尽くすと、子供の着物に仕立て直す。着物の端切れは「端切れ屋」に売る。子供の着物が擦り切れてくると、継当てや雑巾、または下駄の鼻緒にする。
最後は竈の煮炊きで燃やして灰にする。その灰は「灰買い」に売り、酸性土壌を改良する肥料になる。江戸庶民の三大リサイクルは「古着、屎尿、灰」で、江戸時代がエコ時代と言われる所以である。貨幣経済が普及していなかった当時は、盗みも金より着物が主体であった。盗品の新品衣料は高く売れ、古着でも高く換金できた。江戸時代の絹織物は手織の高級品で一般には普及していなかった。普段着となった木綿や麻も量産が始まったばかりの衣類は貴重品であった。
幕府の認可を受けた鳶沢甚内の目論見通り、盗品の反物や着物を持ち込む者達も、古着屋は儲かる商売と、甚内より古着商の鑑札を得て、商売する者が増えた。商人の古着屋、回収業の古着屋、再生業の古着仕立屋が確立した。その千軒以上の同業組合に三千人が所属するようになった。
幕府の許可制で「古着買い、古鉄買い、古道具買い」には鑑札が必要であった。古着の仕入先となる回収業は、街を廻って古着を買取る「古着買い」がある。 これは二人一組で大風呂敷を肩に担いで街を回り、通りの両側に分かれ、歩きながら「古着、買いましょう」の掛け声で家の中の様子を窺う。 声が掛かれば、家の中に上がり込んで、話をしながら古着を買い集めて回る。
「竹馬古着屋」は、竹で組んだ四足の運搬具に古着や着物の修繕用の袖や襟などに端切れなどを下げ、棒手振りと同様に担いで町中を売り歩く行商人である。また、古着の縫いを解いて洗う和服の「洗い張り」や「染め直し」の技術は現在に受け継がれている。
古着というのはたいてい二束三文ではあるが、入手しやすい(≒盗みやすい)ので、その日暮らしの泡銭(あぶくぜに)を手っ取り早く稼ぎたい者が盗みを働き、売りに来ることが多い。
それが盗品か否か、盗品であれば本人が売りに来ているのか代理の人間が持ち込んでいるのか、売り手(買取希望者)の表情や身なり、仕草を観察していると、そういう情報を探り出すことが出来る。
また、よほど盗みに慣れた者でなければ他人の邸宅に忍び込んでモノを盗み出すというのは大変な苦労だから、それに見合った対価を得ようと(いかにこの古着が由緒ある高級品か、など)話に尾ひれをつけるもの。
人間、嘘をつくにしてもまったく一から空想をでっち上げるというのはなかなか才能がいるもので、嘘の中に散りばめられた真実=情報を拾い集め、丹念に織り上げていくのは元・忍者が得意とするところであった。
そういう諸々を総合して、売りに来たクロな者を「奉行所に密告するか」「まだ泳がせておいた方が得か」「優秀であれば召し抱えるorどこぞへ推薦するか」などを判断。
生活が苦しく、切羽詰まった人間の本性が垣間見える「盗み」の対象となりやすい古着を扱うことで、江戸や各地の情報や人材を集め、時にはこれらをネタに奉行所と取引したとも言われている。
情報を制する者は天下を制す……忍者から盗賊、そして(表向きは)古着屋として成功を収めた鳶沢甚内。
新たな時代の流れを読み、柔軟に適応できた好例として現代の私たちに教訓を伝えてくれる。
● 悪党なのに神になって祀られた忍者「高坂(向崎)甚内」
苗字は文献や作品により向坂、匂坂、幸坂、幸崎、高坂、神崎、鳥越、香坂 などとも記される。ここでは「高坂」で表記する。
甲斐武田家の宿将・高坂弾正の長男と称する高坂甚内は、主家復興を願い、その軍資金を得るため江戸市中を荒らす盗賊の頭目であった。実の高坂は武田家に仕えた甲州流乱波の頭領で諜報、破壊、謀殺を任務としていた。つまりは忍者である。
武田家が織田信長との長篠の戦いを皮切りに一気に力を失い、滅亡すると、高坂甚内は祖父に連れられて諸国を行脚することとなった。その途中、宮本武蔵に見いだされて剣を学び、奥義を究めた(とされているが本当かどうかは怪しい)。
その頃、東海道から江戸の治安を乱す相模足柄の「風魔一族」の所業に家康は手を焼いていた。風魔は小田原北条家に仕えた乱波の一派で主家を失い悪行の限りを尽くしていた。ついにこれら賊の悪事にこらえきれなくなった幕府側は、連絡をくれた者の過去の罪は一切問わないことを条件として賊に懸賞金をかけた。
同業の裏社会の忍者高坂と対立する風魔は、邪魔者でしかなかった。高坂は家康に接近して、風魔一族の動勢と複数の潜伏先を探り、幕府捕方に密告した。自分のやったことを棚に上げて、すべて風魔衆に罪をなすりつけ、幕府側に風魔衆の棲み家を案内したのだ。
慶長8年(1603)一斉の盗賊狩で、風魔一族五代目の「風魔小太郎」は捕縛、処刑された。江戸の治安が安定してくると、高坂は散り散りとなった風魔の残党などを掻き集め、裏社会で大きな力を持つようになった。江戸における盗賊は高坂甚内の独壇場になり、高坂甚内はまたも江戸で賊行為をやりたい放題。
幕府はついに高坂甚内の捕縛を命じた。高坂は関東一円を10年に渡り逃げ回っていた。そこに家康の配下になり、江戸の古着商を統括している元盗賊の「鳶沢甚内」が裏社会の動勢を把握しており、蛇の道は蛇で逃亡中の高坂の居所を突き止めた。慶長18年(1613)大盗賊の高坂甚内をついに捕縛。高坂は、流行りの瘧(マラリア)を病んでいて、剣豪の腕前も難なく捕らえられ、市中引き回しの上、鳥越刑場で磔刑になった。
高坂は刑場に引き連れられ、竹矢来を囲む見物人に向かって「ワシが捕まったのは瘧にかかったからじゃ。ワシが死んだ後、ワシを祀るがよい。瘧のある者はワシのところへ来ればきっと治してやろうぞ!」と叫んだ。
この一声から高坂甚内は、熱病「瘧の神様」に祀られ、人々は蔵前の鳥越神社近くに小祠「甚内神社」を築いた。江戸の庶民は瘧になると神社に詣で甚内に祈り、現在も信仰されている。また近くの鳥越川に架かっていた「甚内橋」と刻んだ遺蹟がある。
いかにも無秩序と混乱の江戸初期の姿を伝える話である。家康の江戸入府後の刑場四変遷は、日本橋本町四丁目から、麻生材木町と、この鳥越刑場である。正保2年(1645)聖天町西方寺前、慶安4年(1651)江戸北の日光街道千住宿南に小塚原刑場を開設した。一方、元和2年(1616)に東海道江戸の入口芝口門を設け、芝口札ノ辻刑場を置いた。
後の宝永7年(1710)札ノ辻より700m南に置かれる高輪大木戸付近に芝高輪刑場を併設した。札ノ辻と芝高輪の両刑場が手狭になり、慶安4年(1651)江戸南の東海道品川宿入口に鈴ヶ森刑場を開設した。また、江戸西の甲州街道・八王子に大和田刑場が置かれた。江戸の刑場は常に町外れの街道に面して、見せしめのため置かれるのが決まりで、江戸の拡大発展と町外れの所在の変遷が見て取れる。
忍者から盗賊に墜ちるケースは多いが、意外と後世になって人気が出ているのも不思議なものだ。盗賊だった高坂甚内は完全に悪党であったはずだが、それが神になってしまう八百万の精神は、おそらく日本独特なものであろう。
いや〜、面白い。実に面白い。面白いから長くなってしまった。ので、3人目の甚内さんについては次回にしよう。
参考
https://wako226.exblog.jp/241258464/
https://mag.japaaan.com/archives/149464
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