vol.218「宇都宮釣天井事件」について


ついこないだ、vol.212「家康の妻と子供」について(前編)でも触れたのだが、今ドハマりしているWEB記事様が、この事件について詳しく記してくれていたので、あらためて転メモさせていただきつつ、理解を深めようかと。ありがたや、ありがたや。


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● 事件 


事件が起きたのは元和8年(1622)4月16日のことであった。

江戸幕府始祖にして、前将軍である徳川家康の七回忌を翌日に控え、二代目征夷大将軍・徳川秀忠は下野日光にいた。日光には言わずと知れた日光東照宮があり、そこには家康が「東照大権現」として祀られている。命日である4月17日に参拝した後、秀忠は宇都宮城で一泊して江戸に戻る予定だった。


その直前に驚愕の密訴が寄せられた。

それは、「宇都宮城の普請に不備がある」というもの。密訴してきたのは宇都宮藩藩主「奥平家昌」の祖母「加納御前(亀姫)」で、彼女は将軍秀忠の長姉でもあった。


その宇都宮城の城主は、宇都宮藩15万5000石の主「本多正純」だった。本多家は三河松平家譜代の臣で、正純の父「本多正信」は家康の友とも言えるほど親密だった人物。秀忠が将軍に就任した際は、正信が補佐を務め、大御所となった家康には正純が側近として近侍した。


そんな本多家の居城で事件が起きるとは尋常ではない。秀忠は、「内容の真偽を確かめるのは後日」とし、4月19日に「御台所が病気であるとの知らせが来た」として称し、予定を変更して宇都宮城を通過して壬生城に宿泊し、21日に江戸城へ帰還した。


「怪しきところ有り」とされた宇都宮城に秀忠が立ち寄らなかったので、事件そのものは起こらず、死者は勿論、怪我人すら出ず、表向きは「上様が急遽予定変更して急ぎ江戸に戻った」というだけの話だった。


だが、訴えた者が訴えた者で、訴えられた者も訴えられた者だっただけに、実体無き事件の処分は苛斂誅求を極めた。




● 讒言者 


「宇都宮城の普請に不備がある」と徳川秀忠に密訴したのは上述通り、加納御前だった。

彼女の母「築山殿」は家康の正妻で、同母兄の兄「信康」は本来なら家康の後を継ぐべき男だった。そして彼女自身は、徳川家と武田家の間に挟まれた地方豪族「奥平貞昌」に徳川家への臣従と同盟の証として嫁いだ。貞昌は居城・長篠城にて武田勝頼の侵攻を良く防ぎ、長篠の戦いの勝利に大きく貢献したことで織田信長・徳川家康の二英傑から多いに賞され、信長の「信」の一字を与えられて信昌と改めた程だった。


直後、不幸にして亀姫の母・築山殿と兄・信康は武田家との内通を疑われる形で家康に誅殺された。


その後、時代は流れ、奥平家は松平の姓が与えられ、徳川一門に準ずる家格が与えられる。信昌は、関ヶ原の戦いにおける論功行賞として美濃加納10万石の藩主に就任。これにより亀姫も「加納御前」と呼ばれるようになった。


信昌は側室を迎えることなく、加納御前との間に四男一女を授かる。加納御前に対する父・家康の寵愛は大きく、奥平家は嫡男にして家康初の男孫である「家昌」が宇都宮藩主となり、三男「忠政」が加納藩の後継者とされ、早世した次男を除いて三人の息子全員が大名に取り立てられた。


だが、徳川家の天下取りが王手をかける頃、彼女に不幸が相次ぎ、それが宇都宮釣天井事件の遠因となった。


加納御前の一女は、徳川家累代の家臣「大久保忠隣」の息子「忠常」に嫁ぎ「忠職」を生んでいた。しかし、娘婿・忠常は不幸にして早世。そしてその翌年、娘の義父である忠隣が「本多正信・正純」父子との対立から失脚した。

これを「大久保長安事件」という。

大久保家の側近であった金山奉行「大久保長安」の急逝直後に発覚した黄金横領事件で、長安の七人の息子全員が切腹を命じられた。長安の遺体も棺から引きずり出されて磔にされるという苛刑が執行された。その監督不行き届きを咎める形で、忠隣は改易となった。


そのやり方は、忠隣が幕命でキリシタン取り締まりの為に上洛した隙を突く形で為されたもので、忠職も蟄居を命じられた(蟄居で済んだのは彼が加納御前の孫で、家康の曾孫だったから)。


加納御前は、本多父子の大久保家に対する仕打ちを深く恨んだとされている。それでなくても本多正信は、浄土真宗への信仰から「三河一向一揆」に加わったことで家康と袂を分かったのを、大久保家の執り成しで帰参していたから、本多家が大久保家と事を構えること自体、恩を仇で返す重大な意裏切り行為と多くの人々が捉えていた。


ただ、それでも父・家康の存命中は、彼女も大人しくしていた。女性の地位が低いこの時代、父に向って政治や人事に口出しするのは大いに憚られたと思われる。しかし、元和2年(1616)4月17日に家康が薨去すると、彼女は家康の子孫の中では最長老となっていた。


父・家康が世を去った時点で、母・築山殿、同母兄・信康は37年も前に鬼籍に入っていた。そして、秀忠から見ても、次兄・結城秀康、次姉・督姫も故人で、長姉・加納御前は、唯一人の年上の身内だった。


加えて奥平家にあっても、夫・信昌が家康薨去の1ヶ月前である慶長20年(1615)3月に世を去っていた。不幸にして信昌逝去の8ヶ月前に信政の後を継いで藩主となっていた三男・忠政が、その3ヶ月後には嫡男の家昌が若くして亡くなっていたことで、彼女は図らずも奥平家のゴッドマザーとして二人の孫を後見する立場となり、徳川家・奥平家・松平家のお局様と化していた。


さすがに二人の息子、夫、父を相次いで亡くしていればその衝撃が大きかったと思われる。それを考慮すれば、七回忌というタイミングで、嫡男・嫡孫が藩主を務めた宇都宮を舞台に、彼女が本多正純への報復を図ったとしても全く不思議な話ではなかった。


そして元和5年(1619)には、動機となる事件もあった。嫡孫の宇都宮藩主「忠昌」が、12歳にして下総古河藩に転封となったのだが、替わって宇都宮に入って来たのが恨みある本多正純だった。もちろん加納御前はこれに激怒した。




● 注進と処断 


4月21日に江戸城へ帰還した徳川秀忠は、即座に事の真偽を確かめに掛った。

既に2日前の19日に「井上正就」を宇都宮城に派していたが、宇都宮城に不審な点はなく、本多正純から謀反の証拠となるものが出てくることもなかった。


しかし、正純は裁かれた。

4ヶ月後に正純は「最上騒動」で改易となった出羽山形藩に山形城接収の為同地へ赴いた。秀忠は、山形にいた正純に家来を派し、「鉄砲の秘密製造」や「宇都宮城の本丸石垣の無断修理」、更には「宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策した」など、十一ヶ条の罪状嫌疑を突きつけさせた。


これに対して、正純は毅然として明快に釈明したが、後出しジャンケンの様に三ヶ条(「城修築時に将軍家直属の根来同心を処刑した」・「鉄砲の無断購入」・「宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をした」)の詰問が追加され、それには適切な弁明が出来なかった。


ちなみに、幕命で出張中の正純を難詰して裁いたやり方は、過去に本多正信・正純が大久保忠隣を裁いた時と同じ手順で、このことが「事件は加納御前による報復」と囁かれる一因になっている。


結果、「先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽由利に5万5000石を与える」という減封処分が下ったが、謀反に関して身に覚えのない正純は、様々な意味で納得せず、これを固辞。報告を受けた秀忠は、それを待っていたかのように激怒し、本多家は改易となり、正純の身柄は「佐竹義宣」に預けられ、出羽由利への流罪となった。


出羽由利から更に出羽横手へと移された正純は、息子・正勝とともに幽閉の身となった。

普通、流刑は追放刑なので流された地から離れられないことと、ある程度の監視があることを除けば、行動は自由だったのだが、正純親子の場合、逃亡防止の為に住居を板戸で完全に囲われ、日も差さない状態で、座敷牢に入れられているに等しかった。


そんな過酷の環境下で寛永7年(1630)に正勝が35歳で父に先立って病死し、正純自身も7年後の寛永14年(1637)に病死した。享年73歳。




● 真相と悪質度 


まず、いちいち触れるの馬鹿馬鹿しい(それでも触れるのだ)が、釣天井を用いての徳川秀忠暗殺計画など全くのでっち上げである。というか、事の真偽がどうあれ、裁く側が本気で暗殺計画を採り上げるなら本多正純は良くて切腹、悪ければ打ち首だった。


上述した様に秀忠自身、井上正就の調査でも宇都宮城に不審点はなく、正純に叛意が無かったのも把握していた。


ただ、正純は多くの人々に嫌われ過ぎていた。


父・正信の代からの家康からの寵愛が妬まれた面もあれば、福島正則改易を初めとする辣腕振りが恐れられ、嫌われた面もあった。「正信帰参」執り成しの恩がある大久保家への裏切りに等しい陥れも正純の評判を落とし、何より父・正信に続いて直諫を繰り返す正純を秀忠自身、その実力・功績を認めざるを得ないだけに余計疎ましく思っていた。


事件がでっち上げで、正純が何の咎も無いのに改易にまで追いやられた悪質さは、10段階評価で「15」をつけたいところである。しかし、本当にこれをすべて加納御前が仕組んだかどうかは疑念が残る。


勿論、彼女が本多家を怨んでいたことに疑いの余地はない。目上の身内に逆らえない秀忠の性格を考えれば加納御前が秀忠をせっついた可能性は充分にある。


ただ、普段美濃加納に籠っている彼女が、弟とはいえ秀忠をここまでコントロール出来るか、またここまでのでっち上げを主導で来たかは疑問である。


実際、宇都宮釣天井事件の黒幕は「土井利勝」とする説もあれば、無実と分かっていて裁いた「秀忠本人」であるとも考えられる。また、上述した様に内外に正純を怨む者は多く、その怨みの多さを勘案した結果、かかる苛斂誅求となったかの姓を考慮すると、事件の悪質さを加納御前一人に帰するのも躊躇われる。


いずれにせよ、事件及び正純失脚は、完全な冤罪による陰謀である。

ようやく訪れた元和偃武の世に、このような陰謀が成されたのも質の悪い話だが、それに多くの人間が加担した可能性があることを思うと、より質の悪い話と言えよう。

否、泰平が来たからこそ報復が始まったのであろうか?



否、泰平が来たからこそ報復が始まったのであろうか?

素晴らしいシメの一文。

そして内容も超面白い! 陰謀ミステリー小説じゃないですかい。


一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

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